命の重さ、はかなさ、尊さのお話・・・
2008-02-21(Thu)
所詮お玉なブログです。だから、命の話なんぞ書いても、馬鹿にされることはあっても、それに正面から書いてくださる批判意見なんてないと思っていました・・・
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こっちは、まだ何とか一位です~~m(_ _)m
お玉が昨日書いたコメントはこれです。
ウヨな若者で、思いこみで勇ましいことばかり言っている人を諭してくれるのはできれば右派の方のほうがいい・・
にもかかわらずその役割は果たしてくれない・・
また、右派の中にいる今の日本を憂う人たちの意見・・それに耳を傾けない、意見を謙虚に聞かない人たち(スルーしてるのか)・・そんな人に左翼が意見すると、そのお行儀にだけ云々する・・
おかしいと感じるんです。
命の重み・・それをリアルに知らずとも考えられるだけの想像力をみんなが持つべきでしょうね。命の重みを考えるのに資格なんてもちろん入らない。でも、ここに来ているお玉批判者ってそこをどのように考えているか良く掴めない。それはお玉だけですか?
このごろ特にひどい気がします・
~~~~~~
さて・・・KYさんが書いてくださったコメントは・・
お玉様
>命の重み・・それをリアルに知らずとも考えられるだけの想像力をみんなが持つべきでしょうね。
正直に言うと、命が『重い』ものだとはあまり思えないのです。
『大事』なのは分かります。自分が死んだらそれで終わりですし、自分の大切な人間が死ねば悲しい。
でも自分のよく知らない人は同じではない。相手にとっても多分それは同じで、自分は大事な存在ではないだろうし。
相手にも同じように誰か大切に思う人がいて思ってくれる人がいる、それは分かるけれども、それよりも『自分の大切な人たち』のほうが大事。
人は皆平等、それは大事だけれど、まず自分の大切な人を幸せにしたい。そのためなら結果として他人を傷つけてしまっても構わない。それが罪だと言うのなら、その罪は甘んじて引き受けます。
>命の重みを考えるのに資格なんてもちろん入らない。でも、ここに来ているお玉批判者ってそこをどのように考えているか良く掴めない。
命が『重み』を持っているのは先進国の、それもある程度豊かな階層だけで、そうでない人々の命など鴻毛のごとくに軽い、と思います。
そんな『命が軽い』国が自分たち『命の重い』国と同じように判断するとは信じられない。だから軍隊も必要なのではないか、と思うのです。
~~~~~~~~~~~
正直に書いてくれているのだと思います。だからできるだけ正面から答えてみたいとお玉は感じました・・
KYさんがいわれている、自分の大切な人が何よりも大事・・わかります。お玉もそうです。全ての命が平等などと偉そうに言ってはいても、究極に追い込まれれば、お玉は自分の大切な人の事を優先するだろうと思う。
自分の大切な人たちが危険にさらされたとき・・他の命を犠牲にすることで助けられるとすれば、お玉は人を殺すかも知れない・・・・と言うことは、ずっと以前にも記事に書いてます。そう、お玉自身、一生人を殺さないと言う確証が持てないから誰にでも罪を犯す危険があると思うからこそ「死刑制度」には反対しているのです。お玉もKYさんも同じ事を言ってるような気がする。
ただ、お玉の方が「きれい事」をいえる偽善者だから、そこをごまかしつつ、「命の重み」を感じて欲しいという言葉も出てくるのかな。ヒョッとしたらそうかもしれない。
でもね、あなたがあなたの大切な人を思うように、あなたの知らない誰かも大切な人のことを思っている。だから私の知らない誰かも、「大事な人」なのです。
先進国のある程度限られた階層の命だけが重いのか・・・・そうね、政治家達はそう思っている人が多いような気がします。安倍元首相の言っていた「美しい国」なんぞは、その限られた階層にだけ存在する命のためのものかな?などとお玉には思えていたもの。
でもね、KYさんが思う命の軽い国の方が、実は人を大事に思う気持ちが深いような気がします・・それはお玉の僅かに持っている経験だけで言ってる、あなたから見たらばかばかしい話かも知れないけど・・・・
一部の人間の命だけが重いはずの先進国よりも、乳幼児死亡率の高い国や紛争を絶えず経験している国の方が、命のはかなさを何度も経験しているだけに、その重さを知っているのだと思うのです。
日本にいたら人なんて滅多に死なない。年を取って自分の身内が死んだり、病気で死ぬことはあっても、子供はまず死なない。だから多くの若い人は「死ぬ」と言うことを知らないまま大人になりますよね。
長くなるので、ここでいったん切りましょう・・
他の常連平和主義者にも考えて欲しいテーマだと思って敢えて、記事にしました。
ここから逃げていたらだめだと思うから・・・・たとえ、分ってもらえずとも書かねばと思ったから・・
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コメント
思い出しました。昔から考えていた事ですが、平和を守る為に必要なのは、
武器ではなく、報道の自由であります。
いかなる国も、ジャーナリストの取材を妨害してはならないという国際法を制定すべきです。
そう、変なことをする国は、ジャーナリストに見張ってもらいましょう。
ジャーナリストを殺害したり、取材を妨害する事は侵略であるとして、ICCで裁いてもらいましょう。
お返事ありがとうございます。
>『愛』というプライベートな気持ちを利用すべきでない・・・
これは、その通りです。
初めて? 意見が一致しましたね(笑)
>『ルール』と『システム』で平和を実現・・・
これも、その通りです。
ただ、その『システム』を保証するものが必要なのです。
>各国の警察で十分・・
軍隊はいらない・・・
う~ん・・その警察が攻めてきたら、どうしましょう?
アメリカ、ロシア、中国・・・みんな警察が強そうです・・あっ!あとコスタリカも(笑)
>世界各国が平和条約を締結し・・
え~・・これも、その通りなんですよ。
ただ、それが不可能なので、どうしましょうか・・・・となっているのでは?
もし、世界中の人が全員カークさんなら、すぐにでも実現できますし、私も賛成しますが・・・・って、私もカークさんになってるから、賛成するまでもないですね(笑)
>日本は既に9条で行っています・・・
これまた、その通りですね。
ただ、憲法が制定されて60年・・・あとに続く国が、ほとんど出てこないのは、何故でしょう?
世界にカークさんは、少ないようです・・・・
田柄さん
>もし、日本に警察が無くなり、犯罪者が逮捕も起訴もされなくなったら?
一部これは実現してますね。というか、昔からですかね。
米兵が犯罪を犯しても、基地に逃げ込めば逮捕も起訴もされないしね。
貴方の考え方だと、アメリカ軍を自衛隊が攻撃するって事になるんですかね。
もちろん、コレはイヤミですげとね。
>人々の『愛情』や『モラル』で、社会が維持できるのでしょうか?
私は「愛」という個人のプライベートな気持ちを利用すべきではないと思ってます。
これは愛国心に反対することと同じ理由です。
世界中の人たちをガンジーやマザーテレサにする事はできないですからね。
「ルール」と「システム」で世界平和を実現しなくてはならないでしょう。
>国際社会には、警察は存在しません。
ですから、それぞれの国が自衛しています。
私は各国の警察で十分だと思いますよ。
軍隊は要らないのです。
世界各国で平和条約が締結されて、
各国の憲法、法律において、武力を持たないという約束を
その国の国民が世界に対して宣言すれはよのだと思います。
日本は既に憲法9条によって行っていますがね。
例えば、日本も加盟している希少動物を守るための「ワシントン条約」では
それを実行する為に、日本は「種の保存法」を作って、この法を守る事で、
ワシントン条約を日本の国民が守っているわけです。
う~ん・・この場合、囚人同志がコミュニケーションをとっても、結果は変わらないと思います。
どんな約束をしても、相手が履行するか判らないですからね。
囚人のジレンマが成立しなくなるのは、約束不履行に対して、制裁を加えられる場合です。
これなら相手を信用できますね。
約束を破れば、殺される・・・この状況で自白する囚人はいないですから。
現実の世界では、『武力』によって『信用』を担保しています。
個人間では『警察』、国家間では『軍隊』です。
もちろん、これだけではありませんが、『武力』が最大の担保でしょう。
もし、日本に警察が無くなり、犯罪者が逮捕も起訴もされなくなったら?
人々の『愛情』や『モラル』で、社会が維持できるのでしょうか?
国際社会には、警察は存在しません。
ですから、それぞれの国が自衛しています。
国連もありますが、常任理事国が拒否権を持ってる以上、信頼できないですしね。
人が、他人を純粋に信用することは出来ませんから、信用できる仕組みが必要です。
個人であれば、相手を殺せば逮捕される。
国であれば、攻撃すれば核ミサイルが飛んでくる(笑)
銃を突き付けあって、初めて安心できる関係もありますよね。 まぁ、暴発する恐怖はありますが(笑)
>囚人のジレンマのミソは、二人の囚人が切り離されていることでしょう。二人の囚人のコミュニケーションが不可能なんですよね。コミュニケーションを持てばよいと思うのですよ。
これは確かにそうです。ただ、どの程度しっかり意思疎通し、どの程度相手を信用できるか、それが問題です。相互軍縮を行い、軍備放棄が可能になるような信頼関係を築くことは著しく困難です。現に世界の殆どの国が自国で軍備を保有しています。
>暴力を持たない、というのが理想だけども相手が武力を放棄してくれるかわからない、結局命は惜しいから武力を持たざるをえない、そこがジレンマなんです。
囚人のジレンマのミソは、二人の囚人が切り離されていることでしょう。二人の囚人のコミュニケーションが不可能なんですよね。コミュニケーションを持てばよいと思うのですよ。
互いに軍備の監視官を交換すれば良いんですよ。
あなたは国家を、他をもって代えがたい要素と認識しているわけですね。
私にとってそれは自然人のみであるので、根本的な認識の相違が存在することが確認できました。
なるほど。
私などは、経済が破綻して何が安全保障かと考えるわけだが。まさか北朝鮮のようになっても国は守るべき、なんて考えてるわけでもなさそうだし。
まあいいや。
>エコノミーポリティクスとパワーポリティクスとでは、同じ論理モデルでも意味が逆転するのかな?
パワーポリティクスを重視する人は基本的に囚人のジレンマ(安全保障のジレンマ)に対し悲観的な見方をするでしょう。
>ただ、相手が攻めてくるかもしれないから軍備が必要、という理論は、状況のとんでもないエスカレ-トを招きそうで、あまり好ましいとは思えないな。
>ソ連の経済はそれでこけたんだし。
安全保障(自己の生存の確保)は経済より優先されるということでご納得いただけませんか。国を主体として見ると、自分が滅んでしまえば経済的利益も何もありませんから。
「囚人」という語は単なる比喩以上の意味はもっていない。これは利己的な選択はかえって利を損なう、という論理モデルじゃなかったっけ?
ブロック経済で得られる利益を100とする。
貿易を行うことによって得られる利益を輸入-10、輸出+20とする。
関税によって得られる利益を+15とする。
片方がブロック経済であった場合、輸入される資産への対価と、それにかかる関税によって総計105の利益を得、もう片方は相手側から輸入する資産がないため利益は80になる。理論上は輸出によって金銭的資産(外貨)が+20されるはずだが、そもそも相手側は貿易を行っていないので使いようがない。
双方が自由貿易を行った場合、どちらも90+20(+15)の利益を得る。将来的には関税を廃止し、活発な貿易によってより大きな利益を生む。輸出入の数値を倍にするなどすればよくわかる。
……こんな感じ。
もちろん『数値の設定でいろいろ弄れるじゃないか』という批判は、このモデルに対しては、正しい。
ただ、このモデルは簡潔すぎて、加工によって発生する付加価値、輸送によって発生するコスト、需用によって変動する資産価値等、経済の複雑さを全く考慮していない。
現実にはもっと劇的な差が生じる。
理論上の最大利益を得るためには自らの利益だけでなく、他者の利益にも配慮して予測し、行動する必要がある。誰もがそのように考えて行動すると仮定するならば(そしてその仮定は、誰もそのように考えて行動しないと言う仮定と同程度には妥当である)、自身の利益のみの最大化を求める行動は非合理的なものとして駆逐される……
実際世界各地で自由貿易協定は締結されてるわけだし、他者の利益を考慮して行動することは別に絵空事でもなんでもない。
エコノミーポリティクスとパワーポリティクスとでは、同じ論理モデルでも意味が逆転するのかな?
ただ、相手が攻めてくるかもしれないから軍備が必要、という理論は、状況のとんでもないエスカレ-トを招きそうで、あまり好ましいとは思えないな。
ソ連の経済はそれでこけたんだし。
人生アウトさんの「生命への情愛」から思いついたことがあります。誤解かもしれませんがこの「生命への情愛」を「利己」=「利他の及ぶ範囲」と受け止めました。
右派、左派の争点はこの範囲をどこに設定するかによって起こっているように思いました。この範囲を人類全体にまで広げたのが左派の方々であり、個人にまで縮めたのが新自由主義の方たちのように考えられます。さしずめ保守の方たちは国というところでしょうか。細かいところを捨象したかなりおおざっぱな見方ですが。
私は家族への情愛は、他人が全く同じではないが同じように感じる(借りる)ことはできると思います。思想、社会、家族制の変化などで変わるものだと思います。ですから「生命への情愛」の及ぶ範囲は不可侵ではなく、設定するべきものだと考えます。
私の理想は利害やジレンマを極力含まず、自給自足可能なといったところです。世界、国家はもちろん大きすぎます。村、町内会くらいがちょうどいいと考えますが、まだ少し先の世界のようです。
>カークさん
あまり「囚人」という字に囚われずにモデルとして考えてください。自分が「武力に囚われないんだ!」と宣言して武力を放棄しても周囲が同じようにしなければただ蹂躙されるだけです。それが嫌だから、自己の生存だけは譲れない最低限のラインだから、ということで武力を持つ。
暴力を持たない、というのが理想だけども相手が武力を放棄してくれるかわからない、結局命は惜しいから武力を持たざるをえない、そこがジレンマなんです。カークさんは自己の生存、自分の命を最優先事項としないのですか?
>全体を見られないうちは、単なる自己中心でしかないと思います。我々は「人類」に属しているのです。
まる出し馬鹿さん、私は自己中心で構わないと思います。誰だって自分の命は惜しいでしょう?そう簡単に人類皆兄弟みたいな考えで動くことはできないなあ…
他人の目を通して世界を見る。複数の他人の目を同時に借りる。
音楽好きの人の耳を通して聴くことで、「私」はより多くの音を聞くことができるようになった。
科学好きの人の目を通して世界を見ることで、「私」はより多くのモノを見分け、利益を得た。
それがゲーム。
でも、ただ一つだけ「借りる」ことのできないものがある。それは生命への感情。
私はどんなに頑張っても、他の人が家族の命を大切に思う気持ちを「借りる」ことはできない。私の家族への思いを、他者に共有してもらうこともできない。
それでいい。ただ一つ、命への情だけが、「私」や「あなた」や「彼ら」を固有の存在ならしめる。
だったら先のゲーム論法を使って、お互いがお互いの腹を探りながら世界を構築し、でも生命への情愛だけは不可侵にすればいい。それでやっていける、と思うのですけれどね。
まる出し馬鹿さんのレスに、「おお成る程!」と思ってしまいました。同じようなことを考えていたもので。
固有の「私」なるものは、時代や社会によって無作為に埋め込まれた、既製品の集合体です。「私」が「このように」考えるのは、固有の私が特別な何かを持っているからではなく、時代や社会から流入したモノモノの偶然の反応に過ぎません。
これは「私」のみならず、「あなた」や「彼ら」にも同じことが言えます。
だから、「私」を構成している諸々を一度分解し、時に「あなた」時に「彼ら」になってみる。面白っ!
あ、これ、仕事や試験でも有効です。相手が何を何故考えているのか、相手の目線から知っておく。将棋を指す時、相手の立場から盤上を眺める。有効。
「囚人のジレンマ」、これを私は何度か目にしてきました。古くは15年以上前かな?
亜種である軍縮か軍拡かのゲームも…(正式な名前は忘れました)
その軍縮ゲームを思いだし、今になってはっきりわかったのですが、その視点が変えられるという事です。軍縮ゲームではA国から見たB国、B国から見たA国の相対価値のみが言及される中、私は前回から見た今回、今回から見た次回の視点で見ていました。これが多国で多次元の形になっても、世界全体、地球全体で見ていたのです。
我々日本人は日本という国に属し、日本の利害という視点で判断してしまいがちです。しかし我々は人類というものにも所属し、過去・現在・未来という視点で判断することもできるはずです。
ここで囚人のジレンマに戻ります。我々は囚人の視点で物事を見ています。でも、何故我々は最初から囚人なのでしょうか。警察の視点から囚人どもを見てはいけないのでしょうか。我々は囚人では無いはずです。だからと言って警察でもありませんが。全体を見られないうちは、単なる自己中心でしかないと思います。我々は「人類」に属しているのです。
話が「命」から外れ過ぎたと思うので無理矢理戻しますが、私はもっと単純に考えます。先日祖母が他界しましたが、その死に顔はとても安らかで、ただ眠っているだけのようでした。私は誰もがそういう顔で死んでいける社会にしたい。それだけです。
>思考を放棄すればジレンマを感じずに済む…こりゃ傑作だ。囚人のジレンマの肝が何もわかっていませんね。
思考ですか、武力と言い替えていただくとありがたいです。
しかし、後はその通りです。わかっておりませんでしたが、お玉さんの次の記事で理解いたしました。お玉さんに感謝します。
>KYさんが教えてくださった、囚人のジレンマ、なるほど・・信じていても裏切られるかも知れない
・・だから裏切られても良いように、自分も相手を裏切れる準備をしている・・・
要するに、武力に囚われた人たちのジレンマと言うことでしょう。
武力に頼る限り、そのジレンマからは逃れられないのでしょう。
理解しても私の答えは同じです。武力から開放される事のみが疑心暗鬼から開放される唯一の道で有ると思います。
ちょっとよくわからないのですが、説明してもらえませんか?以下の点です。
「協調と友愛が保障されているのは『自分の共同体』の中でだけです。なぜなら『自分の共同体』に属さない人間は自分たちの生存にとって最大の脅威(同じえさを消費し、同じ生活空間を占有する)なのですから。これは生物というものが有限の空間を占有し有限の資源を消費して生きるものである以上決して避けられないことです。そのような世界を現実的に渡るにはやはりまだ『軍隊』も必要だろう」
要するに、食料と資源を人類同士で争奪し合うから殺し合いが起こる。これが人類という生き物である。こうですね?この説明では人類そのものが生まれながらに奪い合い、殺し合う存在だから国民国家を形成し、他国の食料と資源を奪うために軍事力を保持している。ということになりますね?人類そのものが生まれながらに奪い合い、殺し合う存在であれば奪い合い、殺し合いはなくならないという人間不信、相互不信、悲観論へ帰結しませんか?人類が生まれながらに殺し合い、奪い合う存在なのではないにもかかわらず、戦争は奪い合い、殺しあう行為であるから平和運動があるし、戦争は反人類的であり、非人間的であり、違法なんじゃないですか?
>東西南北さん
極論から極論へです。
私はそのふたつとも正しいものだと思いますよ。私は真理はない(認識できない、体系化できない)と思っていますので、矛盾する正しいことがいくつかあると考えます。ですからKYさんのような身体に近い思考には好意を感じます。
>KYさんへ
逆に「人類は平等」には親が子供達を思う気持ちを考えればすんなり受け入れられるかと思います。おそらく上からの目線、権力者の守るべき観念なのだと思います。
人間は互いに協調して共同体を作る生き物です。仰るとおりそれは間違いありません。
しかしその協調と友愛が保障されているのは『自分の共同体』の中でだけです。
なぜなら『自分の共同体』に属さない人間は自分たちの生存にとって最大の脅威(同じえさを消費し、同じ生活空間を占有する)なのですから。
これは生物というものが有限の空間を占有し有限の資源を消費して生きるものである以上決して避けられないことです。
ここで『自分の共同体』が『地球全部』である場合、問題は生じませんが、そのような人はまだ多数派にはなっていないように思います。
『自分の共同体』の範囲を最も広げていると思われる欧州でも、例えばトルコのEU加盟は未承認ですし、軍隊も健在です。
人類は未だ『世界共同体』には到達していないのです。
それを目標とするのは良いことだと思いますが、それを今、世界に期待するのは間違っていると私は思います。
そのような世界を現実的に渡るにはやはりまだ『軍隊』も必要だろう、と私は考えています。
守りたいから守るのさ。
うしろだてなんかいらねぇよ。
命について、自身の思うところを書いて下されと仰られましたので。
あと、全生命平等というのはフィクションではなく、限りなく真実に近い観念です。
価値観はそもそもフィクションでありますから、なにものかの価値というものも、やはりフィクションなのです。
虚構によって支えられる真理は存在しませんから、真に価値のあるなにものかと言うものは存在しないのであります。
同様に、真に価値のある命というものも存在いたしません。ゆえに、すべて生命というものは、ゼロ価値で平等なのです。
価値観のフィクション性から、生活上の便宜を図る形で相互主義が生じます。それを基礎にすれば、他の人間よりも価値のある人間というものが存在し得ないのは明白です。
長くなったので、ここまで。
「もし本当に皆がそれを信じられるのなら、人類は初めから軍隊を持たずにいたのではないかと思います。結局そうでないから軍隊は今ここに在るのではないでしょうか?」
これは本気で述べているのですか?これは人類は生まれながらに相互不信であり殺し合いをする存在だと述べているに等しいですよ?人類は相互信頼による社会分業のしくみで交換経済を実現し、共に生きていく存在ではないですか?にもかかわらずに、一部の人間集団が多くの人間集団を支配し、搾取する階級社会がある。ここに殺し合い、奪い合いの原因があるのではないですか?ゆえに、人類が連帯して殺し合い、奪いあいの原因となる階級社会を規制し、根絶すべく、労働運動、政治運動、平和運動してるんじゃないでしょうか?これが今に流されず、時代の本質を見極め、人類が連帯して相互に利他的に交換経済社会としての市場経済を実現しながら、仲良く生きていく道ではないですか?
お玉様
>了承もなく記事にしてゴメンなさいね。
いえいえとんでもありません。真摯なご回答を頂き大変感謝しております。
カーク 様
>悪い事をしたら、それに見合う償いをしないといけないのでしょう
説明が足りなかったようで申し訳ありません。Wikipediaで恐縮ですが、『囚人のジレンマ』というのはこういうことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E
なめぴょん 様
>信じるに足り、現実世界に有効なフィクションなのだと思うのです。
ある程度の人間関係があるところでは間違いなくそうです。しかし面識もない人間相手にそれは通用するかというと、多分通用しないのではないかと、思うのです。
人間関係を構築することを怠っていいというわけではありませんが、それと同時に『万が一への備え』も必要だと思います。
東西南北 様
>憲法9条完全実施で連帯していく温かみがみんなの人命を大切にしていく感情を沸き起こすんじゃないですか?
もし本当に皆がそれを信じられるのなら、人類は初めから軍隊を持たずにいたのではないかと思います。
結局そうでないから軍隊は今ここに在るのではないでしょうか?
愚樵 様
『愚樵空論』いつも読ませていただいております。頭だけでなく身体を伴う記事の数々、とても参考になります。
>『人命等価値のフィクション』
そうですね。今のところ最も価値のある『フィクション』のように思います。
今後この『フィクション』が世界に広まればいいのですが、先は長そうです。
なるほどと思いました。
ああなるほど、私は「自分の命」を大切に思ってなかったんだなと。
親戚に戦中の話をよく聞かされていたので、「兵隊にとられた若者」や「栄養失調で死んだ子」は身近な存在だった。彼らの墓が私のゆりかごであり、自分の命は兄姉達の骨から生まれたものだと感じた。
なので私は「自分の命」を自分一人で所有することはできないし、逆に自分の中にいくつもの命が入っている。固有の私がここにいるのではなく、私が歴史である。
だからこれは、ゲームなんです。死ぬ人の数を減らすという、歴史の流れの体現。死ぬのは自分かも知れないし他人かも知れない、お迎えが着た順番に。
結果、「命を取りこぼさない」為の努力を一刻も怠らなかったから、「自分以上の愛国者はいない」と断言できる訳ですが。
たとえば、現在の看護婦制度を確立したナイチンゲールは、ある意味狂気の人だったと思います。
末期ガンの首相を病床からたたき起こして、「死ぬなら仕組みを作ってから死になさい。あなたにしかできないのだから!」と駆り立てるというのは、並みの神経でできるものではありません。
彼女の熱狂的な行動力なしには、今日の医療の仕組みは存在しなかった。
あるいは、人類初の麻酔手術を成功させた花岡青洲にしても、実験に志願した母親を死なせ、最愛の妻を盲目にして、ついに成功にたどり着きます。
そして、青洲は人類初の乳がんの手術に成功するのです。
道端の赤の他人の死体を抱きしめて、「なぜわたしを訪ねてくれなかったの!」と泣き叫んだマザー・テレサもまた、尋常な神経の持ち主とは思われません。
誰にも愛されずに死んでいくことほどの不幸がこの世にあるでしょうか?という彼女の問いかけは、今も、わたしたちの横っ面を張り飛ばします。
思うに、「人類の今は、そうしたあまたの人々の『狂おしいほどの愛』に支えられているのだ」ということを、わたしたちは忘れてはならないのではないでしょうか?
人類の一員として、そうした人々の狂気の人生の恩恵を享受しながら、そこに一片の感謝の念も抱けないとしたら、あまりに情けなくはありませんか?
私が命を考える時にいつも思うのは、
私の命も、他の人の命も、他の生き物の命も、今につながる前に、数千年、数万年、数億年前から伝えてくれた命があるという真実。これを思うとどの命も愛おしく重いと感じる。そして私がしなければいけないことは、少しでも良い世界を次の世代に伝えること、それが全ての生き物の最大の使命なのかなと私は思っています。
『人命等価値のフィクション』・・・
私も、そう思います。
ある意味、『お金(貨幣)』と同じですね。
もともとは、価値が無く、皆が信じることで価値が生まれる。
国によって価値も違えば、インフレで暴落することもある・・・
世界中の生命の価値が等価になれば良いのでしょうが、先進国に要求するのは難しいですね。
現状では価格破壊が起きて、円やユーロ(生命)の価値が暴落しちゃいますから(笑)
すべての生命を等価値にするのは、貨幣より難しいでしょうね。
「大切な人は大切だけど、それ以外の人は大切ではない」。これは人間の偽らざる本音というところでしょう。一方、「大切な人もそれ以外の人も同じように大切」。これは建前。言い換えればフィクション。
社会が本音だけで上手く回れば言うことはないのですが、そうもいかないのが世の常。そこで必要になってくるのが建前。フィクション。あるいは社会の統治原理。「人命は等価値」という思想もそれでしょう。
社会を運営していくフィクションは、別に「人命等価値」でなければならないというわけではない。「天皇陛下や将軍様はエライ」というフィクションだって、悪いわけではない。実際にそうしたフィクションで社会が過去運営されてきた、あるいは現在も運営されている事実はある。
でもね。他のフィクションの価値を認めないわけではないけども、私はやはり「人命等価値」のフィクションが最も信頼に足る、大切にするべきフィクションだと思います。
“フィクションは所詮、フィクションだろ”と、 仰いますか? もし、そう仰るのならその通りです。だがそれは、点睛を欠く画龍のようなもの。
フィクションたる画龍は、あるいは他人から与えられるものなのかもしれません。学校で学んだりして。けど、点睛だけは自分で入れるしかない。それが“命の重みを感じる”ということ。それでこそ「人命は等価値」というフィクションに生き生きとした血が通います。
>そういう『大切なひと』が幸福であって初めて、そうでない『他人』のことまで大事にすることができるのだろう
これこそが画龍に入れる点睛ですよね。
付け加えておくと、私はどんなフィクション、どんな画龍にだって点睛を入れることが出来れば血が通うものになると思っています。たとえ、「将軍様バンザイ」のフィクションであっても。逆に言うといかなる画龍であっても点睛を入れられなければ、寒々しいフィクションでしかない。そして、入れるべき点睛はどんなフィクションでも同じではないかと、そう思います。
「お国のため」という画龍に『大切なひと』のためにという点睛を入れて死んでいった人もたくさんいますし、そうした人たちの“思い”もまた、大切にしたい。でも、そのフィクションが「人命は等価値」の画龍であったなら、多くの人が死なずに済んだのではないか、とも思います。いろいろな人の“思い”が大切に思えれば思えるほど、「人命は等価値」のフィクションは大切だと思うのです。
もっと感覚的なものです。
たとえばチンパンジーの母親が、病でこと切れた息子の遺骸を、半年以上背負い続けた様子を観察した記録を読んで、胸に熱いものがこみ上げてくる。
これは理屈ではない。
倒れて、死にかけている人を抱き起こして、抱きしめる。
見ず知らずの人だから、チンパンジーだからと言えるのか?
身内の死をいたむことは象だってサルだってできる。
フィリップ・k・ディックは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の中で、感情移入能力こそが人間の証明だと言っています。
シモーヌ・ヴァイユは幼い頃、「世界中でこれだけ人が死んでいるのによく平気でいられるわね!」と叫んで家を飛び出し、両親を驚かせました。
彼女の狂気がわたしは愛しい。
理屈ではない、この感覚が今、薄れてきているのではないか、と思います。
これは平和だから、経験が無いからではない。
これは生きることの喜びの薄さにも、つながりますね。
どうも、今の若い子にそんな寄る辺無さをしばしば感じるのですよ。
いえ、自分自身の中にもそうした至らなさを多く感じています。
感覚を育てねば…。
>そんな人に左翼が意見すると、そのお行儀にだけ云々する・・
歴史を見れば、反共を明示していない左翼なら虐殺者の仲間だと思うでしょうから最初から耳を貸す気が無いのでしょう。
右派の人が諭さない、諭せない理由も思いつくけど、長くなるから別の機会に書きます。
エンゲルスの『私有財産、家族、国家のキゲン』やH.アレント『人間の条件』とかを読んでいますと、古代家族=FAMILIAは今でいう一種の主権国家で、主人が主権者、子供や奥さんや使用人はそれなりの権利を持っているけど、家畜同様「所有物」≒動産っていう気がしました。そういえば、18世紀のアダム・スミスやケネーの本でも『しゃべる家畜』っていう表現があった。今の日本でも他の国でも経営者(別の札幌の障害者をこき使っていたタコ部屋の主人だけじゃなくもっと広く、普通の有名企業の(日替わり派遣なんて、ある意味もっと悪質なのかも?)や国家官僚(軍人)にも似た意識が、残っているのか、新たに発生しているのか? どっちにせよ、厳存している気がします。
やくざのせりふ「俺らが面倒見てやらんと」といった思い上がりが蔓延していく「不安定」拡散・拡大社会。90年代有力労組が、自分達の雇用不安に怯えるあまり、経営側の提示する雇用の不安定化とまともに闘って来なかったつけでもある気がします。御用組合には経営者や自営業者以上に「主権」概念が希薄だったんでしょう。
でも、『家』にせよ『組織』(国家も含めて)主権を持つっていうのは、『部下』に時には『死んで故意』という命令を(例えばチェルノブイリ事故の様な惨事なら尚のことそうでしょうし、日常的な運転でさえ『スロー・デス』の命令を発していると言えましょう)発さなければならない命令者自身にとっても『非常に重い』決断の連続ってこともあるでしょう。
『勝利の美酒』なんて呑気な話は観戦ではあり得ても、スポーツの実戦においても限定的で、しかも、その少ない栄冠者の寿命も短い。
それでも『社会の撹乱・騒乱』の方に『希望』を見出すっていうのは、どういう形態で、生活が、意識が煮詰まって『追い詰められているのか』。
別に擦り寄る必要はないと思いますけど、そこら辺の『オサナイ絶望感』に対して、『お玉(さん)な基準』とやらの、『護憲』スローガンを連呼するだけで、キャッチできるのでしょうか? って気がしないでもないですね。
了承もなく記事にしてゴメンなさいね。こういう上げ方をしたので、いろんな意見がつくと思いますが、その全てにあなたが答えようとなさらなくていいと思う。
コメントされる方々もKYさんへの意見と言うよりもご自身がどう思っているのかを書いて頂きたいな。
ようは、それぞれが思う命の話を書けばいいかなと考えてます。まずはそこから・・・
「命が『重み』を持っているのは先進国の、それもある程度豊かな階層だけで、そうでない人々の命など鴻毛のごとくに軽い、と思います。 そんな『命が軽い』国が自分たち『命の重い』国と同じように判断するとは信じられない。だから軍隊も必要なのではないか」
これは矛先が間違っているんじゃないでしょうか?要するに、中国人民は中国政府に鴻毛のように扱われている。ゆえに、中国人民は日本人民の命を鴻毛のごとく扱う。よって、中国人民の軍事力から日本人民の人命を守り、優先させる必要がある。自衛隊もアメリカ軍も必要である。それを非難されるのであれば甘んじてその罪を負う。それが当たり前の愛国心ではないのか?さしずめこんな意見ではないですか?
そうであれば、中国人民の人命を鴻毛のごとく扱っている中国政府を外交的に非難すべきではないですか?同様に、日本人民を鴻毛のように扱っている日本政府に対して、日本人民は日本政府に人命尊重、優先の政治をするように要求する必要があるんじゃないですか?自衛隊、米軍の現状は日本人民の人命を擁護するためにあるんですか?違うでしょう。体制を擁護し、人命を軽んずるのが現在の自衛隊、米軍の現状ではないですか?憲法9条完全実施で連帯していく温かみがみんなの人命を大切にしていく感情を沸き起こすんじゃないですか?
>カークさん
思考を放棄すればジレンマを感じずに済む…こりゃ傑作だ。囚人のジレンマの肝が何もわかっていませんね。
優等生的な理想論を言えば「命は皆平等」なのでしょうが、現実問題として全ての命は平等に扱われていないし、平等に考えることも中々困難でしょう。
誰だって自分の命は大事だし自分に近しい人の命もその他大勢の人よりも大事でしょう。自国の人間をその他大勢より大事に扱うか否かもこの延長線上にある問題だと思います。
日本の反戦平和主義者も全ての命を平等に扱うなんてことはしていませんよね。日本の反戦派で「ブッシュ大統領」と「イラクの子ども」の命が等価値だと思っている人はどれほどいるのでしょうかね。「くたばれブッシュ」なんて思ってる人はたくさんいそうです。
個人的に扱いが平等であればいいというものでもないと思いますけどね。赤の他人と家族が等価値ってどういう感覚なんだろうか…。
>けれど、人間一人が持つことのできるそういう『大切なひと』の数は限られていると思います。
そうねえ。
「わたし」が誰よりも大切な「あなた」にとっては、「わたし」はそれほど大切なものではない(のかもしれない)。
長く生きているとこういうことはしょっちゅう起こります。
そして、「今日のあなた」と「昨日のどっかの馬の骨」が入れ替わることもあるでしょう。もちろん「わたし」が誰かにとっての馬の骨に転落することも含め。だけど、馬の骨だって、生きていかねばならない。
その意味においても、『だから私の知らない誰かも、「大事な人」なのです。』というのは、信じるに足り、現実世界に有効なフィクションなのだと思うのです。
「囚人のジレンマ」ですか?
悪い事をしたら、それに見合う償いをしないといけないのでしょう。それを協調し、みんなでシラを切って、罪を軽くしようとするからジレンマになるんですよ。
私のつたないコメントに真摯なご回答をいただきありがとうございます。
私もできれば『だから私の知らない誰かも、「大事な人」なのです』と相手も思ってくれていると信じたいです。
しかし今まで生きてきて、そうでない人に遭い、そうでない事件を見聞きし、そうでない政治を目の当たりにして、もはやそれを他者に対して無防備に期待することはできません。
『囚人のジレンマ』が示すように、互いに協調することが最大の利益をもたらすことが分かっていて、個々が理性的に判断してなお、『常に相手を信じる』という戦略は最善解ではありません。
相手を信じられるときに信じないのは愚かですが、信じられない相手を信じようとするのもまた愚かなのだと思うのです。
相手を信じることと、相手の裏切りに備えること、どちらも必要であり、常に同時に備えておくべきものだと思います。
・・・とはいっても、『自分の大切な人』が自分の裏切りに備えていることを知ったら傷つくでしょうね。
けれど、人間一人が持つことのできるそういう『大切なひと』の数は限られていると思います。
そういう『大切なひと』が幸福であって初めて、そうでない『他人』のことまで大事にすることができるのだろうと、そう思います。
いつからか、「自分を大事にすること」って何だろうと考えていました。そして、自分の我を出しつつ、家族を大事にすることであったり、友人を大切にする事だと結論になりました。友人がいないと寂しいことだし、家族とケンカばかりしてたら、それは自分にとって不幸なことでしょう。だから、自分を大切にする事は、自分の回りを大切にしつつ、自分のやりたいことを上手く出していくことなんだと思うのです。
自分の家族を守ることも又、同じ事ではないでしょうか?
自分の命が大切ならば、他人の命も大切にしなければならないのです。
そして、それは一つの言葉で表せると思うのです、それが「平和」です。
自分の国だけよけりゃ良いなんてことは無いわけです。いずれ、しっぺ返しが待ち構えているのではないでしょうか?
アメリカにとってそれは、9.11テロであったり、サブプライムローン恐慌であったりするのではないでしょうか?さて、日本はどうでしょう?
私は国内の工場で働いてますが
毎年何百何千人の方が働いていて指を切断したり命を落としたりしているのかわからなくなります。
先進国の我が国でもそんな状態です。
命は儚く脆いもので何度同じ災害防止をはかっても人が働く限りヒューマンエラーは防げません。
命に差をつけるというのは右派だろうと左派だろうと有り得ないと思います。
人間は罪深く他の命を食べる事で生きています。
鯨さんにも感謝してますし牛さんにも感謝してます。
野菜でさえ命はあるでしょう。
新羅万象の中で尊くない命はありません
しかし無為に殺される命があるのなら全力で守るのが人間ではないでしょうか?
人は足る事無きに苦しむと言います。
理想を追いすぎて現実から隔離したり
現実を追いすぎて理想から隔離するのも人間でしょう。
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