感情のある批判をするのであれば、一人称の「私」を大事にして欲しいとお玉は思う。
自民党だから、アメリカだから、左翼だから右翼だから「こうなんだ」という書き方は
お玉には人ごとのように思えてしまう・・
いえ、いつもというわけではないのです。でも長文で持論展開をされている中に、では「あなたは?あなたはどのようにして考え、行動しているのですか?」と問いたくなる瞬間を感じることがあるのです。 「~であるべき」「である」「~すべき」という表現を使うなかに怒りのような部分を存在させるとしたら、それはあなたの思う~すべき、~であるべき、であるということを自覚して欲しい・・・・・・
ここがね、読んだ人に「一人称の私の話」ととらえられなくて、「これは左翼(右翼)の意見だな」とレッテル貼られる原因にもつながっているんだろうなあなどとかってにおもってる。 みんなが同じ見解な訳はないのだから・・
それは、よその人気ブログを読んでいる時にも感じることがあるし、お玉自身の過去記事の中にも感じる時があり・・・・自戒しつつこの文章も書いているのですけど・・
批判記事を書く時のお玉はどうなんだろうか?渦中に存在する「私」として記事を書けているだろうか・・・高みから見下ろしたり、してないかな?
もちろん冷静な目で一歩離れて論じることはとても必要だけれども、冷静に論理することと感情的に批判することは違うから。感情のある批判をする時はやはり「私」というものを存在させたい。感情で書いているのに、それが正論のように見せるのはお玉は違うと感じる・・・・