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コメント欄より・・

たくさんのコメントを頂きました。私たちは死刑の存続も廃止も、そのどちらを訴えるにしても、もっと多角的にとらえて解りやすく話せるようにならなければ、いけないのですね。人権だけを訴えても、被害者の気持ちだけを訴えても「対話」にはならない・・ということをふまえることができる、素晴らしいコメント、議論がたくさん見られました。

お玉カテゴリー 死刑廃止論

##これから投稿下さる方々へ・・どうかキチンとコメント欄を読んでから、それをふまえてご意見下さいますように・・中にときどき、全くコメントを読まずに書いてこられている方がおられますが・・それでは議論はできません。

さて、今年もどうか、ポチッとお願いいたします m(_ _)m   

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中でも、Looperさん及びそれを受けるように書いてくださった愚樵さんのコメントが、一番多方面に向けての死刑廃止へのメッセージにつながるのでは・・お玉は思いました。残虐な殺人犯の責任を死刑という形で放棄させてはいけない・・

 「命が等価」なんて嘘
さて、挑発的なタイトルを提示しましたが。

「命が等価」なんてのは嘘です。大嘘。でも、大切な嘘。それが国と個人との違い。

個人にとっては命は等価ではありません。当たり前でしょう? 日々、報道で人の死が報道されています。時には扇情的に残された遺族の悲しみの様子を大写しにする。確かにそうした遺族の悲しみに接すると心動かされるのは事実。でも、それは他人の悲しみでしかない。

その証拠にしばらくすれば忘れるでしょう? でも遺族は忘れられない。これは第三者と遺族では命が等価ではないという証拠。人間は感情の動物であり、その感情においては「命は等価」なんてのは嘘だということ。もし、それが本当なら第三者だって遺族同様に悲嘆にくれることになり、こなすべき仕事だって手につかなくなる。報道を見たものすべてが仕事に手がつかなくなるなんて事態が起これば、経済にだって影響があるはず。社会に影響する巨大な個性が亡くなったときにはそうしたこともあるかもしれないが、通常はまずそんなことはない。これが現実。「命は等価」ではない。

だが国は、少なくとも民主主義国家はそんなことは言ってはいけない。「命は等価」でなければならない。それは私たちの祖先が多くの血を流して獲得した理念だから。たとえ嘘であっても、そうあらねばならない。これが個人と国との違い。個の感情と国家の理性の違いと言い換えてもよい。だからダブルスタンダードは当たり前。

遺族は加害者の命よりも被害者の命を重視する。だから加害者には人権を認めない。個の感情からすれば当然。だが国は、どちらの人権も認めねばならない。その地点に立ってこそ、Looperさんが提示した視点を持つことができる。

死刑はあくまで国の制度。国の制度は国家の理性によって立たねばならない。感情に支配される個人は、どうよくせいしようとも殺人を犯してしまうことがさけられない。が、理性に支配されねばならない国は、殺人を抑制することができるし、抑制せねばならない。「命は等価」で死刑を殺人と見なすなら国家の理性は死刑を廃止する方向へ向かうのが当然の帰結。

だが、「信なくして国立たず」という。この信は個人の感情に寄るのも事実。「当然の帰結」が当然に信を得る結果となるかどうかはわからない。
[2008/01/04 09:09] URL | 愚樵

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

>レイプも誘拐も窃盗も詐欺も駐車違反も・・全て社会にも責任があり、みんなで罪を負え・・ということですか?

どなたかも言われてましたが、生まれつきの犯罪者がいない以上、私たちの社会には、犯罪の生まれる背景を放置し、その人を犯罪者にしてしまった責任が存在するのは当然のことです。
で、実際、その責任を社会が認めているからこそ、刑務所の運営費、犯罪被害者給付金などに税金が使われているのです。その犯罪者を生み出した責任を、私たちの社会はすでに負っています。にもかかわらず、最も責任の重い殺人犯にだけは、なぜかその責任を途中で放棄する・・・その根拠こそ何なのでしょうね?教えていただきたいです。

むしろ、なぜその殺人という犯罪を生んだ原因の証人である殺人犯の言動から、その犯罪の根を探り、2度と同じ犯罪を生まない教訓=被害者の命の尊さを生かす教訓を引き出そうとしないのでしょう?なぜ、その重大な犠牲の上に生かすべき教訓の根を簡単に絶やそうとするのでしょう?犯罪者だけを「死刑」にして、我々の社会がそこから何の教訓も得ず、何も変わらず、同様の犯罪者を生み出し続けていて、どうして被害者の命に報いることができると言うのでしょう?
> それとも、死刑だけが特別なのでしょうか?

死刑という刑罰が、懲役刑とは質的に全く異なる特別な刑罰であるのは論を待たないと思っていたのですが・・・
むしろ、殺人犯にだけ「死刑」という特別扱い(責任放棄)をする理由が分かりませんって話です。

[2008/01/04 00:11]  Looper

otamaお玉、FC2政治ブログランキング と 人気ブログランキング登録してます。いろんな人に憲法と平和を語りたいから、あんまり過激な事は書かないし、むずかしいことも能力不足で書けません・・それでも、お読み頂けましたら、どうかどちらも、↓ポチッとお願い致します

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事実と感想 2
wakuwaku_44さま
私の言った事分かっていただいた様な気もするのですが、冒頭で「反論、ありがとうございます」となっているので、もしかしたら伝わっていないのかな?と思うので再度書きます。うまく書けなかったこと、細かい事に拘ること、色々すみません。

ええと、私は指摘しているだけです。
実は、反論したいのですが、反論する前にwakuwaku_44さんの仰っていることを正確に確認をしたいのです。それが前のコメントを書こうと思った動機です。

wakuwaku_44さんの仰っていることは以下の事ですか?(『』はwakuwaku_44さんコメントからの引用です。)
【私は『死刑廃止論者が『死刑を望まない被害者の事例を持ち出』すなどしてすることで(事実)、『死刑を望む被害者遺族の気持ちを「啓発しよう」という姿勢』は被害者遺族の『火に油を注ぐようなこと』だ。(事実からの認識)】
これなら私も文章として分かります。
で、以下がwakuwaku_44さんのコメントから最初に私が解釈したものです。
【私は『死刑廃止論者が『死刑を望まない被害者の事例を持ち出』したり(事実)、また『死刑を望む被害者遺族の気持ちを「啓発しよう」という姿勢』(wakuwaku_44さんの感想)は被害者遺族の『火に油を注ぐようなこと』だ。】
これだと、事実と感想をまとめて事実の様に扱って、『火に油を注ぐようなこと』と結論付けていることになるのでおかしいです。

仰りたい事が下だったら、「文章を推敲しよう」ということですし、上だったら稚拙にも反論しようと思っています。



六月さまへ
反論、ありがとうございます。

>もしかしたら「死刑を望まない被害者の事例を持ち出だして、死刑を望む(中略)姿勢が垣間見られること」が「怖ろしいと感じた」のですか?
>そうだとすると、このコメントは「文章を推敲しよう」という簡単な結論になってしまうのですが。

「感じた」のは私の主観と言われれば、それを否定する根拠は持っておりません。
要するに『死刑を望む遺族に対して、あなたたちはどうするのですか?』ということから『逃げるな』、ということなんです。

「過失致死や交通事故で死刑が適用されないときは?」とか、「国家による殺人はダメ」とか、「死刑を望まない遺族もいる」とか、そんなことを言われても、それは、「死刑を望む遺族に向かってどうするのだ?」という『問い』に対する『答え』ではないですよね。

答えを今すぐに出すのは、私も無理だと思っています。でも、それはそれでいいのです。いけないのは、「答えを出せないことをごまかす」ような姿勢です。
つまり、「答えを出せない。申し訳ない。気持ちはわかる。でも、死刑はダメなんだ、わかって欲しい。」という気持ちを持ち、態度を示して欲しい。そういうことを申したのです。


また議論しましょうね
忙しくて書けない・・・と思っているうちに、なんだかよく分からない騒ぎが起きて、書くタイミングを失ってしまいました・・・

田柄さん、wakuwaku_44さん、愚樵さん、コウトさん、

完全に終息済みなので、失礼ながらお返事は省略させていただきますが、ここでの議論をベースに、またいつか議論を重ねられたらと思います。その時は、どうぞよろしくお願いします。

私も、頂いたご意見を参考に、さらにこの問題をゆっくり考えてみたいと思います。


コメントの山を迂回。
ここのコメントすごい量ですねえ・・・
Looperさんにひとこと。

Looperさんの言われることに共感するものですが、ひとつ思うことがあります。
>これが犯罪でなくて、ビラ配布のためにマンションに入るのが犯罪になるのですから、なんともおかしな世の中ですね。

犯罪者を生む社会への責任論にも関連します。ふつう、人は自分の狭い世界に安住したがるものだと思うのです。だからその狭い居住空間に他人の意見が乱入してくるのを不快に感ずるし(ビラ配布)、また預かり知らぬ他人の悪行に対して(犯罪を生む社会の一員としての)責任を問われることも余計な負担と感じるだろうと思います。大きすぎるものは人の目には見えないのです。そういう人間の性質を鑑みると、多くの人が抵抗少なく大事なことに目を向けるようになるには何が必要かを考えなければなりません。
中途半端な書き方で申し訳ないです。


事実と感想
横から失礼します。

wakuwaku_44さまへ

「死刑廃止論で私が怖ろしいなと感じたのは、死刑を望まない被害者の事例を持ち出したり、死刑を望む被害者遺族の気持ちを「啓発しよう」という姿勢が垣間見られることです。 」
ここには事実と感想が混じり同列に扱われています。
「死刑を望まない被害者の事例を持ち出したり」は、事実として存在します。私も死刑を望まない被害者の事例を出したコメント欄やエントリーを拝見しています。
しかし、「死刑を望む被害者遺族の気持ちを「啓発しよう」という姿勢が垣間見られること」というのは、あくまでwakuwaku_44さまの感じ方、感想ですよね。
その二つを根拠として「怖ろしいなと感じ」ており、その結果「火に油を注ぐようなことをしてはいけないかと思います」と結論付けているところに私は違和感を感じました。
感想を前提として論を結ぶのことへの違和感です。

・・・と、ここまで書いて気付いたのは、もしかしたら「死刑を望まない被害者の事例を持ち出だして、死刑を望む(中略)姿勢が垣間見られること」が「怖ろしいと感じた」のですか?
そうだとすると、このコメントは「文章を推敲しよう」という簡単な結論になってしまうのですが。


愚樵さんへ
誤解を招いたのであれば、お詫びします。
私が「死刑制度をいったん認める」というのは、言い換えれば「死刑を望む被害者遺族にとっては、死刑廃止は理不尽な制度であり、納得いかないもの」ということを「理解してあげる」という意味です。
この『理解』があるかないかで、時間はかかると思いますが、死刑を廃止しても、被害者遺族が立ち直ったり、あるいは別のケアが生きてくるものと思います。

死刑廃止論で私が怖ろしいなと感じたのは、死刑を望まない被害者の事例を持ち出したり、死刑を望む被害者遺族の気持ちを「啓発しよう」という姿勢が垣間見られることです。
被害者遺族は、それでなくても深く悲しみ、そしてやり場のない怒りをもっているのですから、火に油を注ぐようなことをしてはいけないかと思います。(望まない人に対しては、そうすることはありません)

その上で死刑廃止に向けて論を組み立て、実現に向けて展開しないといけないかと思います。


お返事(1)
#たくさんの方から、私宛コメントを頂戴しました。ありがとうございます。
どうにも文章書くのが苦手なものですから、お返事がいつも遅くなってしまいます。どうか、ご容赦ください。

> 薩摩長州さん
過分なお褒めです。
マルクスには、剰余価値を労働者から搾取する資本家は、「犯罪者」に見えたのかもしれませんね。

投機マネーのおかげで不当に値上がりした原油に庶民は苦しみ、その過剰利益を労働もせずにかすめとる事が犯罪でないのですから、世界の市場経済システムも壊れてきていると感じます。

これが犯罪でなくて、ビラ配布のためにマンションに入るのが犯罪になるのですから、なんともおかしな世の中ですね。

エントリーとはズレすぎました・・・
独り言という事で、皆様スルーしてくださいませ。<(_ _)>


社会と遺族の関係
Looperさんのご意見、

>犯人とその犯人を生んだ社会が憎く、被害者の命が愛おしいからこそ、「簡単に処分させて、ちゃらにさせてたまるか!」と思うのです。

は遺族にとっては違うかもしれない、と私は思います。

犯人が憎いのはそうでしょう。でも、社会が憎い、というのは違うのではないか。社会が誤っていると考えても憎くはないからこそ、犯人をサンプルとして社会をよりよくしよう、なんて考えられる。本当に社会が憎ければ、社会が良くなろうが悪くなろうが知ったことではないはずなんです。

死刑廃止論は、サンプルでなんであれ、犯人を社会の一員として認めるということです。犯人に基本的人権を認めるということはそういうことですよね。ところが犯人は遺族にとって、遺族と世界(社会を含む)との関係を断ち切る、あるいは逆転させた存在です。そうした存在を社会が認めることを遺族が容易に納得するはずもない。だから遺族は社会に死刑という形で要求する。犯人を社会の一員として認めるな、と。

そう考えると、wakuwakuさんの仰る「死刑制度を是として認めること」も一理あることになります。

ですが、私もやはりLooperさんの考えが最善だろうと思います。少なくとも第三者の我々にとっては。残る問題は社会と遺族たちの関係修復です。遺族は犯人によって社会との関係もおかしくなってしまいますが、そこを修復することからはじめなければならないでしょう。


愚樵さん
こちらこそ恐縮です。こんな話ばかりなので、よく怒られるんです。「揚げ足を取るな。全体を見ろ」みたいに。こちらでは気持ちよく応対して下さる方が多いので、助かってます。

>ですので復讐感情が原初的であり、現在は過去より理性的に進歩しているという図式に大きな誤りはないと考えますが、どうでしょう?

ご投稿のコンセプトが正しいとするなら、論理的にはつながるものと思います。
・・・で終わらせるというか逃げておこうかとも思ったのですが、実は内容にも異論があり、それを少し書いてみます。今度こそ怒られるかもしれませんが、まあ一つの意見ということで。

>原初的な情は原初的であるがゆえに否定し難い。しかし人間は、そうした原初的な情を否定することで成長する。それは社会であっても同じです。

別に復讐心だけが原初的な情ではないかと。怒りや笑いだってそうです。それらを状況によって使い分けたり、抑制することを覚えていくということはあるでしょうが、単に「否定する」という言葉で括ってしまうのには抵抗感があります。

>しかし現在の法体系でそれを肯定するものはおそらくありません。

まず、現代の法体系(理)も、明示していないだけで、感情(原初的感情を含む)や原初的欲望から完全に切り離されているわけではありません。愚樵さんも前におっしゃられたように、情を動機として理を組み立てているのです。宗教に基づく法は別としても、法一般は復讐心等の原初的感情を持つこと自体を禁じているのではなく(本人の勝手)、その発現の方法を規制しているだけなのですから。

例えば名誉毀損での訴訟。原告としては、「こんなのとても許せない」という怒りの感情(原初的感情)が主動因となって訴えるのです(復讐心もあるかもしれない)。怒りがなければどうでもよいこととなり、訴える可能性はほとんどなくなるでしょう。もし勝訴したなら、それは怒りの感情に正当性があるということが認められたも同然なのです。
罪刑法定主義の基でのみ、権力を発動すると決めておくことに「理性」はあるでしょう。それは、私的制裁(復讐)に走る者が出てくる恐れを抑制するためでもあります。しかしそれは、政府側が個人の復讐を代行することで秩序を保っているという(応報刑的な)考え方にもつながるのです。それが刑罰の全てではありませんが、応報刑論が廃れてしまったわけでもないです。
個人の復讐心を、国家による秩序ある復讐行為で宥めること。それも人間の共存のためには「社会の進歩」と言えるかもしれません。しかし、それは復讐感情自体を否定・止揚したことで、社会が理性的に進歩してきたということではないように、私には思えます。
他にも論点はありますが、長くなりますので(十分長いですね・・・汗)今回はこれぐらいで。

>はい。そのことは理解しているつもりです。

うわー、なんか釈迦に説法しているのかもしれませんね、私は(汗)。


Looperさんへ
反論のような言説が並びますが、決してLooperさんへの反論や批判ではありませんので、ご了承ください。

私は死刑廃止に突きつけられている課題というのは、「死刑制度を是として認めること」だと考えます。
一見矛盾しているようですが、「死刑制度を是として認めること」というのは、死刑廃止を引っ込めることではありません。あくまでも「死刑を求める気持ちを正当なものとして理解する」ということです。

というのは、人間は感情の生き物だからです。死刑制度の問題点や経緯等の「理論」は正しいとしても、それを人々が受け入れるかどうかは別の話となってきます。ケアや情報開示等よりも「そんなもんいらんから、わが子を殺した犯人を死刑にしてくれ」という被害者遺族も少なからずいます。
そうした気持ちや感情、死刑存置論者の感情や気持ちを否定するような発言をした段階で、「どんなに正当な理由があっても」死刑廃止を受け入れることはできないと思います。
それゆえ、「死刑にすればそれでいい、というのは無責任」だとか「死刑にしてしまえば一件落着」というのは、死刑廃止を唱える場合に唱えるのは適切ではないと考えます。

第三者である存置論者は別にいいですが、死刑を希求する被害者遺族に対しては、「本当に申し訳ないが、○○の理由で死刑廃止を受け入れてくれ!」とお願いすることになるのですから、死刑存置を理論的にも感情的にも否定せずに、死刑廃止の論を展開すべきじゃないだろうかと思います。とても難しい話ですが、やはり人間は感情の生き物ですからね。

お玉さんが「善より寛容」と仰っていましたが、これは「加害者への寛容」だけではなく「被害者への寛容」もあるものと思います。


Looperさま
津久井先生のところでおみかけしたことがございますが、はじめまして。

「命を無駄にさせないためにこそ」という論はおみごとです。私にとって綱領的文章となりましょう。

さて、懲役刑ということで田柄さまが問題を提起されておられますが、私見ではありますが、判決文が一応の社会的な、事件に関する総括ということになろうかと。ただしそれが社会へとフィードバックされているかは疑問であります。犯罪があまりに多くて、社会的に大きな関心をひくような事件しか注目されない。しかも、総括としての判決文を詳細に読む人も少ないのではないでしょうか。

まあ、もっともワタシ的には犯罪の根は社会にあり、犯罪は社会の「活力」であると同時に社会変革への契機ですらあると考えておりますが。ちかいうちに、マルクスが剰余価値学説史のなかで犯罪を考察した文章でもネタにして雑文を書いてみようと思います。これからもよろしくお願いいたします。


Looperさんへ
私もLooperさんの主張は正論だと思います。
ただ、死刑廃止問題を超えてますね(もちろん良い意味です)

死刑にして『一件落着』にしているのは、事実だと思いますが、
懲役でも『一件落着』にしているのでは?

懲役刑を受けている人に対して、犯罪の根を探求するようなことって、行われているのでしょうか?

また、服役している人を『サンプル』として調査することが、許されるのか?
本人が拒否したら、どうなるのか・・

もう、死刑廃止だけでなく、多くの法改正が必要ですね。

まぁ・・死刑廃止がその第一歩となるのでしょうか?
う~ん・・ホントに第一歩ですね。


命を無駄にさせないためにこそ
長かったらごめんなさい。

まず、コウトさんや薩摩長州さんが、言葉足らずの拙論をより深めていただき感謝いたします。また、東西南北さんやひげおやじさんの主張にも共感を覚えます。

wakuwaku_44さんの質問への答えになるのかもしれませんが・・・
私は、社会が殺人犯罪から教訓を学ばないことは、一番の命の冒涜なんでは?と思うのです。社会が犯人を死刑にして「はい、一件落着」と片付けちゃうのは、「臭いものに蓋」をしただけではないか?という気がしてなりません。

私がもしその遺族なら、犯人からの謝罪なんて受け入れられないだろうし、殺したいほど憎いだけでなく、その人を殺人者に作り上げる事に関わった全ての人が憎いだろうと思うのです。中学時代に犯人を苛めたやつ、なんのケアもしなかった教師、親を暴力に気づきながら助けなかった近所の住人などなど、すべての人に殺人者を生んだ責任を自覚させ、懺悔させないと気が済まないだろうとさえ思うのです。そして、家族を守れなかった自分自身に対しても・・・

そういう時に救いとなるのは何でしょうか?
暖かい心のケアも必要だし、遺族が不安なく暮らせる経済的援助も必要です。日本がこうした被害者ケアの制度が遅れているベースに、死刑で事件を「一件落着」としちゃう無責任さをどうしても感じます。

そして大事な点は、家族の死を決して無駄にしたくない、なにか意味を持たせてあげたいと願うだろうなと思うのです。
もし犯人が、自分の生い立ちを詳細に告白してくれて、それで社会の問題を告発できたら?
もし犯人が、自分の罪を心から悔いてくれたら?そして、同様な殺人者を生まないよう社会に発信してくれたら?
もし犯人が、精神的な病気のためだったと分かり、その原因が特定出来たら?

その死に意味を持たせる道が開けてくるとは思いませんか?
もちろん、そうはなかなか上手くはいかないでしょう。
しかし、殺人犯は、明らかに何らかの原因で我々の社会から生まれた「貴重」なサンプルなのです。犠牲者の命を活かし、殺人犯を生む根を探求する作業は死刑にしちゃったらできないし、その努力をあるところで止めるのは、社会が責任を放棄しているとしか思えないのです。犯人とその犯人を生んだ社会が憎く、被害者の命が愛おしいからこそ、「簡単に処分させて、ちゃらにさせてたまるか!」と思うのです。

このように「死刑制度」は、我々自身の責任を棚上げにし、分かりもしないくせに遺族の気分になったつもりで、犯罪者を国に消し去らせて、自分はさっさと「一件落着」で安心してすぐ忘れる・・・という、被害者もその遺族も大切にできない無責任制度に見えるのです。

このように、「人殺しをした人の人権を守る為に、被害者にアプローチ」しているのでなく、社会にその責任を忘れさせず、被害者の命を無駄にさせず、真の遺族救済をさせるためにこそ、死刑廃止が必要なのでは?と私は思うんですよね。


過去数日分の文を全部読んでいる訳ではないですが。
休暇で1週間以上目を離したら偉い進みようですね。

死刑の問題が(それ以外もですが)ややこしくなるのは議論がちゃんぽんになるからです。
死刑の問題は簡単に切り訳ができます。
1.人権
 1)被害者の人権(死者の人権)
 2)被害者遺族の人権
 3)加害者の人権
 4)加害者遺族の人権

2.量刑の軽重
 1)報復の抑止
 2)犯罪の抑止
 (犯罪は割に合わないと言う仕組み)
 3)営利犯罪の抑止
 (代理殺人、犯罪の肩代わりなどの抑止)

3.法令的問題
 1)特定法令上解釈
 2)慣習的認識上の解釈

個人的な意見は言いませんし、この分類が完璧なわけでもありませんが、「「何」の問題が「何」だから死刑はOK?NG?」と言う意見をきちんと自分の看板に書いて話さないと、各論の議論で話が飛んでいってしまいます。

私も含めですが、色々考えて見ましょうよ。


ペリフェラルさん
ご指摘ありがとうございます。確かに誤解を招く表現のようです。

ハンムラビ法典が理性的な記述であることは理解できました。過剰な復讐を制限しているということで理性的ですが、しかし復讐感情までは否定しているとはいえないと思います。ですので復讐感情が原初的であり、現在は過去より理性的に進歩しているという図式に大きな誤りはないと考えますが、どうでしょう?

>歴史なんて、単線的に進歩(「社会の成長」のこと)するわけではないのですよ。

はい。そのことは理解しているつもりです。ただそのことを端的に短く文章に盛り込める筆力が私にはありません。


愚樵さん
>社会の成長は歴史的に顧みてみれば明らかでしょう。「目には目を歯には歯を」という復讐感情の肯定は、世界最古の法典で認められていました。しかし現在の法体系でそれを肯定するものはおそらくありません。これを社会が理性的に進歩してきたのだ、と言っても間違いないと私は考えます。

誤解を呼ぶ書き方をされていますので、指摘させていただきます。歴史なんて、単線的に進歩(「社会の成長」のこと)するわけではないのですよ。

>現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われたり、復讐を認める野蛮な規定の典型と解されることが一般的であるが、「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち予め犯罪に対応する刑罰の限界を定めること(罪刑法定主義)がこの条文の本来の趣旨であり、刑法学においても近代刑法への歴史的に重要な規定とされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8
↓こちらも参考になります。
http://www.marchrabbits.com/archives/2006/04/03-222018.php


kusukusuさんへ
仰るように、「死刑を望む被害者遺族へのアプローチ」は、非常に困難な問題だと思います。だからこそ「いまだ答えを見出せていない」と考えます。

しかし、答えを見出していないからといって、死刑廃止を引っ込めろというのは違うと思いますし、逆に被害者遺族へのアプローチを排除するのも適切ではない。

私は、最も肝心なのは、具体的な答えを見出すことではないと考えます。もっと言えば、そんな答えがあるかどうかすらわからない。
しかしながら、「死刑を望む被害者遺族」と同じ土俵に上がり、共に考えることはできると思います。その「共に考える」ことが最も肝心なんだろうと思うわけです。
そうしていくうちに、「答え」でなくても、何かしらの「ヒント」「きっかけ」が見出せていくんではなかろうかと。

極端に言えば、最初に死刑しか望まず、その他のいかなる刑罰も補償もいらない、というような人も、死刑廃止の方が「死刑を望む気持ち」を共感し、「感情的に言えば、死刑にしてもらいたい」という『できるだけ共感する』ことを通じて、粘り強く接していくだけでも違うんじゃないだろうかと思いますが、いかがでしょうか。


ひげおやじさんへ
まず、「様」づけは逆にご遠慮申し上げたいと存じます。「さん」づけで結構ですので、お気遣いに感謝すると同時に、今後はお互いに気軽にお願いいたします。

>言葉足らず、ここにきわまれりという感じです。反省します。

いえ、反省することまではないと存じますが・・・。(汗)
これもお気軽に、ということで。

>法務大臣云々は、個人としては多くの人がその責に耐えられないだろうということです。また耐えさせるべきでもありません。

その点については、私は異論も反論もまったくありません。
ただ、歴史的経緯を見たときは、死刑制度は応報が是とされていた時代から継承されていますから、「制度そのもの」はちょっと違うんじゃないだろうか、というだけの話ですので、あまり重く受け止めないでいただきますよう、重ねてお願いいたします。

>「望ましくない」からやめる、そして「やむをえない」部分については別途「望ましい」手立てを検討する、こういうアプローチがあってしかるべきではないかと思ったわけです。

それも完全同意です。
死刑廃止に向けた話なんですから、当然その方向からのアプローチでなければ、そもそも話にもならないと思います。


お玉さん、申し訳ないです。ホント、長いわ(苦笑)。

編集パスワードを設定しなかったので、自ら編集できません。これもまたうかつ。で、もしよろしければ、

「そう考えれば、ものぐさ太郎さんの言い草の愚かさも理解できようというものです。」

以下を削除してください。これでもまだ長いですが...m(_ _)m

もちろん、削除するしないはお玉さんの判断にお任せします。


わくわく44さんへ
死刑廃止の主張で、被害者遺族の方々の気持ちを納得させることは出来ないように思います。
ただ、「出来ません」のひと言では議論にならないので、わくわくさんが

>別に具体的に見出していないことそのものが問題なのではありません。見出していないなら、それを見出すようにしていけばいいんですから。

と書かれていますので、「なぜ出来ないと思うのか?」を書いてみます。

他の記事へのコメント欄で書いたことと繋がるのですが、殺人のような行為については懲役刑の形で対価することが出来るのか?という哲学的な疑問はたしかにあるとは思うんです。被害者遺族の方々が納得できないのは、たとえば自分の娘が殺されたとして、その犯人がたとえ終身刑であったとしても刑務所でのうのうと一生を終えるのはあまりに不公平であり、納得できないということでしょう。たとえば泥棒の被害者だったら、その泥棒が懲役を受けたら、まあ、あいつもそれだけの罰を受けたから許してやろうと納得できる。でも、殺人の場合は、片方は殺されたのに、片方は懲役刑では不公平に思えてしまうのです。殺人には死をもってしか償えない、死刑でないと不公平だ、懲役刑に対価するのはそもそも出来ないのではないか?ということです。
以上の面があることは認めながら、なおかつ僕が死刑廃止の側の主張をしているのは、死刑を廃止することで今後、同様な殺人事件を起こることを防止する面を強めるとか、殺人事件がより少ない社会にしていこうとするとか、総合的な社会的な方向性、メリットを考えると死刑廃止に転換したほうがいいのではないか?と考えるからです。
しかし、今後の対策に役立つからとか、そういうことは被害者遺族の気持ちには関係ないこととも言えるんです。遺族は、娘が殺されたんなら、その犯人も死刑でないとあまりに娘にとって不公平だと求めているのではないかと思いますから、今後の対策に生かせるからなんてことを言っても伝わらないのだろうかと思うのです。


wakuwaku_44様
言葉足らず、ここにきわまれりという感じです。反省します。

法務大臣云々は、個人としては多くの人がその責に耐えられないだろうということです。また耐えさせるべきでもありません。

現在に死刑制度が「望ましくないがやむをえない」というところから出発していて、制度自身が「望ましくない」ということを告白しているのではないかということを言いたかったのです。ここのところが他の刑罰と決定的に違うところです。現行制度はその「やむをえない」ところを何とかするために責任の希釈を行っていると。

「望ましくないがやむをえない」というときに、他に選択肢はないのか、本当にやむをえないのか。やむをえないという部分が被害者ご遺族の感情であったり犯罪抑止効果であったり再犯の防止であったりするのでしょうが、「望ましくない」からやめる、そして「やむをえない」部分については別途「望ましい」手立てを検討する、こういうアプローチがあってしかるべきではないかと思ったわけです。


愚樵 さん・・
長いです。なるべく20行以内。他の方にも注意しておりますのでどうかご配慮下さい。
書き足りない部分はご自身のブログに書いてTBくださいますように・・


「命が等価」は真実
せっかくお玉さんに取り上げていただいたコメントを自ら否定する、またもや挑発的コメントですが(笑)。

「死刑廃止論カテゴリー」コメント欄でのやり取りの中で、私の「個人の動機を全体の動機としてよいのか」という疑義に対して、ものぐさ太郎さんが

> では、こう言う人の意見が全体の総意と言えようか? 言えると思っているなら勘違いも甚だしい。

と、実に情緒的(笑)なレスを返してくださっていますが、これにお答えする形で「命は等価」の真実を語らせていただきます。

この動機を全体の動機としてよいのか、という疑義は「自省」という精神作用から出てくるものです。「自省」とはすなわち理性。家族や友人を大切にする情、それを否定されることによって発露する復讐の念を持つことを人間性と呼ぶならば、理性を持つこともまた人間性です。

他人の復讐の念の有効性は誰にも否定できません。否定できるの自らだけです。「自省」という理性の発動によってのみ否定が可能な復讐の念は、いわば人間の原初的な情です。

原初的な情は原初的であるがゆえに否定し難い。しかし人間は、そうした原初的な情を否定することで成長する。それは社会であっても同じです。

社会の成長は歴史的に顧みてみれば明らかでしょう。「目には目を歯には歯を」という復讐感情の肯定は、世界最古の法典で認められていました。しかし現在の法体系でそれを肯定するものはおそらくありません。これを社会が理性的に進歩してきたのだ、と言っても間違いないと私は考えます。

原初的感情の否定による社会の進歩。ただしこの「否定」は「切り捨て」ではなく「止揚」であることに注意してください。人類社会は夥しい犠牲を払いながら進歩してきましたが、その成果が「基本的人権」であり「命は等価」という理念なのです。(どのような成果があるのか、具体的に知りたければ手近に村野瀬玲奈さんがおられます)

私は「「命が等価」なんて嘘 」のコメントでねばならないを強調しました。この強調におしつけを感じた人も多いと思います。ですが、それが「自省」により自ら発見したねばならないであるならどうでしょう? また学問の意義とは、このねばならないを自ら発見することにあるのではないのでしょうか?

「命が等価」の真実性は「自省」する理性によって追求され担保されるものです。そして理性とは情と切り離された理そのものではありません。情と理が不可分の人間性そのものに由来するものです。

そう考えれば、ものぐさ太郎さんの言い草の愚かさも理解できようというものです。全体の総論云々は死刑存続が世論の大勢であることを背景になされているのでしょうが、「基本的人権」は多数決原理の上位にあるものです。これこそ民主主義の根幹です。いうまでもないでしょう。

さらに言うならば「基本的人権」は復讐感情を担保するものではないということ。当然でしょう。復讐感情を「自省」する理性から生まれてきたのですから。「基本的人権」からの死刑存続論は根本的な部分でボタンを掛け違えています。

さらにさらに、「基本的人権」は社会を統治する原理ですから、如何なる理由であれ、社会の構成員でない者(=死者)には適用されません。これは個の情念に反することですが止むを得ません。「基本的人権」概念の限界、もしくは欠陥というべきものでしょうが、人間の理性が全能でない以上、致し方ない。ただし、さらなる進歩の余地があると私は信じています。

長くなりますが、もう一点。

被害者遺族の慰撫が議論の焦点になっていますが、理性という観点から見ると彼らは「自省」する余裕を失ってしまった人たちと言えるでしょう。これはある意味犯罪的な状態です。

現代社会では、如何なる場合であっても理性を失うことは許されません。理性を踏み外した行為を犯罪と見なすのが現代社会です。であるからこそ、復讐は犯罪とされているわけです。

復讐≒死刑は、個的情緒からすれば遺族感情を慰撫するのは事実でしょうが、そうした理由で死刑を存続すべきと主張することは反社会的行為ですらあります(そうした遺族感情を扇情的に広報するメディアも同様です)。そしてまた復讐が遺族を理性的な存在に引き戻す保証もありません。

理性社会に許される遺族感情慰撫の方法ははじめから限定されているのです。しかし人間は心理的にどのような状態で理性を保っていられるのか、はたまた理性を失うのか、そうした点を追求すれば理性的な慰撫方法は見つかるはずです。

答えは人間性追求の先にあるといえそうです。


ひげおやじさんへ
>つまり、特定の「執行された死刑」に対して責任を負っているものが誰もいないように制度設計されています。なぜ?

現在の刑法による死刑制度というのは、明治の旧刑法による死刑制度をそのまま継承していますから、『結果的には』ひげおやじさんが仰るようになっているとは思いますが、最初からそのような意図で制度設計はしていないんじゃないかなと思います。

ただ、それは置いておくにしても、法務大臣も裁判官も、死刑執行の刑務官も、その人本人は被害者の遺族ではありませんから、死刑囚を殺したいと思っているわけじゃないと思います。そうなると、やはり、人間ですから、できるだけ責任の大きさというのを軽減するように動くことはあることでしょう。

ただし、『「法務大臣は死刑判決の正当性、無誤謬性を認め、自ら刑の執行を行う」となって、全責任を明示的に負わなければならないとしたら、彼は死刑に賛成するだろうか。』という疑問の投げかけは、それこそ「感情論」であって、「あいつは許せない、死刑にすべきだ」というのと同じ次元の話になってしまいます。
死刑廃止論というのは、こうした「感情が先走る」というものを超克した次元で話されている論ですから、あまりいい例えにはならないと思いますが、どうでしょうか。


もうひとつの不可逆性 連投陳謝
「被害者の気持ち」は、一生変わることがないのか?
死刑制度を支持しておられる方の論調の基本に、「被害者の気持ちを考えろ!」というものが多く見受けられます。もちろん、その時点で被害者のご遺族が犯人の死を願う気持ちがあっても、それは自然なことであり責められるべきことでもなんでもありません。しかし、その願いに従うことが100%被害者のご遺族のためになるのかどうかというと、話は少し変わるのではないでしょうか。
原田さんの例に代表されるように、被害者のご遺族が必ず死刑を望むものではないということは明らかです。原田さんの場合には、刑の執行前から態度表明されておられますし、刑の執行が彼の大きな傷にはならないでしょう(そのように願っています)。しかし、もし刑の執行後に気持ちが変わってしまったら・・・。

冤罪、誤判はいうに及ばず、加害者の生い立ちに同情すべき点を発見してしまった、お玉さんはじめアマゾネス軍団の方々の論に触れて死刑というものへの考え方が変わった。もっといいかげんでもいいんです、世間の風向きが変わってなんとなく同調した。

そのとき、その被害者のご遺族は、死刑の判決にも執行にも、何の責任もないのにもかかわらず、まじめな方なら国から(死刑制度から)2発目のパンチを食らうことになります。
「あの時あれほど熱心に極刑を望むことをしなかったら・・・」という後悔にとらわれたとき、誰がどのようにして彼、彼女を救うことができるでしょう?これも取り返しようがないのです。
受刑者が生きていれば、再審請求されていればそれに協力をする。減刑嘆願をする。気持ちに沿った行動をとる余地が残されていますが、死刑執行後はなすすべがありません。

死刑執行が被害者ご遺族の気持ちを少しでも癒す、その前提に立ったとしても、
国家が国民のためのものであるならば、犯罪被害者に取り返しようのない2発目のパンチを国家が与える危険性を考慮して、それを避ける。こういった側面から考えるとごくあたりまえのことのように思うのですが。


 死刑制度はあなた方が後生大事にしている現行憲法でも認められていますが。
 「護憲」ということは死刑制度も維持する、ということですよね?


森達也「死刑」。
森達也氏が、「死刑」という本を出されます。
http://www.asahipress.com/announcement/soon.html

「3年前からスタートして、たくさんの人に取材をして、何度も何度も原稿を書き直して完成した本です。

人を殺した人。大切な人が殺された人。処刑を執行する人、指示する人、管理する人。

死刑囚のために神に祈る人。処刑台から生還した人。存置を主張する人、廃止を主張する人。

いろんな人たちの、いろんな感情がつまっています。

罪と罰、そして命とは何か。人が人を殺すということを、応報感情をどう捉えるか。

森さんの主張や気持ちの揺れ動きに触れて、
そうかとうなずいたり、わからないと首をかしげたり、
共感して共に悩んだり、それは違うんじゃないかと反発したりしながら
読み進んでいただけるとうれしいです。

そして本書を読み終えてからも、殺人事件のニュースや、死刑判決のニュースを耳にした際など
ときどきでいいので、「あなた自身はどう思うのか」を考えつづけていただけると、もっとうれしいです。 
最後に、本書にはたくさんの方々のお力ぞえをいただきました。
関わってくださったすべての方々に、心より御礼申し上げます。

朝日出版社担当編集者 鈴木久仁子」

また、刊行を記念してトークイベントが開催されますが、すでに満員で予約終了だそうです。残念でした。
http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200801/_08119_1.html


東西南北さま
少し人を性善説で捉えすぎてやしませんか?
人は、生まれながらに犯罪者ではなくとも、生まれながらに犯罪者になる可能性は秘めてますよ。(何を持って犯罪とするかも疑問ですが)

また死刑執行の刑務官のストレスを上げられておりますが、別に彼らは頼まれたり強制されて刑務官をやっているわけではないので嫌なら辞めれば済むだけの話です。それに死刑執行役なんて、報酬次第でやりたがるのは幾らでもいますよ。


もうひとつの視点
はじめまして。記事は前から拝読しておりましたが、コメントは初めてです。あ、謹賀新年 です。
私も死刑廃止に賛成で、理由としてはその不可逆性だけで十分と思うのですが、いろいろと記事を読ませていただいて、まあいろんな観点があるものだと改めて感じ入っています。それぞれが大切なものだとも思いました。
さて、現在の死刑は裁判官が判決を下し、法務大臣が執行命令に署名をし、係官5名がブラインドで(誰が直接手を下したかわからない形で)執行するという形がとられています。
万一、死刑という刑に齟齬があったと判明したときにも、裁判官には「私が手を下したわけではない」法務大臣にも、「判決を下したわけでもないし、直接実行したわけでもない。手続きとしてサインをしただけだ」、係官にも「職務上命令に従っただけだし、第一誰がやったのかはわからない」という逃げ道が用意されています。
つまり、特定の「執行された死刑」に対して責任を負っているものが誰もいないように制度設計されています。なぜ?
官庁の無責任体質は世の常とはいえ、何故ゆえにこうまで念入りに・・・。
つまり、個人としては誰もこの責に耐えられない、だから国家という名で個人に責任が及ばないように念を入れて作ってあるわけです。つまり、法そのものが「刑罰を越えた殺人」であることをあらかじめ了解しているような気がします。
例えば、「法務大臣は死刑判決の正当性、無誤謬性を認め、自ら刑の執行を行う」となって、全責任を明示的に負わなければならないとしたら、彼は死刑に賛成するだろうか。
このあたりに、何か今の死刑制度そのものの基本に、ごまかしというかレトリックのようなものがあって、そもそもかなりの無理があるのではないか、と考えるきっかけのようなものがあるのではないか。
ある意味、諸記事を読みながらの思い付きみたいなもので、深く考えて書いているわけではないですが、諸賢にご高察いただければもう少し霧が晴れてくるかも、と思っています。長文失礼。


公権力を実現するのは諸個人だが、必ず妨害するのが国家権力の暴力・恐怖である。
被害者遺族の人間、その他の人間、そして犯罪加害者が「連帯」して実現せねばならない公権力としての国家社会とは死刑執行なのでしょうか?死刑執行停止から廃止なのでしょうか?そして、犯罪被害者に対するどのような国家政策を要求する連帯が必要なのでしょうか?最低限でも死刑囚の生存を現状維持する死刑執行停止については存置派・議論派でも連帯せねばならないのではないでしょうか?

以下は引用です。

「重い罪には重い罰を。」この意見には誰も異論はありません。私も重大な犯罪には厳しい刑罰をという部分では意見は同じです。
でも、「死刑は極悪な犯罪を強行した者への最終解決であると。」という部分はどうでしょう。
本当に死刑という刑罰が解決策になるのでしょうか。

現在、犯罪被害者を支援する制度が徐々に整備されつつあります。犯罪被害者保護法がようやく実現しましたが、犯罪被害者の権利が明確化されておらずまだまだ未成熟な法律です。こうした点を早急に整備し、財政面の支援、精神的なサポートする体制作りこそが、本来の解決策となるのではないでしょうか。

よく言われるのは、犯人は逮捕された瞬間から法律に則って、様々な権利が保障されているが、被害者が置かれている状態と比較するとつりあわない、被害者の人権はどうしてくれんだ、というものです。
ここで指摘したいのは、加害者についてはすでに法律があるという事です。犯人を逮捕し、取り調べ、起訴し、裁判にかける、という一連の流れは、ちゃんと刑事訴訟法にしたがって警察、検察が行うことで、その規定に反して恣意的な取り扱いをしてはならないのです。

一方、被害者を保護するための法律は、今のところ無いに等しい。
ある学者によれば、日本は犯罪被害者救済制度の整備に関して、欧米から30年遅れている、ということです。被害者が何の手助けや保障もないままに放り出されている状態を「加害者にもっと厳しい罰を」という声にすりかえてはならないのです。
「被害者の人権はどうしてくれんだ」という主張に対して、国家は被害者の方々への手厚い保障制度を早急に整備するべきである、と要求しなければいけないのです。

死刑を考える時、もう一つ考えておかねばならないのが、執行する人がいるということです。
拘置所の刑務官は、業務命令で「死刑という殺人」をやらされるのです。
拘置所にいた人の証言によれば、執行のあった翌日は拘置所の刑務官に異様な緊張感がただよっていたそうです。もしかしたら、次回の執行は自分に回ってくるのでは、と思えば生きた心地はしないでしょう。
執行に立ち会った人は、一生の心の傷になると言われています。その人たちの存在を忘れてはなりません。
今の日本社会が「死刑制度」を選択していますが、そのしわ寄せを被っているのが刑務官の人たちです。
彼らの人権というものも視野に入れて議論したいものです。

出所:http://homepage2.nifty.com/shihai/QA3.html


読者Aさま
今あなたが書いている

>人殺しをした人の人権を守る為に、被害者にアプローチするのは、被害者の傷口に塩を擦り付ける行いと思います

はこの記事内容と離れてますよ。

このコメント欄に書くべきは

残虐な殺人犯の責任を死刑という形で放棄させてはいけない・・

という視点で、あなたはどう議論をしたいのか・・だとお玉は考えます。


>具体的に言えない状況では「見出せていない」のです。それを見出し、そして死刑を望む被害者遺族にアプローチしていくことが大切だ、と述べているのです。

三輪さんが自分のブログのコメントに書いていた様に「貴方が許さないから、死なないで良い殺人者が殺されるのですよ」と諭す訳ですか?

>加害者への報復心でしか、心を保てない状況は、最初は仕方がないかもしれませんがとても不幸な状態ですよね。

一番不幸なのは、罪もない被害者が罪ある殺人者に殺された事だと思います。

人殺しをした人の人権を守る為に、被害者にアプローチするのは、被害者の傷口に塩を擦り付ける行いと思います。


Looperさんに同感
>この被害者がそこから抜け出し、前向きに生きられるようサポートするには、社会は一体何が出来るのだろうか?このことをこそ、我々は考え、議論すべきなのではないでしょうか? というLooper さんの発言にたいして

>問題なのは、それを見出していないにも関わらず、そのことを避ける言動をすること。これだとお互いに同じ土俵にすら上がれないじゃないですか。 wakuwaku_44氏の発言は全くかみ合っていない。

社会が被害者にたいしてサポートをしてゆくことだというのが、「死刑を望む被害者に向けてどうアプローチするのか」の答えと私は読めるし、それに同意するものであります。

不正義のベトナム戦争で身も心もきずついた兵士を社会がサポートしなければならない状況がかつてのアメリカにはあり、そこから医学や心理学的メソドなどを軸とした総合的なケアが皮肉にも確立してきた現状から、具体的なサポートが可能な諸関係はすでにあるのではないかと思うものです。私はその筋の者ではないので具体的な手法は知りませんが、犯罪や事故などなどによるPTSDが日本でもしばしばとりあげられるようになってきたことからも、アプローチの具体化への道筋はあるのではないでしょうか。ということをふまえてLooperさんは、考え議論すべきではないでしょうか?と言ったのだと思うのですが。



Looperさんへ
>それは、最終実行者に全ての罪を被せて社会から消し去る「死刑」では、その責任は果たせないのでは?ということです。
>さらには、死刑制度を止めることが、よりよい被害者救済のためにも必要なのでは?という提起がすでに多くの方からなされていると思います。

だから、それは具体的に何ですか?ということです。
具体的に言えない状況では「見出せていない」のです。それを見出し、そして死刑を望む被害者遺族にアプローチしていくことが大切だ、と述べているのです。
別に具体的に見出していないことそのものが問題なのではありません。見出していないなら、それを見出すようにしていけばいいんですから。

問題なのは、それを見出していないにも関わらず、そのことを避ける言動をすること。これだとお互いに同じ土俵にすら上がれないじゃないですか。
同じ土俵の上で同じ課題に取り組み、見出していくことが必要だ、ということを私は申しているのです。


同感です
>加害者への報復心でしか、心を保てない状況は、最初は仕方がないかもしれませんがとても不幸な状態ですよね。
この被害者がそこから抜け出し、前向きに生きられるようサポートするには、社会は一体何が出来るのだろうか?このことをこそ、我々は考え、議論すべきなのではないでしょうか?
 Looperさんのこの意見に共感します。コメント欄の多くの議論の流れにすべて目を通せてはいませんが、応報の感情を超えて、被害をこうむった人々とそこに深くいたわりの念を抱く人たちが、新たに生きる力を見出し勇気づけられるような支援の在り方こそ、求められるべきものだと思います。起きてしまった出来事は元に戻せない、しかし未来は変えられる。犯罪が多発する社会をそのままで、不幸が生まれた後で怒りだけを強調するのは、私たちの思慮の浅さを示しているように思われます。
 ひとりひとりにできることは何か、じっくり考えて行動に移していきたいと思います。


社会の被害者サポート
> それを「死刑を望む被害者に向けてどうアプローチするのか」

私は、その方向性は多くの議論の中からすでに見えてきていると思いますよ。

被害者の犠牲と、被害者家族の思いに、社会が真にその責任を果たす方策は何なのか?
それは、最終実行者に全ての罪を被せて社会から消し去る「死刑」では、その責任は果たせないのでは?ということです。さらには、死刑制度を止めることが、よりよい被害者救済のためにも必要なのでは?という提起がすでに多くの方からなされていると思います。

加害者への報復心でしか、心を保てない状況は、最初は仕方がないかもしれませんがとても不幸な状態ですよね。

この被害者がそこから抜け出し、前向きに生きられるようサポートするには、社会は一体何が出来るのだろうか?このことをこそ、我々は考え、議論すべきなのではないでしょうか?


お玉さんへ
ここはお玉さんのブログですから、お玉さんがどう捉えるのかで展開をなさるのが筋ですが、ご参考になれればと思い、あえて持論というか意見を述べたいと思います。

死刑廃止の理論については、Looperさんや愚樵さんのコメントに異論はありません。
あとは、それを「死刑を望む被害者に向けてどうアプローチするのか」だけです。消極的な死刑存置論を含めて、最大の難関はそこにあると思います。

ですから、次の課題はここにあると考えます。なかなか答えを出せないとは思います。私もいまだに出せていません。死刑廃止論の方からはいろんな意見が出されています。もちろん、それに批判的な意見も当然あります。
しかし、これを積み重ねていけば、「答え」は無理でも何かしらの方向性は見出せてくるのではないでしょうか。

これはあくまでも意見ですので、ご参考にしていただければ、と思います。



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