個人の尊重
2008-02-08(Fri)
ほぼ、今週一週間「憲法」で遊ばせて頂きました~~
いや~~橋下知事!!感謝です~~(*^_^*)
明日はお玉は忙しいので、ちょっと友人に教えてもらった、右派左派関係なく遊べる話題を取上げます。お楽しみに!!
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さて、田柄さんのコメントより~
でも現状の憲法だって、読めない、理解できない、読みたくない! って人も多いのでは?
例えば・・・・
憲法十三条
『国は、ひとりひとりの幸せを大切にします。
みんなの迷惑にならない限り、自由に暮らしてください。』
う~ん・・・これじゃダメでしょうか?(笑)
まぁ、馬鹿コメントですが、この観点で改正が議論されたことってないのでしょうか?
大切なことだと思いますが・・・・
いえいえ・・おっしゃることわかりますよ。
そんなあなたにお玉からこの本をお薦めします~
井上ひさしさんが朝日小学生新聞に連載したものを元に作られた本です。憲法の前文と9条についてだけですが、子供達にもわかる言葉で書かれてあります。
その中で、「個人の尊重」について、こんな風に表現してあります。
~~引用~~
みなさんも、話し合いでまとまらないときは、
多数決を取ってきめることが多いでしょう。
でも、それで意見がきまったからといって、
みんな考え方が同じ、というわけではないですね。
憲法第11~13条や第96条では
国民ひとりひとりは大切にされます、といっています。
たとえば多数決の結果であっても、
ひとりひとりが、自分のためにいちばんいい生きかたをするのを
だれもじゃますることはできないのです。
これを「個人の尊重」といいます。
「個人の尊重とは、この世に生まれたひとりひとりが
じぶんであることを尊んで
自分がじぶんでなくなることをおそれること」
友人の憲法学者、樋口陽一さんがそう教えてくれました。
「個人」というのは、とりかえがききません。
かけがうのない自分という個人を、大切にしていきたいものですね。
しかし、みんな好き勝手に、
やりたいほうだいしましょうと、すすめているわけではないですよ。
(引用終わり)
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コメント
なんだかおもしろいのでひとこと。
個人は取り換えがきくかどうか、というとき、その個人のうちになにを見るかによると思います。たとえばセクシーで優しい女性とお付き合いしていて、とつぜんその人を失ったとき、単にセクシーで優しいだけでいいならばほかに代わりはいるでしょう。しかし失った「そのひと」は還らない。個人の持つ価値というものは実にさまざまなものを含みますが、そのうちで自分にとって大事なものはなにか。愚樵さんの言う「わたし」と「あなた」の関係は、気持ちが通じ合う近しい関係、微妙な気持の揺れを感じ合う関係、といったものではないでしょうか。そこに見るのは単なる外見の価値ではなくて、心を動かすような価値であるから、ほかとは取り替えられないものなのですね。カネさえあれば買い換えることができる対象ではないからです。はたしてそういった価値こそが、個人の存在の等価性という表現で言われるものなのではないかと私は思います。誰しも同じように、カネでは測れない存在の意味合いを持っているはずだということ、ただしそれは潜在的にある価値であって、実は飢えや戦争や、交通事故や凶悪犯罪によってその価値を踏みにじられる個人が無数にいるということ。
なにか、勘違いして書いていたらごめんなさいね。
個人が互いに尊重しあうために
大切なことのひとつは
個人の意思の質にあるのではないでしょうか。
ソクラテスは己のダイモン(魂・守護神)に耳を澄ませるため、道端で一昼夜でも立ち尽くしていたといいます。
はたして自分の意思は、どこから来るのか、
その意思は正しい意思なのか、
自分自身に問いかけつづけること。
その姿勢なしで、個人の意思を尊重するという思想は生まれ得ないのではないでしょうか。
新渡戸稲造は、『武士道』の中で、こうした形而上の思想を持つ文化がこの国には欠けていると指摘しております。
そのため時に極めて直情的で利己的な反応に支配される面があると、
後の軍国主義の到来を予言しているのではないか、とも思える警告が含まれております。
自分自身も含めて反省したいところです。
愚樵さん>
痛いと仰られますので、お節介半分、提言半分の気持ちで私の考えを。まず観念をとらえるときに、公的なとらえ方と私的なとらえ方で、全く逆の意味になることがあります。この場合ですと、公愚樵さんとしては「個人の命なんて取替えが利く」「命はかけがえがないなんて、ウソ!」と思い、私愚樵さんとしては「個人を尊重する」(勝手にこのように推測します)と思うのも正しいということです。掘り下げると人間の根本に関わる「利己」「利他」から生まれるものと思われるのですが、これは矛盾するようで同時にあるものと考えています。ですから、どちらかひとつというのは自分でそう思わなければ説明がつかないという気持ちからの錯覚じゃないかと思うわけです。
なめぴょんさん、どうもです。
私の個人的見解に理解を示していただいたようですが、それを喜んでよいものやら悲しんでよいやら、迷ってしまいます。
なんとなれば、「個人の命なんて取替えが利く」「命はかけがえがないなんて、ウソ!」というような言葉を吐くのは、自分でも“痛い”からです。吐いたあとに罪悪感が残ってしまう。
痛い言葉を吐いた罪滅ぼしをしたいのですが、情けないことに自分の言葉ではできないので、厚かましくも他人様の言葉と歌を紹介してそれに換えさせていただきます。
志村建世さんのブログ 2007.8.8の記事『いのちの歌』
(
http://pub.ne.jp/shimura/?daily_id=20070808)
ぜひ、いのちの歌を聴いてみてください。
愚樵さん、おれがもやもや思ってたことをもっと明瞭にすぱっと言い表してくれました。
ひとは何らかのフィクションに依存して生きざるをえない。世界には幾通りものフィクションがあって、みんな、己の身の丈にあったフィクションを選択するのでしょう。「ロッケンロール」「愛と自由と平和」「公共の福祉」「公共の秩序」。
その人なりのフィクションは、その人の価値と同様、尊重されるべき。
そして日本国憲法とその精神には、「ひとりひとりの尊重が犯されない限りその人のフィクションを尊重する」という精神がある、って信じてるから、わたくしは9条だけの問題ではなく、「その人独自のものでない、誰かが決めたフィクション」を尊重させようとする、改憲案に断固反対します。
各々の人生において主役を演じられている皆さまがた、いつも素晴らしい人生劇場を見せていただき誠にありがとうございます。
憲法にも人は平等でない事は、多少表現は違いますが、明記されています。
何条だっけ?生まれや育ちで差別するなってとこです。逆に言えば、生まれや育ちは人それぞれ違う事を明確に意識していると言えます。
では何が平等なの?って聞かれると思いますのでさっさと答えておきますね。平等なのは人格です。これは天皇(人間ですから)であろうと乞食だろうとかわりません。
他人の人格を低くみる人は、逆にその対象者から人格を低くみられていることに気付いていません。子供相手に子供の目線で話すのは、子供の人格を認めればこそできるのです。
あなたの人生は、あなた以外の者では代わりはつとまりません。代わりのいない各々が代わりのいない各々を思い遣る、これが個人の尊重です。
面白い問題提起、ありがとうございました。
今日はお玉さんに反旗を翻してみましょう。
「個人」というのは、とりかえがききません。
かけがうのない自分という個人を、大切にしていきたいものですね。
しかし、みんな好き勝手に、
やりたいほうだいしましょうと、すすめているわけではないですよ。
こんなウソです。個人なんて、いくらでも取替えが利きます。取替えが利かないのは「自己」のみ。言い換えれば一人称で呼ばれるワタシと二人称で呼ばれるアナタ。三人称で呼ばれる者たちは「自己
じゃないから取替えが利く。
今、我が家に宅配屋さんがやってきましたが、宅配屋さんは私(愚樵)にとっては三人称。今度来る宅配屋さんが別人でも一向に構わない。宅配屋さんでありさえすれば。個人は関係ない。個人は取替えが利く。これが三人称の他人と一緒に社会を営む基本ルール。
だってそうでしょう。そうだからこそ、おカネなんてものが要るんでしょう? 等価交換のための尺度が。社会の構成員全てがワタシにとってかげがえのないアナタばかりなら、等価交換なんて必要ない。みんな贈与でいいはず。
「基本的人権」=社会の構成員はすべて等価値なんてのは虚構なんです。でもそれは力のある一部の人間が、その人間にとって本当のこと(他人は取替えが利く!)で社会を好き勝手に動かしてしまわないよう、けん制するためのもの。同じ社会で暮らすみんなが等しく幸せになるためには大切な規則だけれど、本当のことじゃない。大切な虚構。
子供には、大切だけどそれはウソなんだということも教えておかなければ。世の中には大切なウソもあるんだよ、と。そのウソと付き合いながら自分のかけがえのないモノを見つけて、それを大切にしていくのが幸せへの道。それが大人になるということ。
ま、私の個人的見解ですが。
教えていただき、ありがとうございます。
こういう形で、易しく憲法を解説していく努力は大切ですね。
小林先生が、
『議員も国民も憲法を理解していない』
と言われていますが、
当たり前ですよね・・
だって、読めないんですから(笑)
私も、読売に憲法の改正試案が掲載された時に、読んでみましたが・・・・半分もいかずに挫折しました(泣)
とにかく、長過ぎです・・・・トホホ。
うん、みんなに(特に子どもに)分かりやすくするのは良いことだと思いますが、当然、それにも解釈が出てきますね。
個人の基本的な権利は、多数に侵害されることはあってはならない。特に「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」「教育を受ける権利」「団結権・団体交渉権・団体行動権」は、GHQが一つの理想とした米国憲法も凌駕し、世界的にも「勤労者の権利」をすべて明記しているのは、日本だけと言われています。
9条だけではなく、こんな世界的理念を示している憲法をなぜ変えなければいけないのか、ボクには分かりません。
変えちゃいけないという意味ではなく(これも解釈ですね)、「変える」ために「変える」という考え方に反対します。
「変える」よりも「生かす」ことで、国際社会に地位を確保することが大切だと思っています。
ながながとすいませんでした。一つの意見として読み流してください。
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