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長々と私の拙い文章にお付き合い頂き、有難うございました。
漸く私も違和感がなくなりました。
基本的な方向が一致するだけで、私も満足です。
本当に有難うございました。
MMOさんと東西は同じ方向性だということがわかりました。東西は、すでに違和感はありません。
1:「仰るように行動の選択の自由は保障されるべきですし、処罰などで強制する類のものではありません。この点では異論はありません。」
この点が確認できたことが一番の大きな点だと思います。起立・斉唱反対派の人々は、この点の確認があればよい、という人がほとんどです。
2:「指導内容として、起立・斉唱を当然とした上で、国家権力の歴史を教える。その際には、当然行動の選択が可能であることを教える。理由としては、主権者たる国民が国家権力より上位に存在する為です。そして、だからこそ国民には国家権力を監視し、批評する義務がある。と考えるからです」
まったく同感ですよ。国家権力には二面ありますからね。公共性と暴力性。国家権力の公共性を拡大していくことが国民主権の歴史であり、指導の方向性です。他方、国家権力の暴力性によって国民の人権、主権が蹂躙・抑圧されてきたし、現在の政権も主権、人権を侵害している、ということです。だから、国民みんなで政権を監視し、批判していく必要があるが、政権を支持するか否かは各自で自主的に決定し、政治に参加していく必要がある。こういった内容の教育をしていく方向性です。
折角お返事を頂いたのですが、私の文章力が無い所為か、多少違和感があります。
私としては、行為以前の問題として、そういった指導を行うことはいかがでしょうか?とお聞きしたかったのです。
紛らわしくて、申し訳ありません。
仰るように行動の選択の自由は保障されるべきですし、処罰などで強制する類のものではありません。この点では異論はありません。
指導内容として、起立・斉唱を当然とした上で、国家権力の歴史を教える。
その際には、当然行動の選択が可能であることを教える。
理由としては、主権者たる国民が国家権力より上位に存在する為です。
そして、だからこそ国民には国家権力を監視し、批評する義務がある。と考えるからです。
東西南北さんが考える指導の方向性を教えていただければ、幸いです。
シンペイさんへ。
「国家権力への監視はともかく批判が当然というのはどうでしょう。理由無く根拠無く批判するべきだから批判するのはどうでしょう。」
国民主権ですから、政権を批判することを教育することは当然です。医療、介護、年金、教育、安全保障など様々なことで政権を批判することは国民主権の基本です。その上で、政権を支持するか、支持しないかを自主的に決定し、政治に参加していくことを教育する必要があるのではないですか?
MMOさんへ。
1:「国旗、国歌が象徴しているものに国家権力が含まれる為、起立・斉唱を当然とするのは、妥当ではないと理解しましたが、よろしいでしょうか。」
はい。そうです。
2:「東西南北さんがおっしゃるように、国家権力を監視・批判することを教育することには賛成です。」
ありがとうございます。
3:「式典ではやはり権力を貸与する側である国民に対する礼儀に重きをおくべきではないでしょうか。」
ここが問題ですね。国土、国民の歴史に重きを置いて「国歌、国旗」に礼儀を尽くし、起立、斉唱する立場もあるでしょう。賛成です。しかし、国家権力が国土、国民を弾圧し、蹂躙してきた歴史に重きを置いて、不起立、不斉唱という立場もあるんです。ということで、国土、国民の歴史に重きを置くか、国家権力の歴史に重きを置くか、これは選択の自由であり、各自が自主的に判断することになります。
学校の式典に「国歌、国旗」を持ちこんで、国土、国民の歴史を教育する方法もあるでしょうし、「国歌、国旗」を持ち込ませないで、国土、国民の歴史を教育する方法もあるでしょう。いずれにしても、「国歌、国旗」は国民主権を教育する「道具」であり、強制、行政処分のの手段であってはならないということではないでしょうか。
国旗、国歌が象徴しているものに国家権力が含まれる為、起立・斉唱を当然とするのは、妥当ではないと理解しましたが、よろしいでしょうか。
国家権力ですか。
私はこういった知識が少ないため、間違っているかもしれませんが、私の認識は以下のとおりです。
”国民主権において、国家権力とはあくまで国民から貸与されたものであり、権力の行使者は国民から選任されなくてはならない。
このため、国民は権力が正しく国民のために行使されたかを監視し、評価していかねばならない。”
このような認識ですので、東西南北さんがおっしゃるように、監視・批判することを教育することには賛成です。
ですが、式典ではやはり権力を貸与する側である国民に対する礼儀に重きをおくべきではないでしょうか。
監視はともかく批判が当然というのはどうでしょう
特に国旗や国家は確かに、かつて「侵略の象徴」として使われました。
しかしそれはあくまで「道具」でしかないと思います。
それを理由に批判や非難の対象とするのは
「強盗が武器として使ったから包丁を否定する」みたいなものでは?
あと「理由無く根拠無く批判するべきだから批判する」では
かの大日本帝国軍より愚かしい連合赤軍の
「総括」や中国の文化大革命と似たようなものだと感じます、正直
「国公立の学校の場合、出資者たる国民を含めた国の象徴である国旗、国歌に対し、礼儀として起立・斉唱することを当然とする指導は、おかしなものではないと考えますが、いかがでしょうか。」
国土、国民の象徴としての国旗、国歌に対し、礼儀として起立・斉唱することは当然という指導はおかしなものではないと東西も考えます。
問題は、国家機関=三権、時の政治権力の象徴としての国旗、国歌に対しては礼儀として批判、監視していくというのが国民主権では当然だという所にあるのはないですか?
ですから、国旗、国歌のことを授業なり、学校で教育するということなら、「国」というものは国土、国民、国家から成立していて、国土、国民を敬い、礼儀を尽くす必要があるが、国家に対しては、批判、監視を貫きながら、自らが自主的に時の政権を支持するか否かを決定し、政治に参加していくことが国民主権である、と教育することになります。
私の拙い文章を理解していただき、有難うございます。
さて、”起立・斉唱することを当然とする指導”ですが、
礼儀やマナーの問題と認識しています。
こういうと、問題を矮小化しているといわれるかもしれませんが、そういう認識です。
愛する愛さない、好き嫌い無関心等個人の感情なので強制どころか指導すること自体が不可能だと考えているからです。
ただ、先にも何方かが言われていましたが、国公立の学校の場合、出資者たる国民を含めた国の象徴である国旗、国歌に対し、礼儀として起立・斉唱することを当然とする指導は、おかしなものではないと考えますが、いかがでしょうか。
>英国の国歌と日本の国歌比較したことありますか?
>女王に栄光あれと神に祈っちゃうんですよ。その歌背負って、アジア、アフリカ、インド、アメリカ、オセアニアに植民地作りまくって、アヘンを売りつけるために戦争して、99年間領土を取り上げた挙句、謝罪する必要なんて感じてないんですよ。
その英国国歌を英国の学校行事で斉唱してはいないはずなんですけど。
(やったらそれこそ大問題になりますよ)
MMOさんへ。
1:「私は不起立に対する処分には賛成しかねますが、起立・斉唱することを当然とする指導を怠ることへの処分はされるべきと考えています。どっちつかずの考えですが、今の私で出せる精一杯の考えです。」
確かに、指導を怠ることへの処分は積極的に賛成であるなら、不起立への処分にも積極的に反対して欲しいところですが、回答にかなりの誠意を感じましたので、満足です。不起立への処分に反対とまではいかないが、賛成しかねるということですね。ありがとうござます。
さて、起立・斉唱することを当然とする指導ということですが、これは国土、国民を愛するということは当然だという指導は必要ですが、国家機関である三権を愛することが当然だいう指導は、むしろ、憲法に反しています。
国家機関である三権は必ず腐敗するので国民主権で批判、監視していく必要があるという指導こそ憲法教育だからです。
ろうさんへ。
「国旗・国歌が象徴するものは(歌詞や書いてある模様にかかわらず)国民であり郷土です。」
もちろん、「国 」の旗、「国」の歌ですから、国土、国民を象徴しております。これだけなら問題ないです。しかし、「国」ですから国家を含みます。そして、国家というものには三権を含むのは当然ですね?ここが強制できない根拠になるのです。
例えば、現在の自民党・公明党政権に賛成の人、反対でない人は、国土も、国民も、国家も愛しているから問題ないです。しかし、国土、国民は愛しているが、自民党、公明党政権は愛せないという人もいます。これらの人に国歌、国旗への起立・斉唱を強制することに反対なのです。
「国」である以上は、国家権力を含んでいるんです。ですから、時の政権を愛せない人に国歌・国旗を強制するのであれば北朝鮮・中国政府の独裁を愛させるということです。内心では野党の支持であるが、投票は政権政党へ強制するのと同じことになります。
>「この種の議論の時に日本の国旗・国家に対して歴史上の否定的な時期
>があることを理由に否定的なひとが、外国の国家について同様に否定
>的な感情を持っていないのが理解できません」
> この意見に東西も賛成です。国民主権を貫くなら政権批判をすること
>が必要であり、自国の政権を批判するのであれば、他国の政権も批判し
>ながら、諸外国の国民と連帯していくのが基本です。
東西南北さん、申し訳ありませんが、これって私の意見に賛成しておられません。
私は、国旗・国歌の話をしています。
政権の話をしていません。
過去の歴史に明暗があるとしても、その国を象徴するものとして「国旗・国歌」があり、礼儀として他国のそれを尊重できるなら、なぜ日本の国旗・国歌を尊重できないか理解できないと言っているんです。
国旗・国歌が象徴するものは(歌詞や書いてある模様にかかわらず)国民であり郷土です。
政権が変わるたびに国旗や国歌を変えますか?
先の投稿は、自分なりにイヤミを書いたつもりです。
英国の国歌と日本の国歌比較したことありますか?
女王に栄光あれと神に祈っちゃうんですよ。その歌背負って、アジア、アフリカ、インド、アメリカ、オセアニアに植民地作りまくって、アヘンを売りつけるために戦争して、99年間領土を取り上げた挙句、謝罪する必要なんて感じてないんですよ。
これと比べて、日本の国旗・国歌が尊重されないなら、その原因は戦争に負けたことしかないことになりますよ。
となれば、日本がすべき反省は「次の戦争では勝つほうにいよう」なんですけど。
少々感情的で失礼しました
私の拙い疑問に答えていただき、有難うございました。
なるほど、当然かどうかは問題ではないわけですね。
私は不起立に対する処分には賛成しかねますが、起立・斉唱することを当然とする指導を怠ることへの処分はされるべきと考えています。
ただ同時に諸事情や主義主張により不起立することも可能であることも教えるべきだと思っています。
どっちつかずの考えですが、今の私で出せる精一杯の考えです。
1:「国民主権は結構です。しかしそれが政権批判とイコールで繋がるのが理解出来ません。なんで「必ず批判」しなきゃいけないの? 」
なぜなら、政権、三権は必ず腐敗するという前提が国民主権だからです。ですから、国民が政権、三権を批判する必要があるわけです。これは憲法です。
「国民主権だろーがナンだろーが政府が間違ってるなら批判して、政府が正しいのなら支持すればいいんじゃね?」
もちろん、政権政党へ団結し、投票することは自由です。同様にして、野党と団結し、投票することも自由です。ですから、国歌・国旗に対して起立・斉唱するのかどうかも自由だということではないですか?公務員といえども、投票行動の自由はあるでしょう?同様にして、公務員といえども、国歌、国旗に対して起立するかしないか、斉唱するかしないかは自由です。
国の歌、国の旗である限り、国には政権、三権が含まれているのは当然ですから。現在の政権を愛せない公務員に「起立、斉唱」を強制することは、内心では野党を支持しているのに、政権政党への投票態度を強制されるのと同じです。
>国民主権を貫くなら政権批判をすることが必要であり
ここがよくわからない 。
国民主権は結構です。
しかしそれが政権批判とイコールで繋がるのが理解出来ません。
国民主権だろーがナンだろーが政府が間違ってるなら批判して
政府が正しいのなら支持すればいいんじゃね?
なんで「必ず批判」しなきゃいけないの?
>要するに、国旗、国家を強制しなければいいんじゃないでしょうか?
そのまえに教師の組合に国旗、国家、愛国心を徹底的に否定する教育を止めさせるべきではないでしょうか。
ほんの六十年前確かに国旗、国家、愛国心を武器に侵略戦争を起こしました。
現在の中国を肯定する人達によるとどうも侵略とは成功してしまえば正義らしいのですがそれはともかく
所詮道具でしかありません。
それを理由にそれらを否定する人達は「強盗に使われたから包丁とバットは全て無くすべき」といってるようなモノかと。
あと起立をしなかった教師処罰について。
彼らは公務員です。
ちと極論するならば「正義と真実に反する行いであっても日本国の利益の為活動せねばならない」と思います。
更には一介の労働者として上司の指示には従うべきでしょう。
従わなかったのなら解雇、ないし職場での立場悪化はあたりまえだと思います。
「今日本で問題になっているのは、”式典にて国歌斉唱の際、起立し斉唱するのが当然かどうか”と認識しています。」
今問題になっているのは、当然であってもなくても、行政処分によって強制するのか否かです。当然であったとしても強制は違法である、というのがアメリカ最高裁の判例です。当然出ないなら、なおさら、強制は論外だということでしょう。
「この種の議論の時に日本の国旗・国家に対して歴史上の否定的な時期があることを理由に否定的なひとが、外国の国家について同様に否定的な感情を持っていないのが理解できません」
この意見に東西も賛成です。国民主権を貫くなら政権批判をすることが必要であり、自国の政権を批判するのであれば、他国の政権も批判しながら、諸外国の国民と連帯していくのが基本です。
要するに、国旗、国家を強制しなければいいんじゃないでしょうか?
教育現場では、国民主権、人権、戦争放棄を教育することが愛国教育ではないですか?
この種の議論の時に日本の国旗・国家に対して歴史上の否定的な時期があることを理由に否定的なひとが、外国の国家について同様に否定的な感情を持っていないのが理解できません。
先にフランスの国家を革命の意思として評価されている方がいましたが、フランスはその国旗・国歌の下、アフリカやアジアで多くの過酷な植民地支配を行ってきましたし、女王を讃える国家を持つ英国も同様です。中国は周辺の国に対してヤクザでも、もう少しマシな理由をつけるだろうと言う戦争をしてきましたが、その後国旗・国歌を変えたとも聞いておりません。
国内に対する内戦・弾圧も同様でしょう。
なぜ日本だけは許せないのですか?
日本は、何百万人の単位で国民を餓死させる国より愛せませんか?
日本は、何千万人の単位で国民を粛清する国より愛せませんか?
日本は、本国から遠く離れた植民地で核実験するような国より愛せませんか?
そんな国々の国民が、その国旗・国歌を尊重する程度の尊重すら日本には与えられませんか。
あらかじめ決められた結論を前提にするなら、大多数の他国の国旗・国歌についても否定したほうが、まだ統一性がありますよ。理解はできませんが。
はじめまして。MMOと申します。
アメリカの連邦裁判所の判例を出されていますが、疑問というか違和感があります。
というのも、今日本で問題になっているのは、”式典にて国歌斉唱の際、起立し斉唱するのが当然かどうか”と認識しています。
アメリカはこれを当然としている国です。
でないと裁判の意味がわかりません。
つまり前提条件が違いませんか?ということです。
つまらない上に、長くなってしまい申し訳ありません。
いくら考えても「国旗国歌」の強制に反対できないのであれば、その理由は簡単です。ドグマがあるからです。
国歌、国旗=共同体といったドグマがあるからです。
何度もいいますが、国の歌、国の旗なんですよ。国である以上は、国家権力を含んでいるんです。ですから、時の政権を愛せない人に国歌・国旗を強制するのであれば北朝鮮・中国政府の独裁を愛させるということです。内心では野党の支持であるが、投票は政権政党へ強制するというのがChic Stoneさんの態度と理論です。
「アメリカは逆に、多民族国家を国旗国歌と憲法でまとめています。」
何度も言いますが、事実誤認です。アメリカは国歌、国旗を強制していません。この点、アメリカ最高裁のバーネット裁判での判例が確立しているようですね。
(引用開始)
連邦最高裁はバーネット事件において国旗宣誓・敬礼の拒否は他人の権利を侵害・否定するものではなく、平穏で秩序あるものであるかぎり、憲法上保障されるとし、沈黙着席してもかまわないとしました。
この判決は1943年にだされたものです(戦時中にです)
かれこれ60年が経ってます。
(引用終了)
[2008/03/28 18:09] URL | 村野瀬玲奈 [ 編集 ] TOP
疲れたので一休みします、すみません。
あとは自分のブログで少しまとめます。
なぜ強制しなければならないのか…
なぜ歌えないのか…
いくら考えても分かりません。
日本はもう多民族国家、ひとつの旗の下にはまとまれなくなっていると認めるしかないでしょう。
でもアメリカは逆に、多民族国家を国旗国歌と憲法でまとめています。
日本ではどうすればいいのやら。
>なぜ僕は推進論者とみなされているように読めるのでしょう。
「公立校は政府が出資・運営していますから、そこの儀式で国の象徴に敬意を示すのは当然です。」
当然ですとまでおっしゃっているんですから、推進論者にしか見えませんけど。
>「強制する」「強制しない」という二案はたくさん出ていますから、他を探りたいのです。どちらかしかないのでしょうか?
ないでしょう。「する・しない」なんですから、選択肢はその2つしかありません。
>とりあえず僕の案は出しました。
残念ながら案とは言えないでしょう。
だって、その「申請」は誰に対して行うのです?
「政府」ですか? それならそんなものが認められるはずないじゃありませんか。認めるくらいなら最初から強制なんてしないはずですから。
それとも「裁判所」ですか? それならそんなものが認められるくらいなら、それ以前に強制の不当性を訴えれば通るはずじゃありませんか。
つまり、あなたのそれは別の案ではなく、強制する際の処分を「遅延」させるための手段にしかなっていないのです。
そもそも、「良心的儀式拒否」は歌わないことの正当性を認める制度なんでしょ。ところが儀式において君が代斉唱を強制したい人は、別に歌わない人を処分したいからじゃない、儀式で出席者全員が君が代を歌うことを望んでいるんですよ。つまりそこに正当な理由があろうが、式典で歌わない人がいること自体が強制を求めている人から見ればアウトなんですよ。よって問題の解決にはならないってこと。
「良心的兵役拒否」の場合は、もともと必要な数を集めるために「選抜」をしているから、そういう拒否者がいても実質的な影響は小さくて済ませられるのであり、また、その拒否者に別のボランティア活動をさせるなどしてその分を補填させるということもできますし。
でも「良心的儀式拒否」の場合はそれで理由付けをしたって、強制を求める側にしてみればその拒否者の存在自体が許されない、即ち「案」にはならないのです。
>費用というより主催、運営…いや、儀式には本質的に、「霊的な支配者」を想定せざるを得ないです。
>霊的な面が一切ない儀式は矛盾した言葉でしょう。その最終的な、霊的な支配者は公立校では最終的に国です。
ですから、そういう理由でその「儀式」において国旗国歌に敬意を示すのが当然であるというのなら、最初のあなたの、他国の云々という「率直な疑問」が生じないと思うのですが。
だって、ほとんどの人は他国が主催する儀式に参加する機会などまず無いでしょ。
例えばスポーツの国際大会などは、通常その主催者はどちらの国でもありませんもの。
加えて、そもそも卒業式や入学式がそのような「儀式」でなければならない理由もないですし。
>結婚式で君が代を歌うかどうかは、国葬同様国自体の式なら、または結婚式をやるとすれば家族のためだから家族が望めば(家族の望みは「世間・普通」なので世間的に普通なら)、というのが最終的な答えです。
>儀式に参加しなければならない場では、何に対しても内心とは別に敬意を示す演技をすることはできます…他の宗教の寺院に入るときはそのルールに従うように。
それならば、ご自分の結婚式に君が代斉唱を入れることに何の問題もないはず。
あなたがそうであるように、他人も「演技」はできるはず。
内心で国の象徴に敬意を示すのが当然と思っていない人がいても、その人には「演技」をしてもらえばいい。
一方、それを当然と思っている人の望みはかなえることができるし、あなたの最初の「率直な疑問」の観点からも敬意を示す機会は多いほど良いはずでしょ。
でも、他人が主催するイベントでは「当然」、それをやらないことを「日本の恥」とまでおっしゃる方が、自分が主催するイベントでは「家族が望めば」と留保する。整合性がとれていないではありませんか。
そしてご家族が「世間的に普通」ではないという判断をなされるとしたら、それはイコール「場違い」ってことでしょ。
つまり、あなたも自分が主催するイベントでは私と全く同じ基準で「強制しない」ことを選択するとおっしゃっているのですよ。
それなら、多数の人が集まるイベントにおける君が代の扱いとしては、主催者はそういう配慮をするのが望ましいと整理された方が、掘り下げた意味もあるってものだと思いますよ。
だいたい方向性が見えてきたのではありませんか?
国があり、国旗があり、国歌がある。
皇室があり、民主主義的議会がある。
自衛隊があり、日米同盟がある。
そうした今のこの国の基本的な‘かたち’そのものに異を唱え、この国の根幹を変えたいと思っている人は、ほとんどいないと思うのです。
もしも、そうしたこの国の根幹を変えたいと考えているなら、それに変わるモデルが提示されねばならない。
Chic stoneさんの思索の底には、たとえばカラマーゾフの兄弟の『大審問官』の章や、ル・ヴィンの『オメラスから歩み去る人々』などで語られていたテーマがあるのではないですか?
すなわち、人間の自由意志とは?という哲学的命題です。またそれは同時に非常に社会的な命題でもあります。
たとえば、幼児虐待が行われるような社会を正しい社会とは断じて言えない。この社会での幸せなど信じることができない。
では、信じられる社会とは?
それを提示できれば、多くの人は自由意志によって、その社会をえらぶのではないだろうか?
そんな風におっしゃっりたいのでは?
>村野瀬さん
同感です。「プロレタリア一党独裁」国家などは、まさにその典型例と言えるように私は感じます。
返答ありがとうございます。
>ただ、その考え方(内心と外形的行為は密接な関係を有する)は
問題でもあると僕は感じたのです。
問題というのは、内心の自由が絶対化されないということでしょうか?
絶対化とは思想信条が内心にとどまる限り絶対的に保障されるという
意味ですよね。だとすれば、内心と外形的行為が密接に関係すると
考えても絶対化することに問題はありません。
例えば、私が犬は鎖から解放されて自由に生きるべきという信条を
持っていたとします。これに対して国家が、その考え方を改めなさい
と強制することは許されません。なぜなら、私はそうすべきと思って
いるだけで実行に移してないからです。
内心にとどまる限り絶対的に保障されます。
私が近所の犬達を鎖から解放したとします。これは外形的行為です。
外形的行為は場合によって制約を受けます。
例えば、犬達を解放することにより衛生面の問題や人間に危害を
加えるおそれがでてきます。
これらを防ぐために私の信条は制約を受けるでしょう。
外形的行為は競合する諸利益によって相対化されます。
内心と外形的行為が密接に関係しているか否かと内心と外形的行為が
どのような保障を受けるのかは別問題だと思います。
>もし内心と外の行動が不可分であるとすれば、
僕は結婚式自体できないでしょう。
内心と外形的行為は常に可分なのか不可分なのかと言った問題では
ありません。人により、場合によります。
ただ、憲法上問題となるのは不可分な場合が多いというだけのことです。
そもそも心の内面の問題なのですから人それぞれです。
>信用するに足る何者かをお持ちでありましょうか?
全面的に信頼できる人はほとんどいないと思います。少なくとも信用できない人を一人でも多く権力の座から落としていかないといけません。また、同じ人たちが長い間権力の座にいると、取り替えない金魚鉢の水のように腐ってきます。だからときどき政権交代をさせ、国民が政治・行政を監視しなければならないのです。楽じゃありませんけど...。
「政権交代は、あらゆる改革につながる本丸。」
僕は何なのでしょう。
なぜ僕は推進論者とみなされているように読めるのでしょう。
僕はただ掘り下げているだけです…僕は多くを学びましたが、皆様はどうなのでしょう。
僕にはどちらの気持ちも分からない…僕にとって一番簡単な理解は「踏み絵」でした。
嫌な人は日の丸君が代は天皇教偶像崇拝と解釈しており、キリスト教は内心・体の言動双方を絶対に束縛しているのでそれが絶対に命を賭けて不可能なのだ、キリスト教徒でない人も同様の何かを抱いているのだ、と。
逆に強制する側は、踏み絵を踏まない「反逆者」をなんとしても内心も叩き潰さなければならない…徳川三百年の平和の為に切支丹を焼き殺すように、反乱予防のため船の旗に敬礼しない者を処刑するように。
そう理解するしかないです。
でもそれが正しいかも分からない、どちらも多様かもしれない…
ただ考えて欲しいのです、嫌な人がなぜ嫌なのかだけでなく、強制する人がなぜ強制しているのか。儀式とは何か。
あと、僕自身どう考えても、内心と外、肉体の言動は切り離さなければ生きられません。それほど僕の内心は邪悪で、世間・道徳に合わせられません。
体はロボットでもいい、内心の自由だけは絶対無制限に保障して欲しいです。
>白砂青松さん
>模索されているなら、「強制しない」という別の案を検討されてはいかが?
「強制する」「強制しない」という二案はたくさん出ていますから、他を探りたいのです。どちらかしかないのでしょうか?
とりあえず僕の案は出しました。
>結婚式が、国葬同様に国が行うもので国が費用を出してくれるなら必要でしょう。
>あなたは国が費用を出してくれないなら、国の象徴に敬意を示す必要はないと言っていることになりますけど、「敬意」ってそういう性格のものですか?
「費用」という言葉自体、僕が感じている概念を言葉にできなかったからで、的確な言葉とは言えませんでした。
費用というより主催、運営…いや、儀式には本質的に、「霊的な支配者」を想定せざるを得ないです。
霊的な面が一切ない儀式は矛盾した言葉でしょう。その最終的な、霊的な支配者は公立校では最終的に国です。国と国民の関係は今整理中で、理解できていませんが。
保守派がよく使う「公」「私」の区別、「縦軸」という言葉とも関係がありそうですが、明白には理解できません。
>自分の結婚式の式次第に君が代斉唱を入れて、国の象徴に敬意を示すというのは、全くのあなたの自由なはずでしょ。そんなに敬意を示すことが大事なら、自分が主催する式典でそれを率先してやるべきでしょと聞いているわけです。
僕は国にもいかなる神にも忠誠心は持っていません。あえていうなら地球型生命圏、人類、(自分で考えている…拙サイト参照)人類共通規範に忠誠は誓っていますが。
もし内心と外の行動が不可分であるとすれば、僕は結婚式自体できないでしょう。
結婚式にも強く「公」の面があり、それはチャペル婚のキリスト教のように宗教であり、何よりも「世間」です。
そして僕が結婚式をしないと決めたら、それは家族に暴力を振るうのと同じです。
さてここで、僕は家族のために内心を隠して儀式に参加し、賛美歌でも(世間がそれを命じていれば)君が代でも念仏でも何でも歌うべきか、それとも家族をめちゃくちゃに傷つけて意志を押し通すべきか、どちらでしょう。
結婚式で君が代を歌うかどうかは、国葬同様国自体の式なら、または結婚式をやるとすれば家族のためだから家族が望めば(家族の望みは「世間・普通」なので世間的に普通なら)、というのが最終的な答えです。
儀式に参加しなければならない場では、何に対しても内心とは別に敬意を示す演技をすることはできます…他の宗教の寺院に入るときはそのルールに従うように。
ただし僕は内心の自由は絶対だと命をかけて主張します。
また宗教的・それに準じる理由で言動も束縛されて歌えない人には、良心的兵役拒否と同様の論理で救済措置を設けるべきだと思います…どうにもなりませんから。
>村野瀬さん
そうなのですか…ありがとうございました。コメントいただき光栄です。
>政府や与党が何を約束しても信用できない
信用するに足る何者かをお持ちでありましょうか?
>単純に皆さんが何を考えているか知りたいだけ、別の案がないか模索しているだけです。
模索されているなら、「強制しない」という別の案を検討されてはいかが?
>「場違い」と、それだけなのでしょうか?そのために国・憲法・議会を否認していると人によっては解釈できる行動を取っている、しかも職なども賭けてまで?
「場違い」は私の理由。そんなものは人それぞれであって、他人のそれを私が決め付けることなんてできません。
あなたは君が代斉唱に何か特別な意味を見出しているようですけど、それなら、歌わないことに「何か特別な意味」を見出している人が居たって何の不思議もない。そして、どんな解釈をしようと思想信条の自由を認められている日本なら問題なしでしょ。
そして私の視点からは、「強制しない」として国旗国歌法を制定した政府、議会を蔑ろにし、他人に歌を歌えと強要するという憲法を否認しているようにしか見えない行動をとっているのが、あなた方です。
>各自がそこまで自分の感覚で「場違い」であることを拒絶したら…他に「場違い」だから法・慣習が強要していることだがやりたくないことはないのでしょうか?
>あったら教えてください。
いくらでもあるでしょう。
組織に属している者であれば、自分に対して何らかの命令を下せる誰かがいるものです。
でも、その人の命令が公序良俗に反するものなら、それは「やりたくない」と言うべきであることが、現代社会では求められています。
そもそも、教職員以外の出席者にしてみれば斉唱を「強要」されるいわれは全くないはずなんですけど。
>公立校は政府が出資・運営していますから、そこの儀式で国の象徴に敬意を示すのは当然です。宗教系学校と同じです…宗教系の学校で、賛美歌が「場違い」だから歌いたくないという運動はありましたっけ?
政府が出資・運営という認識がおかしいというのは、既に村野瀬さんがご指摘されている通り。
出資者は我々国民ですよ。
で、学校の「儀式」で国の象徴に敬意を示すのが当然というなら、学校と同じく政府による税金の再分配を受けている日本国民が主催する「儀式」で国の象徴に敬意を示すのも当然というべきでしょ。
例えば、タイでは映画館でも上映前に国王讃歌が流され、入場者は直立不動して清聴しているそうですから、それと同じように自分が主催する「儀式」でそういう式次第を入れて、国の象徴に敬意を表したって何の問題もないではありませんか。
>結婚式が、国葬同様に国が行うもので国が費用を出してくれるなら必要でしょう。
理由になって無いと思いますけど。
あなたは国が費用を出してくれないなら、国の象徴に敬意を示す必要はないと言っていることになりますけど、「敬意」ってそういう性格のものですか?
それなら、それこそ外国の国旗や国歌に敬意を示す必要など全く無いことになりますよ。
あなたが費用を出しているならなおさら、あなたが自分の結婚式の式次第に君が代斉唱を入れて、国の象徴に敬意を示すというのは、全くのあなたの自由なはずでしょ。そんなに敬意を示すことが大事なら、自分が主催する式典でそれを率先してやるべきでしょと聞いているわけです。
必要か否かではなく、そういう機会にあなたに国の象徴に敬意を示す気があるのかどうかを聞いているのです。
もしその気が無い理由が上記のように「費用」にあるのだとしたら、あなたはお金に対して「敬意」を払う必要があると言っているようにしか見えないのですけれど。
どうもあの方が、『国を愛する心情を道徳教育で教育せよ!』などとおっしゃると、なんだか腹が立ってきます。
そして、日ごろの政治活動から『十分な権力を、この手につかむまでは、手段を選ばず、とことん他人を利用し、責任は回避し、ほとぼりが冷めるまでは日和見に徹すべし!そして、つねに集団では力学構造の優位に立て!』
という徹底した利己的人生哲学を感じさせるあの方の考える愛国心って何?と深く憂慮させられます。
へりくだった気持ちの感じられない方に、もとより心底から国を思う心などあるはずがない。
そのような愛国心を持たない者が、『子どもたちに愛国心を教育せよ!』とのたまう悲喜劇!
これでうまくいくはずがない…。
君が代にこだわるよりも、文部省唱歌の名曲の数々を音楽の授業で復活させて欲しい。そして子どもたちの心にそうした名曲を刻んであげて欲しい。何ものかを愛することのできる豊かな心をはぐくむことが先決です。
>お国の約束
空耳じゃありません。
政府や与党が何を言っても何を約束しても信用できないということを改めて学んでしまいました。
政権交代がないとこういうことを政府は平気でやるのですね。
国旗国歌法が制定される前はたしか
当時の文部大臣だかが、「教育現場で
国旗、国歌を強要する事はない」とか
言ってませんでしたっけ?
それとも私の空耳だったのか?
>これが関係あるのかどうかは疑問ですが
>たとえば「拳銃を常時携帯すべきだ」という信条の持ち主はどうしたらいいのでしょう。
関係ないですね。記事と離れるようなたとえ話は避けてね。
いつのまにか強制派に位置づけられているようです。自分ではかなり違うと思うのですが。
>ひろとさん
こちらこそはじめまして。
>通常内心と外部的行為は密接な関係を有するもので、これを切り離して考えるのは不自然です。
その考え方があること、少なくともかなり真実の面もあることも理解しています。
ただ、その考え方は問題でもあると僕は感じたのです。
キリシタンの踏み絵には、キリスト教も徳川幕府も、どちらも「内心と外面は一体」であるという当然の前提があります。
だからキリスト教も徳川幕府も、どちらも外面も内心も両方服従せよ、と迫ったのです。
非常に個人的に、僕はそれは誰であろうと人間に要求してはならないことだと思ったのです。
神がそれを求めるものなのは分かっていますが、少なくとも人間が、政府が求めてはならない、と確信しています。
あ、この考えは国旗国歌の強制の不当性の論拠として用いることもできますね…内心と外部的行為が一体だとするなら。
>したがって私は外形的行為も思想良心の自由で保障されると考えます。
そうなると、結局…名誉毀損やわいせつと言論表現の自由のように、それらは様々な人権がぶつかり合う次元に入ってしまいます。外形的行為があるのは卒業式の場だけではありません。
最終的には最高裁の判決に従うしかない…それを拒むなら日本国憲法・政府機構全体を否定するということで、亡命などになるのでは?無論最高裁判決を批判してはならない、と言う意味ではない…批判と否定、「この判決は間違っている」と「私は裁判所の権限・権威を否認する」は微妙に違うと思います。
内心と外形的行為を分離しておけば、そのほうが内心の自由を絶対化しても問題がないと感じるのですが。
>私の立場からは職務命令に「心から」が含まれているか否かによって
>違いは生じません。また生じさせるべきでもないと思います。
その場合には、良心的兵役拒否のように「良心的儀式拒否」を人権として主張し、申請するほかないでしょう。認められるまでは、違法である国・時代での良心的兵役拒否者同様、これが自分の愛国心であり思想信条だ、正当な選挙によって定められた法が罰を定めているから甘んじて受ける、と胸を張ってください。
内心と外形的行為を分離すれば、相当軋轢を抑えることができ、また政治が内心を支配しようとしたらそれこそ絶対悪として多くの人を立ち上がらせることができると思います。
これが関係あるのかどうかは疑問ですが、たとえば「拳銃を常時携帯すべきだ」という信条の持ち主はどうしたらいいのでしょう。
内心と外形的行為が分離できないなら、銃刀法は内心の自由を切り刻んでいることになり違憲で無効、断固戦うべき存在となります。
隠して携帯するか、公然と携帯して逮捕されて甘んじて罰を受けるか、それとも今は我慢して銃刀法改正運動をするか、想像だけで抑えるか、その信条さえ間違っているからねじ伏せるべきか、どれが正しいのでしょう。
日教組に入っている先生は「反君が代」「反日の丸」を推進しないと、古だぬき連中から、いじめられたりするのでしょうか?
以前、広島県の尾道市の高校で、「教育委員会」と「左翼教員たち」との板ばさみにあい、校長先生が自殺しました。
今の政府自民党公明党も日教組も…どっちもどっちだと思います。
生徒の事よりも、いかに、日の丸・君が代を、自分達に都合よく利用する事しか考えていない。
結局は、力のある方が「好き勝手やりたい放題」
子供にイジメは良くないと、先生方が言っても説得力はありません。
脱線しますが・・・
日教組は「日の丸・君が代」よりも・・・
教員の過重労働での過労死・過労自殺などにもっと目を向けるべきでは?
主義主張が違う仲間には冷たいのかな?
お玉さん申し訳ないのですが、
先ほど私が投稿したものを削除していただいて
こちらのほうを載せていただけますか。
よろしくお願いします。
Chic Stoneさんどうもはじめまして。
内心と外部的行為について
通常内心と外部的行為は密接な関係を有するもので、これを切り離して
考えるのは不自然です。キリシタンの踏み絵のように、信者の信仰心が
強ければ強いほど内心に反する外形的行為をすることは本人にとって
苦痛となる。
そもそも内心と外形的行為を誰もが分離できるのならば日の丸君が代
問題は生じない。人によっては分離できるから外形的行為は保障に値
しないのであれば、思想が はっきりしている人、信条が強い人ほど憲法
によって保障されなくなる。 そうであれば、思想良心の自由の意義は
半減する。
したがって私は外形的行為も思想良心の自由で保障されると考えます。
私の立場からは職務命令に「心から」が含まれているか否かによって
違いは生じません。また生じさせるべきでもないと思います。
昨日したコメントからあと、たまたま、昔の同級生から電話があったりして、だんだんに思い出しましたので続きを少し。
うちの小学校では(むろん、田舎の公立校です)男先生の担任の時は音楽だけ女先生でしたので、例の先生が音楽を教えたりはしなかったのですが、あれはたしか、卒業式の予行演習の時だったんでしょうか。私たちに君が代を歌わせながら、例のM先生が「細石(さざれいし)が巌(いわお)になるなんて、こんな非科学的なバカバカしい話があるか。石灰質の変な石があって、くっつきあって大きくなるなどという説もあるが、そんな取ってつけたような話はは言い訳だ」「『民主主義の時代なんだから、君が代の「君」は今は天皇ではなく、国民だ』なんて言う説は欺瞞に過ぎない。そんなことでごまかされるんじゃないぞ、オマエラ!」
そんなこと言われながら、歌ってました。こんなことも今言えば、若い人たちにはシュールな話と受け取られそうですね。(^^;)
あれだけ嫌っていたんだから、もちろんM先生自身が式で君が代を歌っていたとは思えません。(今は「不起立」かどうかで査定されるそうですが、どうせ先生はイベント時にはいつだって立ってウロウロしながら仕切っていましたしね)そんなわけで「先生は天皇と君が代が嫌いなんだ」と私たちはみな知っていました。でも、だからどう、という疑問も持たず、式には紅白の横断幕が付きものであるのと同じようなもんらしいという程度の感覚で、おとなしく歌っていたのは私たちが素朴だったのかオトナだったのか?
今思えば、先生が私たちに教えてくれたのは「日本人でも君が代を快く受け入れられない人たちがいる」ということだったと思います。そうでなければ、「文句は変だが、きれいなメロディーだ」という理由で、私は何の疑問もなく「君が代」をもっと好きになっていたかもしれません。でも、それを嫌う人たちの気持ちというものを理解しようなどとは思わなかったかも知れず、そういう人間になるよりは今の方で良かったんじゃないかと思っています。
M先生は2年ほど前に亡くなられました。今年の同窓会には皆で先生のお墓参りをしようという話が持ち上がっています。
Chic Stone どうもはじめまして。
内心と外部的行為について
通常内心と外部的行為は密接な関係を有するもので、これを切り離して考えるのは
不自然です。キリシタンの踏み絵のように、信者の信仰心が強ければ強いほど内心
に反する外形的行為をすることは本人にとって苦痛となる。
そもそも内心と外形的行為を誰もが分離できるのならば日の丸君が代問題は生じな
い。人によっては分離できるから外形的行為は保障に値しないのであれば、思想が
はっきりしている人、信条が強い人ほど憲法によって保障されなくなる。
そうであれば、19条の意義は半減する。
したがって私は外形的行為も思想良心の自由で保障されると考えます。
私の立場からは職務命令に「心から」が含まれているか否かによって違いは生じま
せん。生じさせるべきでもないと思います。
人生アウトさんが仰ってます
>本来、歌は集団の心を鼓舞させる機能や側面を強く持ってはいました。旗もそうですね。
そのとおりでしょう。これは現在でもそうですし、国旗国歌を推奨する人たちは、歌や旗にそうした役割を期待しているはず。
でも、これは日本という国の特殊性を考えると、おかしい。日本人の心には、もはや歌や旗で集団の同一性を鼓舞する必要がないほどに、その同一性が深く刻まれいるのではないでしょうか?
歴史の長い日本という国。単一民族国家なんていうのは長い歴史をみればウソだということがわかりますが、現代においてはそう言ってもよいくらい均質性、同質性の高い日本人。対照的な例はアメリカですが、歴史が浅く、いろいろなところから集まってきた移民によって成り立った人工国歌であるかの国では、国家としての同一性を国民に認識させる歌や旗は欠かせない。戦争に明け暮れてきた他の国でも、多少歴史は長くとも、まだ国旗国歌の必要性から脱し切れていない。
日本がかつて国旗国家を必要としたのは、富国強兵政策を敷いて他国と戦う必要があったから。もちろん、現在でも戦う必要が全くなくなったわけではないが、国民が総力を挙げて戦うような時代ではない。日本が、たとえばスポーツのような舞台において他国と戦うという場合に国旗国歌を掲げて気持ちを高揚させることはよいだろうが、国の内側においてまで同一性の象徴である国旗国歌を掲げる必要などないと言ってよいのではないでしょうか? そんな儀式を執り行わなくても、日本人は十分に日本人で居られる。
これは、右翼の諸君が誇る、日本の長~い伝統の賜物ではないですか? 私たちは諸外国に向かって誇ればよいのです。もはや、私たちには国旗国歌は必要ないのです、と。あなた方に合わせる必要があるときにのみ国旗国歌は用いますが、 普段の私たちには必要のないものです、と。
こんなことが言えるのは、少なくとも先進国と言われる諸国の中では、日本だけでしょう。
何か政府・税金・国家について、ものすごく深いレベルで…多分僕が無知なんでしょう。
まあゆっくり勉強しなおします。
美しい歌声をもつ私からすれば、歌とは他人を喜ばせるものなのですよね。
本来、歌は集団の心を鼓舞させる機能や側面を強く持ってはいました。旗もそうですね。
でも、時代と価値観変わりましたからね。私は歌がなくても人と心を一にできるし、あるいは歌をつかって別のものを表現することもできる。
日本人のいいとこ取り。
そうなれば、他人が君が代を歌うことも歌わぬことも、私にとっては面白い。
どちらの人も、私にとっては愛する同胞。むしろ、雑多な日本人がいたほうが楽しめる。私が。
そうなると、ねぇ?
他人に歌を押し付けたがる人って、レベル低いんですよ(笑)。退屈な男。
私がもっと日本人を愛してあげたいと思っているのに、あっちからバカになっていくのでは、救いようがない(笑)。
そんなに心配しなくても、私が歌ってあげるから、もっと大らかになりなさい。あなたがどんな人間でも、私が君が代で癒してあげるから。
子供が喧嘩しちゃ駄目よ。
>金メダリストが表彰台で国旗国歌を拒否する自由を行使したらどうなるのでしょう?国際チームとか。
http://www.sportsclick.jp/track/02/index04.html
何十年か前、表彰台で人種差別に抗議のデモンストレーションを行なった黒人メダリストの逸話があったのをどこかのブログで読んだっけ...とググってみたのが上のURLです。このデモンストレーションはある種の人々を怒らせましたが、それ以外の人々に共感を呼びおこしました。何十年もたった今、人種差別に反対する闘いのひとこまとして私たちがこうして思い出している間、アメリカ初の黒人大統領が生まれそうな情勢になっています。
このような少数派の異議申し立てから社会は発展していくのだと思います。そのときどきでの少数派の意見、お政府様と異なる意見を馬鹿にしてはいけません。多数派や権力も間違いうるのです。それが少数意見の尊重ということです。
>公立校は政府が出資・運営していますから、そこの儀式で国の象徴に敬意を示すのは当然です。宗教系学校と同じです…宗教系の学校で、賛美歌が「場違い」だから歌いたくないという運動はありましたっけ?
ほえ?どうしてこういう理解になるのでしょう?政府が出資しているのではありません。国民の税金を政府や自治体が預かって国民の代理で学校の運営を行なっているのです。国民の税金の再分配です。政府と私企業を同一にみてはなりません。国民全員の付託によるものですから、国民全員への目配りが必要なのではないでしょうか。「出資者」が政府ではなく国民である以上、「出資者」がいやだということを単なる代理者が強制することはおかしな話でしょう。あなたの論理を正しく当てはめれば、政府は出資者である国民に敬意を表すべき、であるべきでは?笑
宗教系学校の話もたとえがおかしいです。そういう学校に子どもを入れようとするのは、そういう学校の教育方針に賛同してそこに入学することを自ら選択したからでしょう。逆に、日本に日本人として生まれるということは選択の結果行なったことではありません。
それにしても、こんな勘違いで国旗国歌を強制しようとしているなら、ますます従うわけには行かなくなってきましたね。笑
国家は国民が出資者(主権者)であることだけはどうぞお忘れないようにお願いします。
>東西南北さん
これ以上の繰り返しはここに迷惑をかけるだけなのでやめにします。
考え方がかなり違うことを認め、どう共存するかを考えるべきです。
「僕は別に強制に反対する人々を非難してはいません。」
これは「日の丸君が代」を国公立の学校の式典で教職員へ強制することには反対ということでよいですか?
「単純に皆さんが何を考えているか知りたいだけ、別の案がないか模索しているだけです。」
日の丸君が代に対して起立・斉唱することに反対している人たちの考えは既に、色々な人が述べています。まとめると、東西が述べたことに尽きます。
国旗・国歌というものは「国」の旗であり、「国」の歌なんです。「国」というのは、国土、国民、国家を要素としています。つまり、国旗・国歌は国土、国民を愛することのみならず、国家を愛することを含んでいるんです。国土、国民を愛することを教育することは国民主権から当然のことです。しかし、国家を愛するというのはどういうことでしょうか?当然、国家ですから裁判所権力、政府権力、政権政党を含みます。ここが最大の問題点なのです。
ゆえに、国歌、国旗に対して敬意を払い、現政権を愛するという判断をしたのであれば、それは投票の自由と同じであり、自由である。同様にして、敬意を払わないで、起立・斉唱しない判断・態度も、野党へ投票する自由と同じことである。内心の自由のみならず、態度、言葉の自由も保障する必要があるというのはこういう意味です。
別の案がないか模索しているとのことですが、東西は既に提起しております。
例えば、「日の丸君が代」ではない日本国憲法を象徴するような新しい国歌・国旗が存在するとしましょう。このような国歌・国旗であっても、やはり、国家、時の政権を象徴するという事実に変化はありません。国家、時の政権を愛するかどうかは国民の判断に待つというのが国民主権、基本的人権ですから、いかなる国旗・国歌であれ強制することは許されません。ましてや、「日の丸・君が代」の持つ軍国主義の歴史を認識すれば強制は論外である、と言えます。
繰り返しますが、日本国憲法を象徴する国旗・国歌であっても、国家主義を排除し、国民主権、基本的人権を実現することが憲法である以上、強制することは不可能です。
この点、アメリカ最高裁のバーネット裁判での判例が確立しているようですね。
(引用開始)
連邦最高裁はバーネット事件において国旗宣誓・敬礼の拒否は他人の権利を侵害・否定するものではなく、平穏で秩序あるものであるかぎり、憲法上保障されるとし、沈黙着席してもかまわないとしました。
この判決は1943年にだされたものです(戦時中にです)
かれこれ60年が経ってます。
(引用終了)
[2008/03/28 18:09] URL | 村野瀬玲奈 [ 編集 ] TOP
>東西南北さん
>態度、言葉の自由も保障する必要があるということです。
内心の自由にはいかなる制約もあってはなりませんが、言論の自由には名誉毀損・わいせつ関連など様々な制約があります。
その制約がどこまでかを決めるのは三権+常識+自主規制、最終的には最高裁です。
>sutehunさん
>えーと、なりません。
>これは結構誤解されることなんですが、
憲法擁護義務というのは具体的にどういうことか知られていないですね。
>白砂青松さん
>ですから、「いいのです」なら、あなた方が強制に反対する人々を非難する理由が無くなるんですけど。
僕は別に非難してはいません。
単純に皆さんが何を考えているか知りたいだけ、別の案がないか模索しているだけです。
解決策として、「宗教またはそれに準ずる信条上国旗国歌をともなう儀式に参加できない」人は儀式への参加をペナルティー(失業)なく拒絶して代替義務を果たせる権利を、良心的徴兵拒否(国家への忠誠・国家自体・同胞に対する義務を拒んでいるのではない、ただ武器を持つこと・殺人ができないだけだから別の仕事ならやる)と同様に要求するべきでは?とも提言しました。
>場違いなところで歌うことを強制したりはしない、それこそ、国際常識だと思いますけど。
「場違い」と、それだけなのでしょうか?そのために国・憲法・議会を否認していると人によっては解釈できる行動を取っている、しかも職なども賭けてまで?
各自がそこまで自分の感覚で「場違い」であることを拒絶したら…他に「場違い」だから法・慣習が強要していることだがやりたくないことはないのでしょうか?
あったら教えてください。
>で、あなたはご自分の結婚式の式次第に君が代斉唱を入れます(入れました)か?
関係ない話です。
公立校は政府が出資・運営していますから、そこの儀式で国の象徴に敬意を示すのは当然です。宗教系学校と同じです…宗教系の学校で、賛美歌が「場違い」だから歌いたくないという運動はありましたっけ?
結婚式が、国葬同様に国が行うもので国が費用を出してくれるなら必要でしょう。
私自身の感覚、それと皆さんの意見も拝見していて思うんですけど、フツーの日本人はフツーに愛国心と呼ばれるような郷土に対する愛着を持っているじゃないですか? 他人から云々される以前に。問題は、そのフツーの愛国心を態度に表す方法ですよね。
フツーの日本人は、愛でも神への信仰でも、自分の内なるものを周囲の人間にわかるように表現することを、気恥ずかしいと感じるものです。映画でみるアメリカ人なんかは、しょっちゅう
“愛してるよ、ダーリン。チュッ、チュッ”
なんてやりますが、あんなの日本人には堪らない。さすがにアメリカ人はそうするもんだと理解しそれを許容はできますが、じゃあ、やってみろったって出来るもんじゃない。日本人ってのはそういうもんです。
卒業式などの場で、起立して国旗に敬意を表し、国歌を斉唱する...。こういう風景は、気恥ずかしがりの日本人の気質からすれば異質なものだと私は感じますね。こうした時、日本人は黙って頭を垂れているもんです。そして、口元でボソボソッと国歌を呟いている。これが日本的な敬意の表し方でしょう。
起立して国歌を斉唱しろ! なんてのは、私からすれば、“ナムミョーホーレンゲーキョー”と大声で唱えろ、って言われてるみたいに感じる。まあ、そうしたい人はそうしてもいいんですけど。でも、多くの人は“ナムアミダブツ”ってボソボソと唱える方を好むんじゃないですかね。
空気を読む、読まないなんてことが少し前から話題になってますが、これも気恥ずかしがりの日本人だからこその体質でしょう。なんでも“ダーリン”の国なら、空気を読む前に発言しろよ、ってなるんじゃないですか? これはどちらがいい悪いと言う問題ではなく、それぞれの国・地方の特異性。また気恥ずかしがりの日本人は、集団で行動することでそうした気恥ずかしさから逃れようとする行動様式がありますが、これは往々にして芳しくない結果を引き起こす。気恥ずかしさを感じているうちは自分の良心を自覚しますが、それが外れると良心の箍も外してしまう傾向がある。
愛国心なんて、日本人には“空気”でいいんです。表立ってやるもんじゃない。国旗国歌は、そうした“空気”を醸成する以上のものになってはいけない。日本人には“空気”で十分だし、それ以上はかえって危険だと思います。
金メダリストが表彰台で国旗国歌を拒否する自由を行使したらどうなるのでしょう?国際チームとか。
結婚式に国歌云々は暴論だと思いますが…三浦は巫女さんに神楽を舞っていただきました。(関係ないか/汗)
>関係がないのならいいのです。日本の恥を外でさらさなければ、国旗国歌は尊重すべきだという国際常識を理解しているのなら。
ですから、「いいのです」なら、あなた方が強制に反対する人々を非難する理由が無くなるんですけど。
そして、私の視点から言わせていただければ、教育現場で歌うことを強制すれば敬意を払ったことになるなんて、とんでもない勘違いをしている人々が声高に叫んでいることこそが、思想信条の自由が保証されている先進国日本としての恥を外に曝しているとは、お考えにはならないのでしょうか。
>旗と歌と儀式が人間にとって共同体の一員であることを意識させ、監視者からは反抗心・体調などを確認させるなど様々な効果があること、それ自体に反対しているというなら…それがまた大きな議論の始まりになりそうで、正直期待していたのですが。
ですから、たかが旗や歌に何でそんな効果だの何だの、それもそれだけであるかのように決め付けるんですか?
そんなものは人それぞれですよ。だから場違いなところで歌うことを強制したりはしない、それこそ、国際常識だと思いますけど。
で、あなたはご自分の結婚式の式次第に君が代斉唱を入れます(入れました)か?
Chic Stoneさんへ
>言動と内心が一体だというなら、公務員の憲法擁護義務は内心の自由を侵すということにもなりますよ
えーと、なりません。
これは結構誤解されることなんですが、公務員は、公務員=国家権力の一部として、憲法上の義務を負うわけです。身分を理由としてその義務を負っているのではありません。ですから、その職務から外れた、例えば休日だとか、勤務時間外だとか、そういう範囲での活動は、純粋に私人としてなすことができるのです。本来は。
日本はどうもこの辺のことがめちゃくちゃになってるんで、誤解もしかたないっちゃその通りなんですけどね。
いや、Chic Stoneさんがどのように思っていてもそれは自由なんですよ。同様にして、Chic Stoneさんとは異なる価値観の人もあるんです。それを認めることが愛国心だというわけです。
内心の自由のみならず、態度、言葉の自由も保障する必要があるということです。つまり、「起立、斉唱」は本人の自由であり、処分など論外だということではないですか?
なぜ君が代に反対することが
我儘なのですか?
>東西南北さん
>つまり、国旗・国歌は国土、国民を愛することのみならず、国家を愛することを含んでいるんです。
「起立し、歌う」こと=「愛する」ことでしょうか?
行動、いや言葉さえ内心とは別だと僕は思っています。
ただし、行動や言葉が内心に影響を与えることも事実ですが、完全に一体でもないはずです…人は嘘をつくこともできます。
僕は、「内心が伴わない、嘘でもいいから」儀式への参加、日本国の承認という身体言語を求めることに問題はないと思っています。
言動と内心が一体だというなら、公務員の憲法擁護義務は内心の自由を侵すということにもなりますよ。
「旗と歌に集団で敬礼する儀式がなぜあるのか、もう少し考えてください。
日本という国があり、国民は全員その一員で、少なくとも公立校は日本政府(その地方でも、根拠は日本国憲法)が運営しています。そしてその選挙によって選ばれた国会が歌と旗を定めたのです。
現政権に対する反対は投票で表明できます。国旗国歌は投票で改正、もしくは廃止できます。しかし儀式に反する行動は「私は日本国の一員ではない」「私は日本国・日本国憲法を否認する」と宣言しているのと同じです。内心は問題ではなく、口や書面でそう言うのと同様です。
民主主義国の一員として、それが正しい行動だと思われますか?」
国旗・国歌というものは「国」の旗であり、「国」の歌なんです。「国」というのは、国土、国民、国家を要素としています。つまり、国旗・国歌は国土、国民を愛することのみならず、国家を愛することを含んでいるんです。国土、国民を愛することを教育することは国民主権から当然のことです。しかし、国家を愛するというのはどういうことでしょうか?当然、国家ですから裁判所権力、政府権力、政権政党を含みます。ここが最大の問題点なのです。
はっきりいえば、例えば、「日の丸君が代」ではない日本国憲法を象徴するような新しい国歌・国旗が存在するとしましょう。このような国歌・国旗であっても、やはり、国家、時の政権を象徴するという事実に変化はありません。国家、時の政権を愛するかどうかは国民の判断に待つというのが国民主権、基本的人権ですから、いかなる国旗・国歌であれ強制することは許されません。ましてや、「日の丸・君が代」の持つ軍国主義の歴史を認識すれば強制は論外である、と言えます。
繰り返しますが、日本国憲法を象徴する国旗・国歌であっても、国家主義を排除し、国民主権、基本的人権を実現することが憲法である以上、強制することは不可能です。
>「国が崩壊」している例
別に現実に国が崩壊しているという問題ではなく、考えの傾向、理想像を知りたいだけです。
両方が全く現実とは違う敵の姿を作ってシャドーボクシングばかりやるのは嫌なので。
僕の中には、「国旗国歌反対派は、〈旗・歌・儀式によってまとまる共同体〉〈国家〉自体を認めていない。
または別の旗・歌を持ち、それに忠誠を誓って現日本国を否認している」という偏見があります。
だから興味深いのです、前者ならどんな代案があるか、後者ならどんな旗・歌なのか。
>国旗国歌であろうと背を向ける
>たとえば中国の国旗国歌に起立して、その直後に中国について悪口を言ったとします。
>その場合、中国の国旗国歌に敬意を示したことになるんでしょうか。
これには二つの考え方があります。
○示している…敬意を示すかどうかは態度、外面の問題であり、頭を下げて内心では舌を出していてもよい。また仕事が終わったら…公務員の政治活動の自由の有無は知りませんが、自由なら…国旗国歌改正・廃止運動をしても、もちろん野党に投票してもかまわない。
僕はその立場です。旗・歌・儀式の機能面を重視し、内心の自由は絶対的に尊重します。
○示していない…内心も含めた服従を求める。内心と外面を区別しない。
これは全体主義、内心の自由さえ認めない発想です。僕は断固反対します。
今の教育行政にその発想があるならばそれを問題にし、政権交代・民主化を求めるべきです…日本は民主主義制度があるのですから、見たところ詰んでいるとはいえ。
>を読んでくださいね。ぜひ感想をきかせてほしいものです。
同感の部分も多いです。
少なくとも僕は全体主義・石原都知事には反対しています。
また星条旗が人によっては虐殺の象徴であるのと同様、国の歴史は正も負もまとめて背負うべきだとも思っています。
>何度も言いますが、個々人の思想良心の自由を無視した強制が問題なのです。
「国旗に頭を下げろ、国歌を歌え」という命令に「心から」が含まれているかどうか、僕はそれによって違いはあると思います。
逆に外面だけ起立し歌い、内心で舌を出すことがなぜできないのかが理解できません。
信仰によって別の偶像に敬意を示す行動を禁じられているのなら、日の丸君が代が天皇教の偶像崇拝で十戒違反であると解釈するなら公務員になるべきではない、または良心的徴兵拒否のような別制度を民主的に求めるべきだと思います…憲法20条2項の問題です。
旗と歌に集団で敬礼する儀式がなぜあるのか、もう少し考えてください。
日本という国があり、国民は全員その一員で、少なくとも公立校は日本政府(その地方でも、根拠は日本国憲法)が運営しています。そしてその選挙によって選ばれた国会が歌と旗を定めたのです。
現政権に対する反対は投票で表明できます。国旗国歌は投票で改正、もしくは廃止できます。
しかし儀式に反する行動は「私は日本国の一員ではない」「私は日本国・日本国憲法を否認する」と宣言しているのと同じです。内心は問題ではなく、口や書面でそう言うのと同様です。
民主主義国の一員として、それが正しい行動だと思われますか?
特に前述した、儀式の機能についてもう少し考えてみては。その効果自体は善でも悪でもなく中立の力に過ぎません。
非武装日本が、非暴力不服従の覚悟を旗と歌によって国民全員に叩き込む、という状況も十分想像できます。
もちろん国旗・国歌擁護派には、僕と違う考えの人のほうが多いでしょう。
この場での長文の議論、申し訳ありません。必要があるなら村野さんのブログに移しますか?>管理者様
およそ、1970年代~80年代にかけての私の小中高時代、学校にはまだ若くて生きのいい日教組の先生方が沢山いて、今思えば、結構な民主教育をしてくれていました。小学校にはヒラ教諭なのに、なぜか校長より威張っている中年の男の先生がいて、飢えと貧困に苦しめられた自らの戦時中の体験を語り、「その頃、天皇は何をしていたか?天皇なんて、天皇なんてのはなあ・・・」と、生徒の前でよく天皇の批判(悪口?)を語っていたものでした。(土地柄はまあ田舎の、町議会から、県議会、国会まで自民党系議員の後援会が集落ごとに系列化されていたような半農村と、宅地造成で新住民が急激に増えているところとのモザイク地帯でした)
ところが・・・
「日の丸」、「君が代」で揉めていた、という様子はまるでなかったのです。
式の日には日の丸は校庭の国旗掲揚台のポールに、たぶん、掲げられていたのではないかと。式場である講堂や体育館にはなかったような気がするのだけれど、校庭に出ればたしかに風に翻る日の丸を見たような覚えはありました。だからその後、技術系の専門学校へ入った時、入学式の式場で、正面の壁に巨大な日の丸が、どばーんと麗々しく貼り付けてあったのが、なんだかひどく気に懸かって、落ち着かない気持ちになった記憶があります。
君が代は、他で教わった覚えはないのに中学時代にはたしかに歌えたので、あの、天皇の悪口をさんざん言う先生が実質支配していた小学校で教えてもらったとしか思えません。(w
教育現場に今より、サヨクがウヨウヨしていた(w)時代でも〟強制〝さえなければ、そんなもんでしたよ。
>国旗国歌の問題は、船をどちらに向わせるか、舵柄を誰が握るか、という問題ではなく、船そのものを壊せという問題に近い気もするのです。
1943年の連邦最高裁で国旗国歌の拒否を認める判決が出たアメリカを含めて、国旗国歌の拒否を認めている国で、「それが理由」で「国が崩壊」している例ってどこにあるんでしょう。現実をもとに話をしませんか。
>国旗国歌であろうと背を向ける
たとえば中国の国旗国歌に起立して、その直後に中国について悪口を言ったとします。その場合、中国の国旗国歌に敬意を示したことになるんでしょうか。
サイバー政治団体、世界愛人主義同盟
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-98.html
に勤務する私は、国旗国歌ではなく、その国の個々の人に対して敬意を示します。(その人が敬意に値する人なら。)国旗国歌(記号)そのものに対して理由なく唾を吐くつもりは特にありませんよ。これ
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-653.html
を読んでくださいね。ぜひ感想をきかせてほしいものです。
何度も言いますが、個々人の思想良心の自由を無視した強制が問題なのです。
以前にもコメントさせていただいたのですが、私は国旗国歌を強制するのなら、合わせ持って、なぜ反対する人がいるのか、その考えをきっちり教えるべきだと思います。それは日本の歴史を知ることにもなるからです。
どんな考えにしろ一側面だけ教えるのでは、自分で考えるということ・長い目で物を見るということ・歴史を伝えていくということを損なうと思うのです。
日本人の国旗国歌にたいする姿勢を、希薄と感じる外国人もいるでしょうが、その時は、なぜ日本で国旗国歌に抵抗を感じる人がいるかを、きちんと説明すればいいのです。歴史を説明すればいいのです。
その歴史を教えずして、諸外国をまねて国旗国歌の刷り込みだけしても、それはアイデンティティーにはならないと思います。
> 村野瀬玲奈さん
> 問題は、使い方が間違っている、押し付け方が民主的でない、ということです。
では民主化の努力に集中すべきでは?
○国が民主的であり、国旗・国歌もそれにふさわしいものなら喜んで歌う
のか
○いかなる政体・いかなる国旗国歌であろうと背を向ける
のかが素朴な疑問なのです。
国旗国歌の問題は、船をどちらに向わせるか、舵柄を誰が握るか、という問題ではなく、船そのものを壊せという問題に近い気もするのです。
>白砂青松さん
>こちらも率直な疑問ですが、どうして君が代の強制に反対すると、外国の国旗国歌に敬意を表さないということになるのでしょうか?
>全く関係ないと思いますけど。
関係がないのならいいのです。日本の恥を外でさらさなければ、国旗国歌は尊重すべきだという国際常識を理解しているのなら。
旗と歌と儀式が人間にとって共同体の一員であることを意識させ、監視者からは反抗心・体調などを確認させるなど様々な効果があること、それ自体に反対しているというなら…それがまた大きな議論の始まりになりそうで、正直期待していたのですが。
日村さん>他の国々では、日本ほど国歌を否定したりする風潮がマスコミや教育界で支配的ではありません。ましてや、卒業式などで、教師が生徒にむかって、国歌斉唱のときに起立するなとか、国歌を否定するようそそのかす教育をする、それを思想信条の自由ととりちがえている教師はほとんどいません。 そういう特殊事情があるから、「教師のみに生徒に国歌を歌う態度を教える義務がある」としただけの問題です。
日村さんは自国の戦時の歴史を無視しすぎていませんか?
日本がフツウの国でなくなったのは、その歴史のゆえです。そして、それゆえに教師達は負の遺産である『国旗国歌の強制』の復活に反対して来たのです。常識があるからこそ再強制に反対しているのです。
日村さん>そういう特殊事情があるのですから、諸外国での例を並べているのは無意味だと思います。日本とは歴史の違う国、事情が違う国の事例を引いてくるのはおかしいのです。
確かに同列に並べるには無理があると私も思います。でも、その特殊事情なるものは日村さんの意味するものと私のものは違います。
即ち、かって海外を荒らしまくって、日の丸、君が代、神道、神社、言語、教育、天皇崇拝、御真影、皇居遥拝・・等々を占領国住民に押し付けた過去を背負っているのだから、日本は簡単に『普通の国』には戻れません。
「普通の国」に戻るには、100年はかかるので、あと37年くらいは大人しくしていなければならないかなと、私は思っています。
私の内での国歌は君が代ではありません。
「わ~すれが~たき、ふるさと~」
だと勝手に決めています。
夜中に「ばばあ、死ね」的な、でも「お玉」も「瀬戸」もきらいと一本筋の通ったコメントを4本同じ人から頂きましたが・・キチンと議論出来るものを書いてきたら表に出すってば!本当はお話ししたいんでしょう?
こちらも率直な疑問ですが、どうして君が代の強制に反対すると、外国の国旗国歌に敬意を表さないということになるのでしょうか?
全く関係ないと思いますけど。
少なくとも、私が強制に反対するのは、その強制が敬意を持たせるためではなく、一部の人間の権力欲の表れにしか見えないから。そしてその結果として、現在の「君が代」が何かを祝う席で歌われる歌としては「場違い」な歌になっているからです。
そんな歌を強制して、卒業を祝う式典に影を落とす必要はないでしょってこと。
従って、当然のことながら私は自分の結婚式の式次第に君が代斉唱は入れませんでした。あなたはいかがです?
敬意を持っているからって、それを何時でも何処でも歌いたくなるわけじゃない。それだけのことです。
そして他国の国旗国歌なんて、我々はその「場違い」を判断する立場に基本的には無いんですから、それに敬意を表するかどうかは全くの別問題ってことです。
うーん、自由か強制かって難しいですよね…
でも学校ですから…「茶髪にする自由」「長ラン・ボンタンな自由」「好きな時間に登下校する自由」とか言われても困ります。それは、「縦」だと言ったのは孔子でしたか。
あたりまえに掲げてあたりまえに歌うものでは?
…でも、実は「愛国精神」を歌うならフィンランディアかなとか思ったり。『勇気は我らの華』『光の湖遥か、祖国の祈りを見た』
ゆえに、現政権を批判し、監視することが愛国心となる。自公政権であろうが、共産党政権であろうが、最高裁判例であろうが、現在の政権を監視し、批判し、情報公開を求め、説明を求めることが国民主権主義である。
ゆえに、国歌・国旗によって教育せねばならない愛国心とは政権監視、政権批判、政権への情報公開、説明責任の要求であり、これを教えることが愛国心教育ではないか?
その上で、国歌、国旗に対して敬意を払い、現政権を愛するという判断をしたのでれば、それは投票の自由を同じであり、自由である。同様にして、敬意を払わないで、起立・斉唱しない判断・態度も、野党へ投票する自由を同じことである。
歌いたくない人が、「卒業式での国歌斉唱はやめてくれ。みなさん、歌わないでください。」というのがワガママであるならばそれと同様に、
歌いたい人が「あそこに歌っていない人がいる。目ざわりだ。あるまじき行為だ。けしからん。クビにしろ。」というのも、歌いたい人のワガママですよね。
国歌を「歌う権利」と「歌わない権利」は、両立します。
しかし、「自らが出席している式典で、誰一人として、例外なく、起立しない又は歌わない人がいない状態を享受する」権利と、「静かに着席している又は歌わない」権利は、両立しません。
この場合は、後者の権利を奪ってまで、前者の権利を担保することは、ちょっとムリが過ぎますよね。
「歌わせたい男たち」という劇があるそうですが、イギリスで講演したかったのに、「国歌を歌わないからクビになる状況なんて、イギリスの人には理解できない」という意見があって、諦めたそうです。
日本が、ヨーロッパと地続きだったら、この問題に対して皆がより敏感だったろうなぁ・・・と、よく考えます(苦笑)
>『国歌斉唱 起立1人 卒業生170人 教員が指導か 門真の第三中』
産経の記事ですか...。簡単な「指導」でそんなに卒業生を着席させられるものでしょうか?根津公子先生に対して教委が「起立しないとクビだ」と言ったような感じで「着席しないと試験に合格させない」などと無理強いしたわけでもないだろうし。「自分たちで判断しなさい」と言われた生徒たち自身の意思ではないのでしょうか。「反日サヨ教師」とやらに教えられても国旗国歌大好きになった人も大勢いるのですから、生徒の自主性、主体性、判断力をもう少し尊重したらどうかと思いました。>産経新聞様
>シンペイさん
>侮辱する気はありませんが怖いです
革命前の圧政に対する抵抗という歴史的意味がある詩ですよね。これを機会に国歌に対する理解を深めましょう。「怖い」って、圧政に抵抗してはいけないという意味ではないですよね?
さて、これが怖いなら(その感情が間違っていると言うつもりはありません)、君が代が日本人ではない在日韓国・朝鮮人に一律に強制されることは「怖い」ことだと思います。また、戦時中の軍国主義のシンボルとして日の丸君が代に対して抵抗を感じる人に強制するのは不適切、非教育的、暴力的だと言えると思います。
>もう一度シンペイさん
>アメリカがこうだから日本もこうしなきゃってワケでもなし
ならば、日本のお政府様が歌えと言うから歌わなきゃいけないってワケでもなし、と。
「(笑)」と文末につけようかと思いましたがやめました。
>戦時中のアメリカねぇ・・・・・・
その頃から判例として確立している、ということです。
>Chic Stoneさん
>普遍的に国旗・国歌、国家自体に反対しているのでしょうか?
問題は、使い方が間違っている、押し付け方が民主的でない、ということです。
「国旗・国歌の使い方」の一つを私の記事
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-653.html
で提案してますのでよろしかったらお読みください。
あるいは『蛍の光』が良いですね。
卒業が、ひとつの季節への別れと、今までの学びの時間への感謝をかみ締める場であって欲しいから…。
『君が代』にはオリンピックが似合うかな、と。自分の属する‘国’が意識される時だからでしょうか。
あと宗教団体が『日の丸』を揚げるのはできればやめて欲しい。国を代表する宗教というわけでもあるまいし…。
愛国心を自分が持ち得ているかどうかはさておき、『愛国心』は大切なものだとは思う。
無教会主義者で、天皇への礼拝を拒否し、日露戦争にキリスト者として反対した内村鑑三が言っているように、
『この国の真髄は皇室にあらず、国民にあらず、魂にあり』という意味において、この国の真髄を愛する心は大切だと思うのです。
とはいえ、皇室がなければ、この国はもたない気という気もします。これは愛国心とは別物かと思いますが、皇室への敬意がまったくない人ってこの国にいるのかな?と。
>通りすがりの軍オタ さん
思わず検索し、聞いてみて、しっかりと後悔しました(笑)
被害者を増やすためにYouTubeのリンク張ってみます(^^ゞ
http://jp.youtube.com/watch?v=ozq3gII3GiM
聞かれて私と同じように後悔された方は、お耳直しに先に張ったGacktのでもと思ったのですが、ここは別口の「君が代」
新君が代(2008~) 無伴奏独唱Ver.
http://www.nicovideo.jp/watch/sm951586
をどうぞ(笑)
(注:YouTubeにはUpされてないみたいなのでニコニコ動画です。ログインが必要です。演奏開始まで時間が掛かったり、リロードしないといけないかもしれません。)
しかし、こんなことができるのも、今の日本だからですよね。この自由は奪われたくないものです。
君が代は下手上手が顕著に出るので、息遣いや歌い方を間違えるとえらく恥ずかしい国歌になりますからね。
中居正広とかのように中居正広とかのように中居正広とかのように。
私が通っていた中学校では行事の予行練習で国歌斉唱が巧く歌えずに全校生徒が一時間近く居残りする事は結構ありましたが、他の地域ってそう言うの無かったんですかね?
ちなみに21世紀の直前から直後にかけての話です。
つうか、記事を見る限り、イチローとか松井とかのインタビューで『国を愛する心』を紹介すれば済むレベルだと思いますけど、WBCとかの発言などを見ると。
皆さん強制とか深刻になりすぎてませんか?
解釈次第でスポーツや企業とか、日本を代表する人や組織の応援で済ませられそうですけど、この表現。
戦前研究で、君が代を、権力者が「滅私奉公」を主張して、実体は自分らの組織の利権・私利私欲に都合よく利用してしまうというのがいくつかありました。国家社会主義の愛国心利権だそうです。
どうなんでしょう?
うちにはまだよくわかんないです。
愛国心っていうのはそもそもお上によって定義される類のものではないと思いますよ。
別に、愛国心を持っていない人なんてあんまりいないと思います。ただ、国家国旗に関しては反応を示す人はいるでしょう。
自分は、歴史的背景はどうでもいいと思ってますが、国家国旗偏重主義の風潮には疑問を持ちます。
国家国旗とはそもそも国民統合の過程において国家が用意したシンボルでしょう。アメリカ・フランスにおいては、その市民政治の象徴と捉えることができますが、殊に日本の場合はとなると、まったく別な気がします。
まあ、一番の問題は、思考をマトモに行なえない人に愛国教育を施すことでしょう。国家による愛国教育の誤謬(の可能性)を常に意識できる人材が、現状の教育課程において十分に育っていないということです。
また、そうした人々の増加によって、既定された愛国心への疑問符が阻害されうる状況が生み出されてしまうということでしょうか。
これは率直な疑問ですが、国旗国歌の強制に反対する教師や生徒は、様々な場で外国の国旗国歌に対する敬意を態度で示すことも拒むのでしょうか?
普遍的に国旗・国歌、国家自体に反対しているのでしょうか?
保守のくろねこです。
自分は団塊ジュニアの世代です。
自分は保守ですが、「安倍・自民・創価」が推進する、「愛国心の強要」法案はおかしいと思っています。もちろん、国旗「日の丸」、国歌「君が代」を自然に広げる事は、大いに賛成です。
自分は小学校の時にトンデモ学校で・・・「日の丸・君が代」でえらい目に遭いました。
校長がとんでもない、くさった悪徳校長で、自分の「私利私欲・名誉」のみ。個人の欲のために多くの人が犠牲になりました。
校長は市の教育委員会にはゴマすり。
卒業式の練習で、君が代が大きな声で歌えない児童が・・・
何回もやり直し・・・
そして、先生に、叩かれたり、蹴られたりしていました。
先生も校長からプレッシャーを受けていたのでしょう。
まさに恐怖でしたが・・・
その校長は、教育委員会や来賓に上手くゴマをするために(自分の見栄と野心と欲のために)・・・うるさく言っていた。
そのトンデモ校長は、定年後、市議会議員に出るつもりだったようです。
定年後、周囲から説得されて出馬は止めたようです(あまりにも悪評だったため)。
今騒がれている体罰など、たいした事もないレベルですよ。
下の先生は普段から、理由もなく気分次第で、児童の事を、平手打ち、殴る、細い棒で叩く・・・何でもありです。やりたい放題でした。
ゴマすり児童は可愛がられ、先生の気に入らない児童は、ターゲットになる。
日の丸・君が代以外にも・・・トンでもない事を児童に押し付け。先生も言いなり。
学校の先生は、アホ校長に点数稼ぎをしたいがために、どうしようもない状態。
まさに「教員の無法地帯」です。
中学校や高校ならば、生徒から卒業式の後、血祭りに上げられてもおかしくないような校長でした。
地方ですから、校長になんて何も言えない風土。
国歌を「自分の欲しかない校長先生」の望むように大きな声で歌えないと・・・
児童が「独裁権力者である校長」にゴマをする、「下の先生」から、暴力を受けるんです。
これが結果。
悪い印象だけが残りました。
これが、これから国が進める「愛国心教育」の成れの果てだと思います。
これは、極端な事例ですが・・・こんな被害に遭うのは、自分達だけで十分です。
結局「日の丸」「君が代」を、権力者が自分の利権・私利私欲に都合よく利用してしまう。
そして暴走する。
という事だけがココロに残りました。
自分は「日の丸」「君が代」には敬意を示すべきと思います。日本人ならば当然です。
しかし、「日の丸」「君が代」「愛国心」を、一部の人間が都合よく利用して、「私利私欲・利権拡大・暴力・悪行をする」事を、絶対に容認するわけにはいきません。天皇陛下を利用した「旧陸軍」のように・・・
一部左翼が言っている国旗・国歌を変えたところで、本質は同じ。今度は、左翼や共産党が安倍さんのように暴走して児童生徒を抑圧するだけ。
日教組も、今まで「反日の丸」「反君が代」を自分達の影響力維持のために、都合よく利用してきた事も事実だと思います。
教育の主役は誰でしょうか?
「愛国心の強制」や「反愛国心の強制」よりも・・・
「住みやすい日本」「生きやすい日本」を作る事。
その方が自然に愛国心を持ちます。
結果的に「君が代・日の丸」も、もっと国民に受け入れられるはずです。
字数オーバー、申し訳ありませんでした。
渇・・・・×
喝・・・・○
Gackt- kimi ga yo wa- live
http://jp.youtube.com/watch?v=uGq6QeV4vqk
まあ、どっちもどっちですよね、法制化して歌わせようとするほうも、負のイメージを焼き付けて歌わせないようにするほうも。どちらも生徒からしたら権力者だし、イデオロギーを押し付けている時点で戦前と同じことでしょ。
そもそも卒業式とかで、日の丸を掲揚させないために実力行使に訴えた教師がいたのが現在の状況を招いたのではないかと思うのですが、どうでしょ?
『国歌斉唱 起立1人 卒業生170人 教員が指導か 門真の第三中』
http://www.sankei-kansai.com/01_syakai/sya032703.htm
こんな状況になったら例え君が代を歌いたくても、皆と同じように自分は座っちゃうでしょうね。そういった意味では一人で歌った子はすごいなーと思います。
1943年のアメリカですか・・・・・・
アメリカがこうだから日本もこうしなきゃってワケでもなし
戦時中のアメリカねぇ・・・・・・
「色つきは犬以下」と公言してた時期のを例に出されてもなぁ
国旗・国家の強制っていうけど、それを教え歌う事自体を否定するのは、おかしい事ですよ。
そもそも、やたらと教育現場で国旗・国家に対して否定的な教育を行う教師がいるのが問題です。こういった教師がイデオロギーに囚われるような教育をしてきたせいで、反動として右傾化や強制を招いていることを教育者は反省するべきでしょうね。
私の最近の記事で、コメント欄が大盛況だった「国旗、国歌の意味と使い方を考えてみました」
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-653.html
から、ひろとさんのコメント(2870番)を紹介します。
(引用開始)
連邦最高裁はバーネット事件において国旗宣誓・敬礼の拒否は他人の権利を侵害・否定するものではなく、平穏で秩序あるものであるかぎり、憲法上保障されるとし、沈黙着席してもかまわないとしました。
この判決は1943年にだされたものです(戦時中にです)
かれこれ60年が経ってます。
(引用終了)
>村野瀬玲奈さん
いざ進め 祖国の子らよ
栄光の日は やって来た
我らに対し 暴君の
血塗られた軍旗は 掲げられた
血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で
蠢いているのを 獰猛な兵士どもが
奴らはやってくる 汝らの元に
喉を掻ききるため 汝らの女子供の
武器を取れ 市民らよ
組織せよ 汝らの軍隊を
いざ進もう! いざ進もう!
汚れた血が我らの田畑を満たすまで
これが「ラ・マルセイエーズ」の日本語訳です
言い方が悪かったかもしれませんがこれって
「やつらを殺せ」と言ってるだけに見えて
侮辱する気はありませんが怖いです
>tenさま
>たとえばチベット人も(独立しない限りは)中国の立派な一員
「侵略も征服も殺戮も暴虐も成功してしまえば正当」ですか?
その考えってめっさ怖いんですけど
まあ一面歴史の真理ではあるのですがね
確かに自国の領土と人民を守る力のない国家は悪です
しかしそれを受け入れてしまうのは近代国家の人間としてどうか、と思ってしまうのですよ
>「ラ・マルセイエーズ」よりよほどマシだと思うんだけどなぁ
すみません、この発言はフランス国歌に対して敬意を欠いているように見えるのですが。
文末に「(笑)」とつけてもいいのですが、今回はやめときますね。
日本国の一員であるのに思想上の資格など必要ありませんよ、当然です。たとえばチベット人も(独立しない限りは)中国の立派な一員で、中国政府は彼らの思想や文化・教育などを尊重しなければなりません。最近は人道主義に目覚めた日本人が多いみたいなので、チベット以外の人権問題もこれを機会に考えることができればいいですね。というわけで、私は断然お玉さんの意見に賛成です♪
シンベイさんはここを見てるのかな?
http://www.cebc.jp/data/education/gov/jp/tsuuchi/19990917hatauta/data-04.htm
なるほどね・・でもよ~~く見ると、お玉には違うのもが見えてくるけど?国レベルで学校に強要しているのってどこかな?ねえ、村野瀬さん(^^)
>厳罰処分で望む国は先進諸国には見当たらない・・
「尊重義務及び侮辱に対する罰則も法で規定」とか「刑法に侮辱罪の規定あり」とかあるのですが
これらの国は法を犯して罰則無いのですか?
それに日教組のHPなどでは愛国心が国を滅ぼす的表現あるのですが
教師が「国旗と国歌を侮辱しなさい」と教えてる国と「国旗と国歌に敬意を払いなさい」と教えてる国とは
それこそ一緒にしてはいけないのではないですか?
2006年9月に同じようにこの話題を記事にしたときについたコメントは90・・・・さあ、今回はどこまで伸びる事やら。
敬意を払う話と教職員や生徒に厳罰で強要する話は分けて欲しいな。「敬意を払うべき」とする国は多けれども、どこぞの首都のように厳罰処分で望む国は先進諸国には見当たらない・・
http://otama.livedoor.biz/archives/50608677.html#comments
よく言う方居られますよね。
しかし戦後「日の丸」「君が代」は悪の象徴と
多くの教師(少なくとも私が中学の時の担任)が教えている状況で
「生徒の自由意志で選ぶべき」というのはどうかなぁと思うのですよ
>歌詞が気にいらないというか、自分達国民の歌じゃないって感じするよね
『古今和歌集』『和漢朗詠集』出展の歌詞が日本人の歌じゃないのですか?
「ラ・マルセイエーズ」よりよほどマシだと思うんだけどなぁ
>現政権の打倒に繋がるのだろう
国旗、国歌、愛国心を「現政権打倒」に繋げて考えるというのはどうでしょう
強要しようとは思いません
強制しても無駄だと思います
ただ、国を象徴する旗と歌に敬意を払えない人間は信用出来ない
外国で「自分は故郷の国旗と国歌が好きではない」と言って御覧なさい
その日からさぞ素敵な扱いをしてもらえる事でしょう
そして、正義とか真実とか置いておいて「自国の国旗と国歌に敬意を払うな」と
教える教師は、いや公務員は軽蔑に値すると思います
入社式で「会社に敬意を払わない」などの礼儀を守ろうとしない人物が
どういう扱いを受けるのか
あと上の記事見た所大抵の国で「国旗に対し敬意を払う」事が教えられてるように見えるのですが
日本の場合、「国歌を歌わないのがいけない」、という問題ではないと私は考えています。
他の国々では、日本ほど国歌を否定したりする風潮がマスコミや教育界で支配的ではありません。ましてや、卒業式などで、教師が生徒にむかって、国歌斉唱のときに起立するなとか、国歌を否定するようそそのかす教育をする、それを思想信条の自由ととりちがえている教師はほとんどいません。
そういう特殊事情があるから、「教師のみに生徒に国歌を歌う態度を教える義務がある」としただけの問題です。
そういう特殊事情があるのですから、諸外国での例を並べているのは無意味だと思います。日本とは歴史の違う国、事情が違う国の事例を引いてくるのはおかしいのです。
ただ、世界で共通しているのは、国際的にはどこの国のものであれ、国旗や国歌に敬意を払うというのが常識です。常識を失った日本人に常識を取り戻せと言っているだけですし、むしろそういう国際常識を教えるのは当然のことです。
また、日本でも「国歌を歌わないから処罰される」ということではありません。意図的な誤記ではないと思いますが、不正確な表現です。「教師には生徒に国歌を歌う態度を教える義務がある」という程度のものです。
こんなもの、ましてや愛国心の強制でもなんでもありません。歌を歌わせたくらいで愛国心が身に付くなんて、そんなこと、右派の私でも馬鹿げていると思いますよ。右派はそんなバカばかりと思われているような気もしますね。
愛国心問題ならこのブログのこのカテゴリー
http://mudaimudai.exblog.jp/i9/
は必読。このブログを読まずに愛国心を語るな、です。このテーマについて硬軟取り混ぜてこれほどいろいろなネタを集めたブログを私はほかに知りません。
で、日本人には愛国心が足りないとおっしゃる方、この記事はいかが?
http://mudaimudai.exblog.jp/3510894/#3510894_1
日本には愛国心、もうすでに十分あるんじゃないでしょうか?
この記事を読んでもなお、愛国心を強権的に「植えつける」必要があると考える方、粘着質の性格のために人からドン引きされる傾向がないかどうかちょっと心配。
お玉さまお久しぶりです。
強制される「形からの愛国心」でない、心根からの愛国心というか愛郷心、または他人・隣人を思いやる心は今現在でも人それぞれに持っていると思います。
その心根を膨らませてゆけば・・・権力者の意図とは正反対に現政権の打倒に繋がるのだろうと私は思っています。
花粉症の方は大丈夫ですか?御大事に。ではでは。
まあ、自由に歌いたいと言う前に、
歌詞が気にいらないというか、自分達国民の歌じゃないって感じするよね。
それで思った、国歌を新しくしたいってね。
やっぱ、憲法9条の精神をベースに世界平和を願う歌が良いと思うんだ、どーよ、お玉さん?
誰も郷土を愛せとは強要しないし、母校を愛せとも強要しないのに、どうして国を愛せと強要する必要があるのでしょうか?愛国心って自然と湧き上がる感情であって指導や強要されるものでは無いと思いますけど。私は強要されるような愛国心より、争いの無い、価値の共有出来る地球愛や人類愛のほうが好きですね。でも私も日本の天皇家や日本の四季などは大好きですし、日本の国歌や国旗も好きです。逆に、大変な事故が発生していてもゴルフをし、下手な芝居だけが得意な首相、この国の大切な平和憲法を無視して、国民生活を生け贄にして、権力を貪るだけの冷酷なうえに盟主には土下座もする首相、何の能力も無くて突然政権を投げ出す幼稚な首相が政治を続ける国はとても自然には愛せるものではありません。だからあの人たちは強要するのでしょうか?
と言った認識が無いので、まずその認識を植えつけなければならないですから、当然なのでは?
むしろ、戦後の愛国心を否定する教育のおかげで、愛国心に対する拒否感があるわけですから、それを取り払う必要があるのでしょう。
……でも、私の学生時代は、君が代は散々合唱の練習をさせられましたし、郷土愛がつくような社会の授業を受けましたから、明文化された以外の変化が無いような気がしますけどね。
と言うか、明文化しなけりゃいけないほどの教育現場の方が問題じゃないですかね。
日本でも国歌斉唱を不起立をする自由はあるし、それを咎める事はしてないが、今後の生活における不利益は自分だけで被れというのが適当。
多分欧州ではそういう考えが庶民レベルで広がっているのであり、学校(東京都)から処罰を受けても馬鹿かあの教員は!というくらいで済まされてしまうだろう。
日本だけですよ。マスコミさんが教員の我儘を自由と権利の侵害として助けてくれるのは…
元々、教員にも教員にならない自由がかつてあった事実を思い出せば、実に身勝手な言い分か解るはずだ。
まさか、教育大学や教育学部の生徒は全員教員になる義務があったとか、
教員にならなくてはならないという風潮があったとかいう広義の強制性があったわけでもないと思いますが…
実際に現場でどうなっているか解りませんのでこの辺で失礼します。