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責任放棄は許さない

死刑廃止や残虐な殺人の話を記事にすると、どうしても「また1から」の死刑問題のコメント欄になってしまいがちで・・まあ、だからといって、数ヶ月も前の記事を読んでくださいなどとお願いするのも厚かましい・・かな?

村野瀬玲奈ちゃんの所でお玉の過去記事(二年以上前)を取上げてもらってましたが・・・お玉ンちも今回は同じく、死刑廃止論のそのときのLooperさんのコメントを再度貼っておきましょう・・・・あっちもこっちも・・・・Looperさん人気者~~~

このお正月、お玉は「死刑廃止」について数日にわたって取上げてました。。。

この時のコメント欄での冷静な議論も見て頂きたいと思うけど、お玉達のいいたいことの多くの部分をこのコメントは語ってくれてます・・

>レイプも誘拐も窃盗も詐欺も駐車違反も・・全て社会にも責任があり、みんなで罪を負え・・ということですか?

どなたかも言われてましたが、生まれつきの犯罪者がいない以上、私たちの社会には、犯罪の生まれる背景を放置し、その人を犯罪者にしてしまった責任が存在するのは当然のことです。
で、実際、その責任を社会が認めているからこそ、刑務所の運営費、犯罪被害者給付金などに税金が使われているのです。その犯罪者を生み出した責任を、私たちの社会はすでに負っています。にもかかわらず、最も責任の重い殺人犯にだけは、なぜかその責任を途中で放棄する・・・その根拠こそ何なのでしょうね?教えていただきたいです。

むしろ、なぜその殺人という犯罪を生んだ原因の証人である殺人犯の言動から、その犯罪の根を探り、2度と同じ犯罪を生まない教訓=被害者の命の尊さを生かす教訓を引き出そうとしないのでしょう?なぜ、その重大な犠牲の上に生かすべき教訓の根を簡単に絶やそうとするのでしょう?犯罪者だけを「死刑」にして、我々の社会がそこから何の教訓も得ず、何も変わらず、同様の犯罪者を生み出し続けていて、どうして被害者の命に報いることができると言うのでしょう?
> それとも、死刑だけが特別なのでしょうか?

死刑という刑罰が、懲役刑とは質的に全く異なる特別な刑罰であるのは論を待たないと思っていたのですが・・・
むしろ、殺人犯にだけ「死刑」という特別扱い(責任放棄)をする理由が分かりませんって話です。

[2008/01/04 00:11]  Looper

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難しくなってしまいますね
なにか、お互いの主張が噛み合っていないようですね。ぜんぶ一度に考えるととても長くなると思いますので、簡単に書きます。普通のオヤジさんもお忙しいと思いますから、これ以上返事をしていただこうとは思いません。気が向いたらで結構です。
 まず使う言葉の定義づけが明白でないことで、同じ文章をお互いがまったく違う意味で受け取っていそうですね。たとえば「利益」という言葉も、いったいどのくらいの範囲でそれを受け取ればよいのかわからなくなってしまいました。人が行為する動機が利益に因る、というのは・・・そこで利益という言葉が指すのは、それをしたら気持がよい、満足できる、だから欲する、といったとても広いものなのかなあと感じます。そういう意味で言葉を使ってしまうと、もっと細かいニュアンスが表現できなくなります。なぜ気持ちよいのか、それは自分の所有欲が満たされるからか、あるいは人と同じ立ち位置に立てるので不安をなくせるからなのか。ありとあらゆる動機を「利益」だけでくくってしまうのはちょっと乱暴ではないでしょうか・・・
 ネットで意見を交わす場合、こういった問題は常に起こるものだと思います。相手と同じ土俵にいるはずだという思い込み、それは幻想にすぎないということ。いわば真っ暗闇の中で相手を認識しようとする行為のような。毛むくじゃらの獰猛な獣だと思って闘ったら実は可憐な乙女であった、なんて。まあ長いのでこのくらいにします。


天秤
>個人の選択した意思や行為があるはずです
意思や行為は、利益を判断基準(動機)として外部に発っせられた
ものです(表示)。動機と表示行為を混同されているので、コウトさんは
私の言っていることが受け入れられないんだと思います。

>強制的に「~しなければ」と言っても埒があきませんね
その通りです。ですから、「責任」という強制では人は行動しないと
言っていたのですが?自発的に動く理由(動機)が利益です。
「理由がないから行動しない」のではなく、
利益がないから行動しないのです、理由はあるんですよ。

コウトさんも、「全体の利益のために、みんなに関与を促す」
と仰っていますが、私の言っている動機と、どこが違うのでしょうか。
個々人が利益と判断すれば促さなくても、当然関与しますし、
当然な関与でないと社会は変化しないという主旨でコメントしてきた
つもりなんですが?当然に関与する動機が、利益です、くどい?
個人が社会に関与することにも何ら異議は言ってないつもりです。
ただ、
「全体の利益」は個々人の利益衡量のうえに抽象的に表現されているだけ
で実態はありません。とても複雑で、相対的な個人間の利益のぶつかり合
をどのように調整したら良いのか、私には想像もできませんが。

>大きな報酬が得られることになる、とも考えます
どれだけ自己の利益を最小にして生きるかを観念できなければ、
「みながより暮らしやすい世の中」はあり得ません。報酬とは矛盾します。
最後に、
博愛とか友愛の理念は、社会法の理念で、私の理念ではありませんし、
「目先の利益」とも全く関係ないものです。
むしろ、普遍的なものとして例示したつもりなんですが。

これぐらいでお許しを


もちろん
>積極的関与は自由意志ではないのですか?
積極的な行動は、個人の意思なしには為されないと思います。ですからそこには個人の選択した意思や行為があるはずです。ただし、普通のオヤジさんが言う「現状で良いと思う人にとっては」現状を変えるような行動をとる理由が見当たらないわけで、その人たちに対して強制的に「~しなければ」と言っても埒があきませんね。
 私の思うところは、この社会がどんどん人間らしく生きるのに不都合な状況に陥っていくのに伴い、私たちがそれをただ傍観して、発生してくる悲劇を他人ごととして、いわば自分には関係ない出来事として見ていくのが果たしてよいことかどうか、です。そんなのどうでもいい、と切り捨ててしまえる人はそれこそ多数であるかも知れませんが、みながそうだからといって自分も多数派に加わろうとは思わない、ということです。で、もう少しだけ言うと、全体の利益不利益にかかわるという部分で、傍観にまわる人々に少しでも関与を促したいと考えていました。現状で放っておけば必ずやみなの不利益になる、と思うからです。
 博愛だとか友愛だとかの理念、あるいは目先の利益だけで判断することでなく、みながより暮らしやすい世の中にしていくことでひとりひとりの生活、人生、未来が拓けていくならば、関与することでいずれは実感をともなった大きな報酬が得られることになる、とも考えます。
 すぐに手に入る利益、を見せられないので、現状維持を推す人たちを簡単に説得することはできません。そこは悩ましいところです。


社会は利益で動きます
個人の価値観を一般的な価値観の様に
「~は許さない」という表題でしたので、
人権を尊ぶ方々の言葉として変じゃない?
と思いコメントしました。

ですから、責任論は情緒的に理解できます。
しかし、法の本質は国民一般の価値観です。
「責任が存在する」というのは法理としても
矛盾していると考え、法に関して少し触れました。

また、独立・平等・自由は不断に不平等を生み、
自由を制限して行きます。
それを、社会法が、博愛とか友愛を動機に
規定されているということで、法に責任を押し付ける
考えはありませんし、
責任のなすり合いとは関係しません。

コウトさんの言う積極的関与は
自由意志ではないのですか?
私は、積極的に関与する動機が、責任という
言葉の意味するものではないと言っています。
それは、博愛とか友愛とか、下世話に言えば
欲望だと言っているのです(簡単に言えば利益です)。
動機の問題で、それこそ価値観です。
自由意志は個々人の価値観です。
これは規定するものではないし、できないでしょ。
少なくとも、現状で良いと思う人にとっては、
また、責任を認識できない人にとって、
それは受け入れられない価値観です。


社会とは、勝手に動くものなのか
普通のおやじさんの言葉が気になっていたのですが暇がなくて、書けませんでした。Looperさんに共感する部分があります。 犯罪者を一般の人と違う人間として見るのはどうか、犯罪を犯す要素はみなの心のうちにある、という点です。
 さらに言うと、この社会が個人の自由意思を尊重して営まれることに異存はありませんが、こと全体の利益不利益に関することについては、強制といわずともひとりひとりの積極的関与がなくてはならないと考えるのが妥当ではないでしょうか。それを単なる制度上のもの(法律だとか教育だとか)に押し込めてしまうと、自分たちの関与なくして他人を批判するだけに陥ってしまう恐れがあると思います。みながいかに協力して社会をよりよきものにしていくかは、今現在最も粗末にされている問題であり、誰かがやるから、やらないから、という責任のなすり合いになってしまっていると思っています。その意味で責任という言葉は個人個人の積極的な関与の有無を指していると思うのですがいかに。これも強制と捉えられそうですが、そうでなくてこれこそ社会を営む人間たちの自由意思の最たるものではないかと思うんですがねえ。


犯罪者もOne of Us
「社会の責任」と書くと、犯罪者の罪を社会のせいにして、社会も一緒に罪を償わないといけないと言っているように聞こえてしまうようですね。

でも、ちょっとニュアンスが違うんですよね。
この間の議論で、どうも犯罪者とは?の考えの違いから来ているように思えてきました。

私は、特別な人だけが凶悪犯罪者になるとは思えないのです。我々一人一人の中に、むろん私も含めて、まかり間違えばそうなってしまう要素があると考えています。人は、そもそもそういう精神的弱点を持った種であるとね。

だから、どんな凶悪犯罪者でも、同じ人間から生まれたものであり、所詮"One of us"だろうと・・・
また全ての犯罪も所詮人間が行う、実に人間的な行為なのではないのか?
というような思いがあるのです。だからって肯定しているわけじゃないですよ、念のため。

そのように凶悪犯罪者を捉えると、それを自分たちの中から抹消して一件落着させるのって、なんか違うんじゃない?って思うのです。我々の社会とその負の部分は切り離し不可能ですよね。だったら、我々自身がその負の部分をも、丸ごと引き受けなきゃいけないんじゃないの?そうしないと前には進めないんじゃないの?って思うのです。

共感しろとは申しませんが、私の主張には、この様な価値観がベースとなっている事をご理解いただきたく思います。


死刑と、自分の大切なひとと
犯罪は社会的責任のもとに更正されなくてはならない。
犯罪者は刑罰を通じて正しい人間に更正されなければならない。

そこまではいいでしょう。

さて、あなたは例えば『何人も幼女を殺して貪り喰らったことのある隣人』との暮らしに耐えることができますか? 

どんな鑑定医が安全を保証したところで、過去にそのような事件を起こした人間を信頼することなど私にはできません。

もし私の子供がそいつに親しげに話しかけられていたりしたら・・・・『彼』がどれだけ清い心でそれをしていたのだとしても、とてもそれを傍観していることなどできるわけがありません。

このことから考えて、著しく社会制度に反する行いをする犯罪者に対して取るべき手段は二つあるでしょう。

ひとつは、犯罪者を死刑にして、国家が責任をもってこの『危険物』を処理するということです。もちろん人権的ではありませんが、犯罪者以外の人権は守られるのは確かです。
もう再犯に脅えて暮らす必要はないのですから。

もうひとつ考えられるのは、更正した犯罪者を誰にも知られることなく、名を変えて土地を変えて社会にこっそりと送り出すという方法です。
もちろん再犯を犯しても、それが再犯であるという事実は決して報道しないことが肝要です。社会不安を抑えるのが目的なのですから。
国民は国家に騙されたままに『再犯がない』という夢の中に暮らすのです。

嘘も突き通せばいずれ真実になる。社会から更正者への敵視が薄らげば実際に再犯率は劇的に減るでしょうから、なにもかも嘘というわけではありません。

さて、死刑廃止という望むべき結論に導くためなら愚民どもを騙しても構わない、というお墨付きを政府に与えることなど可能なのでしょうか?
可能です。そういうペテンを成し遂げた人物といえば、そう、小泉元首相です。

死刑廃止も彼くらいの詐術があれば案外早く実現するかもしれませんよ。



自由な意志(愛かも)
平和に楽しく暮らしたいとか、犯罪をなくしたいと思うのは
社会で暮らす多くの者の実現可能?な願いですし、行為の動機です。
その願いは、助け合いの心とか思いやりだったり欲だったりの
自由な感情・意志から発するもので、人間の(生存)本能の様なものでしょう。

ですから犯罪や社会の歪に対する責任から発生するものではないし、
強要や強制をされてはいけないものと思っています。
ただ、犯罪等を社会の責任と捉える人はそれで良いと思います、
自由ですから。でもやっぱり、社会の責任って何?責任放棄って何に向けての言葉?
この責任の定義と根拠はあるのでしょうか、雰囲気でなら理解できますが。
抽象的過ぎて観念できない責任は、記号でしかないと考えますし、
理解しにくい概念も一般的ではありません。

社会が人間本来の感情を実現(問題はあっても)しているのが、
福祉だったり保護規定等社会法の分野なのですし、
その適用も、法が強制する範囲で一生懸命生きている人に
限ったものです。法の不備もこの対象に対して修正されるもので、
犯罪者に対するものではありません。
社会不備の修正動機でさえ責任ではないと考えています。

このエントリでの、「社会に責任がある」とは、犯罪の根拠にさえなるし、
いづれ個人の自由意志を束縛することにもなりませんか?


お玉さんへ。
 了解です。積極的安楽死については、人命尊重とは何か?という関連でconotoxinさんが例示したと思います。東西も積極的安楽死、尊厳死について、これ以上、論じることは控えます。

 1点だけ。医療の歴史は人命を第一優先にして発達してきました。もちろん、肉体的な苦痛を軽減しながら、麻酔技術も発達させながら、です。しかし、肉体的、精神的な苦痛を根拠に人命を断絶するということは本末転倒となり、医療とはいえない。「死の医学」ということになります。


記事違いです
東西南北さん・・
話がそれてくし、conotoxinさんも遠慮下さっているのに、どうかとは思うが・・見過ごせないので・

>激痛のある麻酔なしの医療が医療となるのは、激痛よりも人命救助こそが人間らしいからです。

あなたがなにを根拠にそういっているのかは知りません。あなたの感性だけで語っているのではないと思うのですが・・でもこれはお玉は違うと思う。違うと言えるだけの根拠を今ここで提示して記事違いな議論をあなたとする気はないけれど・・・

積極的安楽死というくくりも何を指すかで違ってくるので全否定では言えない。あなたがキチンと理解してこの言葉を使って下さっているのならばいいのですが・・・http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/mspaper/paper24c.pdf#search=
http://pe-med.umin.ac.jp/kokunai/colloquium4-2.htmlこの辺り、そのうち書くかも知れないが今この記事違いな場で議論する気はない・・・管理人特権と言うことで一応許してね。


conotoxinさんへ。
 お返事どうもです。

 人類の特質を明らかにする方法としてチンパンジーと比較するのであれば、それは現象面のことですね?つまり、人類とチンパンジーは比較するまでもなく、次元の違う存在なのです。チンパンジーは人類ではありません。これは明白な科学です。チンパンジーと人類には違いがない、あるいは、わからない、とし、チンパンジーと人類を同視することが非科学だということです。端的にいって、チンパンジーと人類は生殖活動が不可能です。他方、白人、黒人、黄色人種は生殖活動が可能であるので同一種なのです。これが科学的な事実ですから、チンパンジーと人類はまったく次元の違う異質な存在ですから、チンパンジーの群れの生態を人類へ類推適用することは完全に日科学です。優生思想へ直結する非科学ですから、特に悪質です。

 積極的安楽死については、明白に殺人となります。他人が殺してくれ、と懇願しらから「じゃ、殺してあげる」という行為を認めると、人類社会の根幹が崩れます。人間が人間を殺すことは違法なのです。ゆえに、自殺といえども自分という人間を殺すわけですから、違法ですが、被害者がいない犯罪だというだけです。自殺幇助は明確に違法行為です。なお、積極的安楽死は医療行為の歴史をも否定することになります。医療は人間の苦痛よりも人命を救うことを第一優先にしてきたのです。激痛のある麻酔なしの医療が医療となるのは、激痛よりも人命救助こそが人間らしいからです。

 最後に、人間が人間を殺すことを正しいか、正しくないかとすることは、物事も見方の違いではありません。人間が人間を殺す行為は「違法と思っていない」と思って実現しても完全に違法です。オウムの麻原教祖は「現代人は精神的に苦しんでいるから救済してあげなさい」と命令し、サリンを撒き散らし殺人を成し遂げました。人命軽視の風潮が何を実現するかは明白です。
 
 

 


>東西南北さん
群れを形成して生活するチンパンジーは、現存する人間に最も近縁な生物の一つです。
ある生物の性質を、近縁な生物の生態から類推することを非科学的とする説は、初耳ですね。
他の比較対象物なしに人間の生態だけを観察して、何が人間らしいか定義することは不可能でしょう。

積極的安楽死については、ご存じでなければヴァンサン・アンベールやラモン・サンペドロについてお調べください。
彼らは医療過誤の可能性ゆえ延命を拒否したのでなく、四肢麻痺により自由を奪われた生を拒否して死を選びました。
自力で死ねないので、肉親や協力者の手を借りて「殺して」貰いました。
彼らに共感します。そして自由無き生からの脱出という意味では、死刑も同じだと考えます。

東西南北さんは、淋しがり屋なんじゃないですか?
自分自身が重犯罪者だったら、「声かけ」など願い下げですよ。
私が非道だと思うことをあなたは人道的だと考える。あなたから見れば私は非道で傲慢なのでしょうね。
こんな風に、人間とは決して理解し合えないもの。
……話が最後まで噛み合いませんでしたが、感謝します。これで終わりとします。


誰にも法の下の平等の権利はある。 いはんや悪人をや
Looper さん>生まれつきの犯罪者がいない以上、私たちの社会には、犯罪の生まれる背景を放置し、その人を犯罪者にしてしまった責任が存在するのは当然・・・

コギト「私も常にそう思っています。 
(但し、どんなに環境が良く(一般論で)ても犯罪を犯す人もいるし、どんな劣悪な環境下にあっても負けない人がいるのも事実です。
さらに突き詰めると、「環境が良くても犯罪を犯してしまった人」が悪環境下では頑張れたり、「悪環境下で負けなかった人」が良い環境下では負けてしまうこともないわけではありません。 しかし、こう考えると頭が混乱するので今回は論じません)」。

Looper さん>私達の社会は犯罪の生まれる背景を放置するだけでなく・・

コギト「私達の社会が放置しているだけでなく、私達の政府が新しい背景を作りだしていることが問題です。

昔は犯罪が起こる度に『社会が悪い』『政治が悪い』という声が髣髴として沸きあがったものでしたが、98年あたりから(日本経済の崩壊に伴い)、自己責任論が流布され、小泉竹中路線の下でのメディアの大宣伝もあって、『自己責任論』が日本社会に定着してしまい、政治や社会の責任が免罪されてしまいました。

新しく作られる法律も、犯罪を減らすどころか、却って『罪作り』な法律となっています。

裁判の判決でも、以前は、『人として許せない重罪を犯したが、被告は劣悪な家庭環境下に育ち・・』と情状酌量があったものですが、最近は『たとえどんなに劣悪な家庭環境にあったとしても、この犯罪を正当化できるものではない・・』という判決に変わっています。(例えば、光市母子殺人事件等)。 
私は、この判決は、裁判長が被害者に同情しているというよりは、裁判長が世間の批判を受けたくないための自己保身の判決だと思います。

法の下の平等が犯罪者には適用されていないように思えてなりません。」


十文字(衆愚代表)さん
まず、他の方にもお願いしているのですが、「さま」付けをされるような人間ではございませんので、「さん」付けにしていただければ幸いです。

>人間はすべからず例外というものを作りたがる生き物なので、極端な事例を想定して、それに対応できるようにすべきだと思います。

まー、確かに例外を認めない社会は息苦しいものですが、この件に関して私自身の考えには例外はありません。

ヒトラーや東條英機でもね。


アドバイスと返答
natunohi69さま

>これが共和党右派らしい(本当はもっとややこしいんだろうけれど)から、よくわかんない。

わからないことがありましたら、とりあえずWikipediaで調べてみましょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB

おまけで此方もどうぞ。

http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/9081780fd58bc0437d59ab19618440fc


Looper さま

ご本人さま直々ですか。
>一々事例を出して説明する必要もないと思いますが?
とおっしゃりますが、人間はすべからず例外というものを作りたがる生き物なので、極端な事例を想定して、それに対応できるようにすべきだと思います。

例えば、アドルフ・アイヒマンの処刑に関して、次のような記述がWikipediaになされております。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3

「すべての訴因上で有罪と判決されて、アイヒマンに対し1961年12月2日に死刑(イスラエルでは戦犯に対する以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルでかつて実行されたただ一つの法律上の死刑)が宣告され、1962年6月1日にラムラ刑務所で午前0時数分後に絞首刑にされた。遺体は焼却され遺灰は地中海にまかれた。」

どのような大罪を犯した人間に対しても、絶対に死刑を適用しないという意志を貫くには、人間一人ひとりにかなりの精神力が求められるのではないのでしょうか。

またヘンリー・デンガーの小説、『復讐法廷』のように、私刑で死刑することもありえます。
山口県光市母子殺害事件では、遺族の木村洋氏は、「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺す」ということをテレビの前で公言しました。

http://critic2.exblog.jp/3251270/

さて、実際に私刑で死刑にすることが頻発してしまうと、法による統治が崩壊して無茶苦茶になります。では、どうやってそれを防ぐのか。
そのようなことを考察する為の一材料として、あえてA級戦犯を例に挙げてみたのです。


誤読が多いようです
前回の議論よりも、誤読されている方が多いように思います。

どうか、こちらをご参照下さい。
http://potthi.blog107.fc2.com/blog-entry-174.html

少し例を挙げると・・・

>犯罪者が生まれたら更にその責任も負わせるという論理

「社会に責任がある」=「個人に責任を負わす」ではありません。

>死刑にせず生かして責任を取らせるなど、言語道断でしょう。

「生かして責任を取らせる」なんて主張はしていません。

>「私はどれほど無惨に犯され、殺されたとしても、絶対に犯人に対して死刑を望みません。」という感じの遺言を残しておくことから始めてはいかがですか?

そんな当然の事(遺言を残す事じゃないですよ、念のため)をわざわざ問うのは、読めていない証拠ですね。

できましたら、まずは上記URLのコメント欄を読んで頂きたくお願いいたします。


全てとは、全てです
>十文字(衆愚代表)さん、

「死刑に反対」というからには、当然全ての死刑に反対ですよ。

一々事例を出して説明する必要もないと思いますが?


「死刑廃止」に「専守防衛」を主張する右派?
オバマ対マケインの陰で必死に戦っている第3の大統領候補ロン・ポール氏の主張はWIKIPEDIAによれば、「死刑制度の廃止」を含み、外交的には徹底した不介入主義、専守防衛主義らしい。国連、NATOからも脱退し、イラクからはもちろん同盟国からも軍隊は即引き揚げて本土防衛のためにしか使わないという。元祖9条主義者みたいだけれど、これが共和党右派らしい(本当はもっとややこしいんだろうけれど)から、よくわかんない。
オバマが本選に向けて右寄りの発言をするのに反比例してロン・ポールへの若者の人気があがっているという。


皆様に問題提起します。
お久しぶりに投稿いたします。

>生まれつきの犯罪者がいない以上、私たちの社会には、
>犯罪の生まれる背景を放置し、その人を犯罪者にして
>しまった責任が存在するのは当然のことです。

といわれますが、それでは極東国際軍事裁判で、東条英機以下7名がA級戦犯として絞首刑にされたことも間違ったものだったのでしょうか?

死刑廃止論者は平和主義者を兼任している事が多いと見受けられますが、極東国際軍事裁判に死刑制度があったことを問題視する人は見たことがありません。

このことを「過去の事だから」として問題視しないのならば、日本の戦争責任も「過去の事だから」ということになってしまうでしょう。

それとも、私のような疑問を持つことのほうが、間違っているのでしょうか?

お玉さまをはじめ、是非皆様のご意見をお聞きしたいです。


conotoxinさんへ。
 まず、チンパンジーと人類を同列に比較対象にすることが非科学です。チンパンジーはチンパンジーらしく生きるのであり、人類は人類らしく生きるのですよ。人類は一人では生きることができないから、みんなで共に生きる、共に働くんです。にもかかわらず、殺し合い、死なし合い、失業なんて現象が生じているのは何故か?明白な人権侵害が現象している。これが科学的な問題提起です。ごく普通ですよ。安楽死という点でいえば、患者には治療拒否の自由がありますね。何故か?医療行為にミスがあるからです。医療行為を承諾するということはインフォームド・コンセントが前提ですので、医療行為に伴う副作用や事故の可能性まで含めて患者が判断することです。これが延命治療拒否の根拠です。医療行為で100%成功するとはいえないという謙虚さですね。無期懲役が「飼い殺し」と言いましたが、人類は人命を尊重することからでしか法を語ることはできません。刑務所で隔離して「自発的」に更正することを促す刑務所教育が必要だということです。もちろん、教育を受ける受けないも本人が決めればいいですが、刑務官その他の人が「声かけ」をして、更正を促していくということですよ。本人が積極的に人命を尊重し、勤労しながら、人命を軽視する風潮、環境などと闘える態度、精神的な自立・成長があったとなれば社会復帰です。どんな基準で社会復帰させるかは国民で議論して決定し、釈放基準は公開すべきですね。


野生のチンパンジーは、群れと群れとの間で組織的な殺し合いをする性質があります。
自然状態の人間が強固に同族殺しを忌避する性質を持っているか否かは、まだ結論が出ていない。
そして禁忌なるものはすべからく、欲望と対になっているものです。
誰も欲望しないもの・関心を抱かないものが、そもそも禁忌となるはずがない。これは自明の理。

社会を改良すれば、改良された社会が新たなタイプの殺人者を育てる。
これはあくまで私見ですが、真実だと確信します。


犯罪者は、社会を改良するためのモルモットではありませんよ。
以前、安楽死を否定する医師が「患者の治療は医学の進歩のためにある」と発言するのを聞きましたが、それと同質のものを感じます。

個人的には、如何なる重犯罪者でも彼が更生や社会復帰の意志を持っているなら、社会が彼をバックアップするのが妥当だと考えますよ。
でも、更生を拒む犯罪者にそれを強いることは不可能です。実例が現に存在するのですよ。
他のエントリである方は、犯罪者が「自発的に」改悛するまで隔離し(=監禁し)続けると仰ってましたが、所謂「人道主義」の行き着く先はそういう世界なんでしょうね。
こんなの、死ぬより非道。

今は無期刑の刑期が延びる傾向ですので、更生したと見なされなければ数十年も獄中に置かれたまま。
これを表現する良い言葉があります。
「 飼 い 殺 し 」 。
死刑は不可だが飼い殺しは可とする、所謂人道主義者の皆様の感覚が理解できません。


うぬぼれ
この記事で引用された言葉からは、
「完全な社会、完全な教育制度からは犯罪者は出ない」という前提を感じます。
「生まれつきの犯罪者がいる」「犯罪者かどうかは遺伝子で決まっている」という命題の否定はそれでしょうか?

僕はガンジーの子供をマザー・テレサが育てても犯罪者になる可能性は0にはできないと思っています。
氏でも育ちでもなく、偶然です。
完全な社会、完全な教育と言っていい状態であっても犯罪者は出るでしょう。進化生物学的なこじつけもできますが略します。
あるのはただカオスだけでしょう。パチンコ玉と同じ、いや人間一人の遺伝子の数も、胎児のときから受ける刺激も、どんなわずかなものもバタフライ効果を起こすと思えば、事実上無限です。


制度として考える必要がある。
まず死刑廃止を訴えたいなら、大半の人が納得できる死刑に代替しうる最高刑を設定された刑法の制定が必須。
これをきちんと論じているのが非常に少ないのが、死刑反対賛成議論が噛合わない一つでしょう。

次に死刑が特別なら、殺人もまた通常の犯罪とは同列に語れない特別な事になります。特に死者の人権をどう考えているのか、これが非常に重要。
その重みを考えた刑法制度を考えなければなりません。

実際に、死刑判決から無期懲役に減刑された後、あまりの良心の呵責に刑務所内で自殺した人がいました。
また先日の殺人事件の被害遺族の方は、公然と報復殺人を口にしています。

ただ死刑を無くするだけでは、報復殺人や自裁自殺が増えるだけの結果になるでしょう。
刑法もそうですが、ケアが必要と言うならどういうケアをすれば良いのか、それを考えるのも死刑廃止派の義務です。


私は死ぬことより生きることのほうがつらいと思うのだ。
だから、犯人は死ぬまで、その責任を取って、監獄にいて責任を、罪の深さを感じてほしいと思う。
死ぬことのほうが楽なんだと思うよ。
だから、死刑ではなくて、終身刑の方がよいと私は考える。



死刑にせず生かして責任を取らせるなど、言語道断でしょう。
それではまるで、人を殺しさえすればその後の人生を約束する、というようなものではないですか?
そもそも社会不適合者に責任を果たす能力などないでしょう。
そして、死刑反対という方はまず、「私はどれほど無惨に犯され、殺されたとしても、絶対に犯人に対して死刑を望みません。」という感じの遺言を残しておくことから始めてはいかがですか?
ただ死刑廃止というだけでは説得力不足でしょう。
やがてこういった遺言を残していた方が被害にあう日が来た時、マスコミ等に取り上げられれば、死刑廃止、または中止にそれなりの効果がでると思いますが。
遺言が、死刑を望む遺族に消されないように、同志で連携しておく必要もありますね。


責任の意味が分かりません
こんにちは
時々、拝読させていただいていますが、コメントは二度目ぐらいです。
以前このコメントを読んだ時もよく理解できなかったのですが、
今回も同じ印象を受けましたのでコメントさせていただきます。

犯罪は社会規範が存在しなければ概念できない訳ですから、
このエントリでの責任は、
法律等を作ること自体に包含されているということを意味します。
しかし、その様に考えることが常識的でしょうか?
私にはその様な認識がないために理解できませんでした。
合意の上に、さらに長い時間を経て存在して来た規範(法律)を
守らなかった場合に、初めて責任が生じると考えるのが普通の
考え方だと思っているからです。当然、守らなかった人にです。

ちゃんと規範を守っている人達に、不作為や作為義務を負わせ、
犯罪者が生まれたら更にその責任も負わせるという論理は
職人芸的で、当初読んだ時、正直感心しました。
社会の歪みは責任の所在が不明確でも現象として理解し解決できる
(本当に解決できるかは別)問題なのではないかと思います。
ただ、犯罪が生じた結果に対して税金を払っていると思っている人達
が多く存在しているとしたら救いではあります。



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