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ヒトはなぜ戦争をするのか?

1931年に国際連盟がアインシュタインに依頼したこと・・

「人間にとっても最も大事だと思われる問題をとりあげて。一番意見を交換したいおいてと書簡を交わしてください」

アインシュタインが選んだテーマは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか」

そして相手はフロイトだった・・・・・

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##余談ですけど、この本出版(花風社)の編集者は宣伝上手・・・・実際にはアインシュタインの文章ははじめの5ページにしか書かれていないけど、帯の写真はアインシュタインを使ってる・・・・

ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡
(2000/12)
アルバート アインシュタインジグムント フロイト

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アインシュタインがフロイトにした、「なぜ人間は戦争を止められないのか。人間には攻撃衝動があるではないのか」という問いを

「フロイト」は考察して、アインシュタインに長~~い手紙を書いてきた・・・・この内容の方が非常に興味深いです・・・フロイトは平和主義者だけど、まず彼が提示するのが唯一の大きな中央集権的な権力のための「戦争」ならば、永遠平和のためにあり得るということ・・・でもそれを成し遂げたものはない・それは何故か・・

 それは、実際に中央集権的なものを必ず作り上げ、その上、自らの裁定を押し通す力がなければ出来ないから・・・ようはみんな(各国)がそれぞれ自分の持つ権力や権威を主張することなく、それらの主権を中央集権的な機関に譲り渡さなければ、永遠の平和は訪れない・・・けど、そんなことは出来ないから戦争はなくならない・・・・

・・・・・書きながらこれは当たり前だけど、大事なことかな?と思った・・・・

ああ、もっと簡単な紹介にするつもりだったのに・・

NHK特集 果てしなく消耗戦 レイテ決戦

↑ これを観てしまったから・・・・・フロイトが途中で書いていた

「人間から攻撃的な性質を取り除けるなどできそうもない!」

・・・・これが、日本兵もアメリカ兵もレイテ島住民も身近な人を殺された憎しみから自らも残虐な殺戮者になり得てしまった現実・・につながってみえた。

 ここからはじゃあどうすれば戦争をなくし、平和主義者を増やせるのだろうか・・という論になるのですが・・・・お気づきの方もいるかも知れないけど・・この書簡を書いた翌年、ヒットラーが指導者として君臨し、ユダヤ人だったアインシュタインとフロイトも迫害の危機に見舞われて・・・結局往復書簡は継続出来ませんでした・・・

だからフロイトの書いている結論は、多分その当時はむなしい響きにしかならなかったのでしょうが・・・・

たとえ、お花畑といわれても私もフロイトの結論が気に入ってます。 

 平和主義者は、戦争そのものを憎む力がきっと攻撃的な性質と変わらぬほど強いのではないのか・・・戦争への残虐さそのものに劣らぬほど、戦争への嫌悪感を生み出す原因になっているのではないのか?そういう戦争を憎む力を持つ人を増やしていくことが、戦争終焉に必要だとフロイトは言うのです。

 どうやって全ての人間を平和主義者にするのか・・ここのところはフロイトらしい・・・・人間の攻撃性(及び性的な機能)は文化の発展でドンドン弱まってきたのだから、もっと文化を発展させ促そう!と提案しているのです。

ね、とってもお花畑な理想論でしょ。もちろんじっさいの戦争を具体的に語る場も彼らは持ちたかったようです。それが「ヒットラー」「その後の戦争」によって実現しなかったことは、本当に残念です。

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Secret
(非公開コメント受付中)

戦争したいとしても
今まで戦争がなくならなかったのは、やはり戦争は儲かるものであったから、ということが大きいと思います。
自国以外での戦争は、国の経済を豊かにするのでけしかけたりもします。
しかし、近年、儲からないようになってきたようです。
兵器が進化して高価になってしまった面があると思います。
一方では、高齢化社会で福祉にお金がかかります。
また、情報化社会で情報漏れがありますね。
謀略で開発途上国に戦争をさせようとしてもばれてしまう可能性があります。
そういった状況から、戦争ができなくなってくるのではないでしょうか。


>キンピーさん

今「利己的」あるいは「利他的」をキーワードにした研究は、遺伝子の働きと人間の社会的な活動との間でなにか関連性があるかということだと理解しています。

この分野での研究は日々進歩しています。そこでの研究は免疫学から分子生物学などのさまざまな範囲の中で、人間の自己、非自己、寛容、非寛容の把握、あるいは動物の行動と遺伝子との絡みなど、動物行動の本質をも探ろうということだと思っています。

免疫学者の多田富雄氏のように人間の持っている免疫機能(細胞レベルの極小単位)から出発して国や世界の社会システムを見るという観点もあります。

量子物理学から宇宙が解明できる、あるいは商品一個を分析することで資本主義経済が解明できるという観点と同じように。だから人間が持っている遺伝子を解明することで戦争を考えるという視点も生まれてくるものと思っています。フロイトの考えもそれと同じじゃないのかな。

その意味での問題提起をキンピーさんがなされたと思っていました。

憲法9条については、日本で戦争を語るときに避けて通れない命題だし、キンピーさんの問いかけは書かれてあるだけで満足してはいけないよ、ということだと理解しますが、9条は道徳的観点だけではない積極的な意味をも持つものと思っています。

そして他国に9条を押し付けることなどは現実的には無理だし意味はないですよね。ただし自ら国の方針として憲法に明記しているのだからそれを他国に積極的にアッピールするのは戦争を憎む国、あるいは国民としての責任です。

同時に戦争を憎む平和志向の人間を多数育てるのは遺伝子学的に見ても決定的に子供の時からの教育・芸術分野しかないということだと考えます。だから好戦的な勢力も教育行政を重視しているし、右翼も日教組や全教に敵対的挑発を繰り返している。

いずれにしても、私も退散します。

お玉さん、ピントはずれや何が言いたいのかわからない長文コメントの羅列でごめんなさいね。迷惑をおかけしました。でもこれが私の討論能力の限界です。


ダイスさん
有るか無いか分らないものを本質の問題とすることなどできないと思いますが。
それと続きは「戦争の世紀」の方で議論するのがよろしいかと思います。

ま さん

・“他”とはそれ自体、独立して存在するものなので、それがどのようなものか勝手に規定できません。故に常にその集団に対して他の集団が利他的であるとはいえないのです。
・集団と個人の関係は従来であれば国、民族、宗教などでしょう。しかし「万国の労働者よ!」というように人間の意志によっても集団化することは可能ですが、何かしらの集団に属するのは定義の問題ではなく人間の習性です。
・道徳について人間の本質とは違う道徳観があった場合、それは普遍的なものとなりうるのでしょうか。常に人間の本能を上回る道徳観などそれこそ紙に書いた落書きでしょうし、いったい誰が決めるのでしょうか。
道徳から手をつけるのは危険です。
・教育についてそのような教育が必要なことは私も同意しています。
・9条世界遺産について、誰かの価値観を他の国に押し付けることになります。そんな押し付けよりも貴方が外国の人と平和について話し合う方がもっと有益だと思いますが。
・手段としての9条の活用はぜひ語ってください。しかし条文にとらわれない方がいいでしょう。

ここからはエントリーと少し外れます。
私は誰がどのような思想を持っていらっしゃるのか存じませんし、そんなことは重要ではないと考えていますが、ま さんはどうも護憲派でいらっしゃるようですね。
道徳的な視点を取り除けば憲法9条が成り立たないから道徳にこだわるのだと思いますが、憲法9条はすぐに実現しなくてはならないものではなく、「目指すもの」と肩の力を抜けば様々な意見に耳を傾けることもできるでしょうし、様々な提案も可能になるのではないでしょうか。
このエントリーに私が積極的に参加した理由は、従来の議論とは違った観点から議論できると思ったからで、元ネタにならえば議論が憲法9条や現在直面する問題に固執するのはよくなかったと思います。

で、コメントの数も非常に多くなってきましたので、このエントリーから退散させていただきます。


キンピーさん…
 だから「利他的行動をとる場合がある」としてるじゃないで
すか…
 人間の本質とは何か、とはある程度突き詰めなければならな
い命題ですが、そちらに走りすぎてはテーマである「人はなぜ
戦争をするのか」及び「戦争をなくす(少なくする)には」と
いう議論に発展しないのでは?
 まぁ、このままでは[2008/08/16 17:27]の"松っちゃん"さん
の意見のような結論になると感じていますが、一足飛びにそこ
へ行かずに分析を積上げる作業をする事に意義が有るかと。

 本質が何かも大切ですが、「人間は○○する場合がある」と
いう経験則で、十分議論の下敷きになると考えます。
 「国家間の安全保障上の打算がある場合、○○する傾向があ
る」という経験則を提示できれば、十分ではないのですか? 
そりゃ、色々なケースを集めなければならないでしょうけれど、
そういう作業に適しているのがインターネットでしょ(集合知
ってやつね)。

 この場をリードしているのはキンピーさんですから、ちょっ
くら軌道修正というわけには行きませんか?


>キンピーさん

>なぜなら他の集団と認識しているものに、人間は利他的にはなれないのです。 それが自然な考えです。


利他的になれないといわれますが、それはどの程度のレベルでしょうか?
利他的という場合、これは動物行動学的見地からそれとも人間の道徳的見地から?

それと、キンピーさんの考える集団と個人の関係の定義がいまいちわかりません。集団の中の個人もいろいろなレベルの人間が存在するわけで、それを一括りにして人間の本質を論ずるのはなじまない気がする。特に遺伝子レベルでの利己的か利他的かという論争も社会的行動と結びつけることの結論が出ているわけではないし。
ただし、キンピーさんが道徳的観点から「利己的」、「利他的」を論ずる場合はまた別に考えることが必要な気がします。

人間の意識は存在が規定するという説がありますが、もしそうだとすると要するにその人の社会性を認識するレベル差によってさまざまな意識が存在します。それが多様性だと思いますが、その時、他の集団と認識している場合でも存在あるいは教育環境のいかんによっては「利己的遺伝子」に関わらず道徳的「利他的」な意識が芽生えるのは否定できないと思います。
それが究極的にはボーダーレス的な考えに発展していくのではないのでしょうか?

「憲法9条を世界遺産に」という“爆笑問題”の提起も、他集団に対し「利己的」ではなく「利他的」な道徳観念を発現させる手段としているものと理解しています。
彼らの言う「世界遺産に」という主張も現実世界から見れば青臭い理想論かもしれませんが、青臭さや理想がなくなった現実論、あるいは脅威による抑止論では決して平和は訪れないでしょう。それはイラクやパキスタンの現実そのものが十分説得力のある一コマだと考えるからです。

9条は描いた餅だから力にならないのではなく、手段としての力を認識してない、あるいは認識したくない勢力が現実政治で影響を持っているからだと考えていますが、これも青臭いのでしょうか?


ダイスさん
>利他的行動をとる場合がある。

集団では利他的な行動をとる場合ととらない場合があります。
集団の場合、国家間の安全保障上の打算であったりもしますので、「人間とは~」の共通認識を論じる上で、不確定要素があまりにも多すぎます。

要するに集団における利他的行為は本能・本質の範疇に入りません。


利他的・利己的の定義
> なぜなら他の集団と認識しているものに、人間は利他的には
> なれないのです。 それが自然な考えです。
 同意です。

 人間の本質は利他的か利己的かで、続きを書く必要はなさそ
うですね。言葉の定義に拘るのもほどほどにしないと、議論す
べき本題から外れてしまいますから。

 人間(個人としても集団としても)は、己と特別な関係を持
った集団及びその構成要素である個人に対して、利他的行動を
とる場合がある。
 ここまでは、この場の共通認識としてよろしいかと考えます
が、いかがでしょう?


ま さん
やはり人間を集団と置き換えておられましたか。
私が問うたのはあくまで人間です。
ま さんが言わんとしていることは分かります。
>「利他的な個人感情の発露は、他集団に対しても思いやる気持ちを持つものと思います。それが尊厳、多様性を大切にする人間として自然な感情ではないかと思っています。」
>「集団の中で集団の利益に合致するからといった理由でも、個人が戦争=大量殺戮をしたことを合理化することは許されないという考えに立つことが大切」

とても良い考えだと思います。そして多くの人が同意すると思います。
しかしそうはならない。
なぜなら他の集団と認識しているものに、人間は利他的にはなれないのです。
それが自然な考えです。
そしてその次の文書もいかにも道徳的ですが、それは場所と時代によって否定されかねないものです。
ま さん。私たちは人間以外の何ものにもなれないのです。
ならば人間の本質によって戦争(殺戮)を止める方法を考えなければならないのではないでしょうか。


キンピーさんへ
>「人間はある集団に属し、その中では利他的であり、利他的であるが故に大量殺戮さえもする。 」の主語は全て“人間”であり、集団ではありません

言われんとすることはおぼろげながら理解できます。

が、利他、利己という概念はあくまでも個人を基にして考えるものと思っていますが、集団としての意思(目的のほうがいいか?)が個人の意思の総体として個人と同化した場合でも、大量殺戮の対象は他人及び他集団なのではないでしょうか?

ですから、利他的な個人感情の発露は、他集団に対しても思いやる気持ちを持つものと思います。それが尊厳、多様性を大切にする人間として自然な感情ではないかと思っています。

で、何が言いたいのか?
集団の中で集団の利益に合致するからといった理由でも、個人が戦争=大量殺戮をしたことを合理化することは許されないという考えに立つことが大切だということです。
戦前の大戦が、米英の経済封鎖にあった結果、自存自衛の為の戦争だったとした理由でも、他国を侵略すことは許されない。そのことの個人も含めた反省なしにはまたぞろ戦争への道を許すことになると思っています。

また、子孫を残すことを目的とした利己的遺伝子が強いのが動物としての一般的な特徴ですが、人間は環境=存在のあり方で利他的遺伝子も発達するものと思っています。

禅問答みたいでよくわかりませんね。ですがリアルな戦争はこういった机上の討論では計り知れないものが多くあると思います。

すみません、横から茶々を入れて。


ま さん
もう少し書いていただかないとお話しにくいのですが、おそらく主語を人間ではなく、集団に置き換えてしまっているのではないでしょうか。
「人間はある集団に属し、その中では利他的であり、利他的であるが故に大量殺戮さえもする。 」の主語は全て“人間”であり、集団ではありません。


>その中では利他的であり、利他的であるが故に大量殺戮さえもする。

僭越ですが、利己的の間違いじゃないですか?

利他:他人に利益となるように図ること。自分のことよりも他人の幸福を願うこと(yahoo辞典より)

シンペイさん

あなたが戦争中毒を患っているとは思っていません。


撞木鳥さん
ブッシュパパの件で誤解があったようで申し訳ありません。
了解しました。
攻撃性と攻撃抑制の話ですがとても興味深く拝見させていただきました。
ようするに本来本能として備わっていない攻撃抑制を持つべきだとローレンツ博士は主張されたのですね。
攻撃“本能”を何によって抑制するか?
私は本能は本能によってしか抑制されないのではないかと思っています。
------------------------------------
ダイスさん
“廃人”については「戦争とはそのようなもの」というスタンスに、もっと思考することを求めたものです。少々スパイスが効きすぎたかもしれませんが、確信犯ですのでご批判は甘受いたします。
さてダイスさんからも興味深いご意見をいただきました。
「特攻隊を例に出されましたが、私達の祖父達は、日本
という集団のためではなく、例えばドイツのため、チベットの
ため、アメリカのために、特攻するでしょうか? 」
その例だとありえなかったでしょう。
しかし他国のために特攻した例はありますし、攻撃側のくくりは国家ではありませんでした。
ダイスさんの仰ったように集団には様々な形があると思います。
それは最初からそこに存在するわけではなく、自分たちの意志で作り出すことも可能ですし、人間の想像力の中で基準が変化します。
だから敵だと思って殺してしまった相手が、実は自分となんら変わらぬ人間だったと思うこともあるのではないでしょうか。
------------------------------------
みなさま。
人間はある集団に属し、その中では利他的であり、利他的であるが故に大量殺戮さえもする。
これが人間だと思いますがいかがでしょう。


キンピーさんへ
> ・自分に近しい他者とは戦わないことは納得しておりますし、
> そのように書いておりますのでご確認を。
 了解です。
> ・“廃人”については自己認識・構築と他者との関係をお考
> えください。
 これは、私の問いかけが不足でした。私の希望は、同じ事を
訴えるにしても、コウトさんの[2008/08/17 23:07]のコメント
のような視点を含めて欲しい、という事です(自分の文章を読
み返して、これを読み取ってくれ、とは言えん文章でした)。
> “事実”は義務や正義で片付けられるものではなかったとい
> うことではありませんか?
 その通り、義務や正義のみでは片付きません。同時に、義務
や正義抜きでも語れません。
 人間は、戦争に向き合うとき義務や正義を必要とします。同
時に、近しい他者との殺し合いを避ける気持ちも持っています
(殺し合いを避けるための方法も思い付ける)。
 この二者の間を行きつ戻りつしながら、戦争と個人は向き合
っているのではないでしょうか。いや、「同じ事を言葉を変え
て言い直した」だけかも知れませんが。
 であるからこそ、
> 自己と同等の他者を殺し、それを知ってしまえば後は欠けた
> 人間になるか神にすがりつくしかありません。
という認識を持てる方には、上記の様な願いを持ってしまいま
す。

 まぁ、私の願いは置いといて。納得がいく応えが得られまし
た。ありがとうございます。

 では、「人間は、利己的か、利他的か」について。

 言葉の定義になってしまいますが、人間にとっての、と言う
より、個人にとっての「己」と「他」とは、何なのか? 当然、
狭い意味では己とはその個人そのものであり、他とはその個人
以外の全てです。この定義でいけば、個人が集団(=他)のた
めに身を犠牲にする事がありますから、利他的と言えましょう。
 では、特攻隊を例に出されましたが、私達の祖父達は、日本
という集団のためではなく、例えばドイツのため、チベットの
ため、アメリカのために、特攻するでしょうか?
 とてもそうとは思えません。我が身を捧げる集団(=他)を
取捨選択しているはずです。また、「人間個人としての本質」
が利他的であるとするならば、「米国のために自衛官が血を流
すのはおかしい」と主張する人間は、人間の本質から外れてい
るのでしょうか? そうではないでしょう。

 自身を捧げる他者を取捨選択している。では、何を基準に?

 この取捨選択の基準が、個人(=己)と集団(=他)の関係
にあると考えています。自分と無関係な対象には、「利他的に
振舞わない」という事です。
 この個人と集団の関係に色々なバリエーションがある。家族・
友人・同級生・同窓生・同郷人・同国人・地球人… 実に広い。
その中から、どの関係を選んで個人の行動が決定されているの
か? それもそれぞれの状況次第。
 私が、変化すると表現した「己の範囲」とは、この個人と集
団の関係の事です。なぜ個人と集団の関係を己の属性としたか
というと、個人から集団を見た場合、自分との関係性としてし
か認識できないからです。

 長くなってしまいました。続きは、日と項をあらためてコメ
ントします。


キンピーさんへ 私の書き方が悪いのでしょうか?
>キンピーさん

>パパブッシュであれ、“個人”が戦争を望んで何の得がありましょう。
いわゆる軍産複合体と呼ばれるものの仕業で、パパブッシュはその神輿に乗っただけだと考えていますが。

どうもあなたには誤解されているようなのですが、私の書き方が悪いのでしょうが?「パパブッシュの」と付けたのは「パパブッシュの時の」というつもりで書いたので、パパブッシュ個人が独りの考えで戦争を起そうとしたなどとは少しも思っていません。むしろ、この件についてはあなたとほぼ同じ見解です。そもそも、易々と扇動される方にも問題はあると思っていますから。

念のために申しますが、私は「その国には一人の悪い王様とその取り巻きがいました。悪いことはみんなそいつ等のせいで、他の国民はみんな、騙されていただけの無辜の民でした。」というような“童話”を信じているわけではありません。もし、あなたが「政府や財界を批判する人たちは、自分たちには何の責任も無いと考えている」と思っておられるなら、「そういう人ばかりではありません」と申し上げたいです。少なくとも私はそういう考えではありませんので、何卒、ご了承ください。

というよりむしろ、政府のやり方に問題があると思うならば、遠慮なく批判や異議申し立てをするのが、民主主義社会に生きる市民として、いや、“民主主義を実現したい人間”として、やるべき義務のひとつなのではないかと、最近、やっと思うようになりました。かつてこの国では、それは命がけのことだったことを考えますと、今はよほど気楽なことのはずです。(最近では太田農相も、そういうことを“奨励”してくださっているそうですし!)それでも、その日の暮らしに追われる庶民には、こちらにコメントすることさえも、なかなかシンドイことと知りました。(笑

それから、これまた私の言い方が舌足らずだったようで、たいへん申し訳ないのですが、ローレンツ博士もけして「動物は同種族を殺さない」と言ったのではありません。

ある時、近縁種で、どちらも大人しいとされている鳩のオスとメスを、交配させようと広いゲージの中に入れておいたところ、運悪くいさかいが起こってしまったらしく、気がついたら、メスがオスを突つき倒して、皮までぺろりと剥し、相手を瀕死の状態に追い込んで自分もふらふらに疲れ果てながらも、なおも突つくのをやめられずにいたそうです。(他にもいろいろな例は挙げられていますが)つまり、一撃で相手に致命傷を与えるような、鋭い爪や牙といった“武器”を持たない、攻撃力の弱い動物ほど、野生状態で同種同士の喧嘩になったら、ある程度のところで不利になった方が逃げ去って闘争が終るという経過をたどることが多く、「種の存続を脅かす」ことにはならなかったので、攻撃衝動そのものにはほとんど「抑制する仕組み」を持っていないということなのです。

それに対して一般的には“残忍”とされる肉食獣の方は
>ある種類の動物がその進化の歩みのうちに、一撃で仲間を殺せるほどの武器を発達させたとする。そうなったときのその動物は、武器の進化と平行して、種の存族をおびやかしかねないその武器の使用を妨げるような社会抑制をも発達させなければならなかった。

さらに
>自分の体とは無関係に発達した武器を持つ動物が、たった一ついる。したがってこの動物が生まれつきもっている種特有の行動様式はこの武器の使いかたをまるで知らない。武器相応に強力な抑制は用意されていないのだ。この動物は人間である。(中略)我々の武器は自然から与えられたものではない。われわれが自らの手で作り出したのだ。武器を作り出すことと、責任感、つまり人類をわれわれの創造物で滅亡させぬための抑制を作り出すことと、どちらがより容易なことだろうか?われわれはこの抑制も自らの手でつくりださねばならないのだ。なぜならわれわれの本能にはとうてい“信頼しきれない”からである。(『ソロモンの指輪』日高敏隆訳 早川書房より)

ローレンツ博士は「水鳥のヒナが卵から孵った時、最初に見た動くものを親だと思ってどこまでも付いて歩く」という、あの有名な「刷り込み」という行動を発見した人ですが、その後、その名も『攻撃-悪の自然誌』(みすず科学ライブラリー)という本の中の一部でも、上記とほぼ同じ内容のことを繰り返しています。その本は精神科医たちとの語り合いの中で、フロイトの言った「死の本能」(己自身に向かうこともあれば、他者に向かうこともある、人が生来持っている破壊への衝動=攻撃性)に触発されて書かれたものだとありました。その本が最初に出版されたのは1963年、まさに東西冷戦真っ盛りの、キューバ危機の頃です。ヨーロッパの人々の記憶にはナチスの悪夢がいまだ、まざまざとこびりついている一方で、世界は核戦争の危機に脅えていました。かつてのフロイトと同じく、ローレンツもまた、「ヒトはなぜ、戦争をするのか?」という問いに自然科学者としての答えを見出そうとしていたようです。


自分で「最悪な未来」を予測しておきながら、みすみすそのような状態を引き起こしたのならば、それは政府の悪辣さや日本国民の衆愚性よりも、むしろ貴方や貴方と同じような主張をされる人々の無能に責任があると私は判断します。

 衆愚さんへ、合法的な殺人は今の日本ではよく行われている行為です。病気の人を餓死させたり、思想信条でくびにしたり、ワーキングプアで考える魂を奪ったり、日本人の三人に一人は考えるなんて高尚なことは到底できない生活環境にいます。また、監視組織が個人ひとりひとりを監視して圧力を加えていることも事実です。さて、監視され、いくえにもぐるぐるまきのように身動きをとれなくされていることを、衆愚さんは自覚されていませんか?それでもなお、動けないのは動かない人のおろかさを示しているのでしょうか?いいたいことは動きたくても動けないということです。

 日本はそんなに自由があるわけでも、民主主義があるわけでもないと思いますよ。


シンペイさん。
お気持ちは分かりました。
仰るように現在直面する問題とこのエントリーの命題はすぐに直結しないかもしれません。
しかしこのだだっ広い命題をアインシュタインやフロイトも現状に拘束されたまま思考を巡らせたのではありませんし、ネットでの議論も制約をかけるべきではないと思いますがいかがでしょうか。


その通りですね
これは失礼しました
でもこれは「国は時に暴走して戦争起こす」
に対する反論にはなってないと思うんだけどなぁ

あと
>ナンボなんでも抗議しますよ?
はまさんへの抗議です
明記するべきでしたね、失礼しました


シンペイさん
キンピーさんはあなたが「この「国は時に暴走して戦争起こす」というのにきちんと反論してくれる人が全く居ない」と書いたから反応してくれているだけでしょう。

>それを「戦争中毒」呼ばわりはナンボなんでも抗議しますよ?

だからお玉がさきに突っ込んでる。なのにそこへ議論を戻すのはだめだし、キンピーさんに文句を言う筋の話ではない。


呼び名は関係ないです
少なくとも上の私の発言で組織としての呼び名は関係無いです。
問題は「普通に考えて勝ち目無いし理由も無いけど
戦争始める輩は普通に居るんだ」って言いたいんです。
改憲派とか右翼とかは別に戦争起こしたいわけじゃない。
『憲法九条は「日本は戦争嫌いですよー」って唱えてれば
他の国から攻め込まれない便利な魔法の呪文じゃないんだ、
自分の国は自力で守るべきだ』
そう言いたいんです。
まして隣国は憲法九条を具現化したかのごとき絶対平和主義だった
チベットを侵略、併合したという実績があり
国際世論などそよ風ほども気に留めてないという
実績を誇っているのだから。
それを「戦争中毒」呼ばわりはナンボなんでも抗議しますよ?
「治において乱を忘れず」ですよ


>「国は時に暴走して戦争起こす」
国(集団)に意思などありません。あるとすればそこに集う人たちの総意として意思があるのであって、集団の支配者たちもその意思を無視して軍を動かすことなど出来ないのです。
シンペイさんの言われたように時には我々の意思を操作してくることもあるでしょう。
しかし日本が戦争を選択した場合、結果として我々は戦争を望んだということになります。

集団とは国家や宗教集団、イデオロギー集団ではなく、集団とは常に“私”の集りである“我々”です。
日本やアメリカ、イスラム原理主義、共産主義etc…、集団に名称なんてつけるから“我々”が見えなくなるのです。
本来我々の総称である日本という集団に、勝手に人格や意思を作り上げ、責任を押し付けた上での意思が、現在の“世論”と呼ばれるものではないでしょうか。


ナンかスゴい事言われてるな
>まさん
>ここのブログで隣国の脅威を煽り立てた戦争中毒患者のような意見を寄せられている
人もままいます。
>この人たちにどんな感動的な言葉を投げかけても平和思考にはならないということだなぁ~ 
私はむしろ「隣国は安全」と考えるほうがどうかしてると思うのですよ
現実に幾つもの国に侵略戦争行ってるし。
それに「世論」「国際世論」と言われる方が居られますが
現在の韓国や中国の世論、9.11時の国際世論とやらをみれば判るでしょう。
ちょっと手ェかければ世論など簡単に「調整」出来るというのに。
特にイラクに攻め込む時の国際世論なぞアメリカの「御威光」とやらがあったとしても
反対したのはホンの僅か。
しかもその反対意見など全く無意味でした。
世論を軽く見るわけではありませんが「世論で国策は良くなる」といった
過剰な期待は危険だ、という事です。
それに第一次大戦時のイギリスやフランス、
第二次大戦時のアメリカやドイツ。そしてマッカーシズム時のアメリカを
見れば判るとは思いますが「世論」が国を危険な方向に誘導しています。
それに改憲派は戦争がしたい訳ではありません。
「いざって時に自分の国は自分で守るべき」と言っているのです。
国際世論や他国の武力をもって自国を守る、というのは
最初の一発を食らうのが前提です。
そして、本当に何度もいいますが時に国と言うのは理性や良識、勝算などを
部外視して(あるいは勝てる、と思い込んで)
暴走する、というのを一番よく知っているのは我々日本人なのではないのでしょうか?

この「国は時に暴走して戦争起こす」というのにきちんと反論してくれる
人が全く居ないので寂しいです


ちえん さんへ
> 国民の半数の半数の半数をだませばまた、戦前と同じ、ヒトラーのファシ
>ズムと同じ時代が、歴史が繰り返されると思っている。12%の国民が9条を失く
>そうと思えば、第二次大戦前夜になると思う。国民投票法はそのようになって
>いる。いいすぎかもしれないが
もっと低くなることもあろう。

> 投票率1%以下でも成り立つんだから。なんとも悪質な法律だ。


 これは、ちえんさんだけに限らない話なのですが…、

…では、貴方は貴方自身が申された上記の出来事が起ころうとしたとき、それを看過するのですか?

 自分で「最悪な未来」を予測しておきながら、みすみすそのような状態を引き起こしたのならば、それは政府の悪辣さや日本国民の衆愚性よりも、むしろ貴方や貴方と同じような主張をされる人々の無能に責任があると私は判断します。

 同様に北朝鮮・中国の危険性をあげつらう人々もおりますが、仮に彼らの予想する最悪な出来事が起こってしまったとき、それは北朝鮮・中国の悪辣さより、北朝鮮・中国の侵略を抑止できなかった人々のマヌケさのほうが責任は重大でしょう。

 …とまあ、何でこんな挑発的な投稿をするのかと申しますと、結局のとこと、貴方(がた)も、反近隣諸国論者も、結論は真逆なのですが、スタイルは同じのようであると、藤原帰一氏や仲正昌樹氏、そして杉田敦氏の影響をちょっと受けている私は思ってしまったりするのです。

つまり、
1.意見の相違により、「私たち」と「彼ら」の二分に分ける。
2.「彼ら」の否定的な部分に関する指摘は激しく、「彼ら」の思うままに任せると、最悪な未来が待ち受けるという、いわゆる「脅迫的」な論じ方をする。
3.反対に、「彼ら」のポジティブな部分や、「私たち」に不都合な事実に関しては目を閉ざす。(酷いときには、それを指摘する人々を「利敵行為」だとして、「彼ら」の側に追いやる。)
4.詰まるところ、「私たち」は絶対正しいことになる。

 さて、そんなスタイルで本当に戦争を無くすことができるのですか?

 今回のお玉さまのお題は、言うならば「第三の道の提示」だと思います。しかしながら貴方は旧態全とした、「私たち」と「彼ら」に二分する論じかたをしています。
でもそれって、「進歩的」じゃないでしょう?

 確かに貴方は、
>やはり、相手のことを知らずに、知ることはムダだと断定することが
>楽だから多いように思います。

…と、述べておりますが、私としてはあまり説得力を感じません。

 9条の実践においての主となるものは「対話」です。また今回、お玉さまは「文化の発展」ということを述べられました。
 それらのものを促進させるためには、どのようなスタンスが望ましいのか、考察に値することであると私は存じます。

 なお、今回の私の話に即するようなものとしまして、『論座 2008年9月号』の「特集 理論と現場」において、『「彼ら」だけが問題なのか:政治学者 杉田敦氏に聞く』という対談が大変すばらしかったので、お薦め致します。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=9610

P.S
私は朝日新聞社の回し者では御座いません!



 

 


たくさんの人が見落としている事
 やはり、相手のことを知らずに、知ることはムダだと断定することが楽だから多いように思います。
 特に力が強いほうは、今の現状を維持したいと思い、現状を否定する可能性を徹底的にゼロにしたり、行き過ぎたことをしがちだろうなと思う。
 


ダイスさん
・自分に近しい他者とは戦わないことは納得しておりますし、そのように書いておりますのでご確認を。
・“廃人”については自己認識・構築と他者との関係をお考えください。
自己と同等の他者を殺し、それを知ってしまえば後は欠けた人間になるか神にすがりつくしかありません。
戦争に行くまでは「それが使命だから、義務だから」「戦争とはそういうもの」「正義のためです」と言っていた若者が自ら命を絶つ場合もあるのです。煽りでもなんでもありません。
“事実”は義務や正義で片付けられるものではなかったということではありませんか?
殺した後(確信犯的に殺す前)にそこから逃げるには、他者を自分より劣ったモノ、取るに足らないモノとして押し込むしかありません。
------------------
撞木鳥さん
・パパブッシュであれ、“個人”が戦争を望んで何の得がありましょう。
いわゆる軍産複合体と呼ばれるものの仕業で、パパブッシュはその神輿に乗っただけだと考えていますが。
またイラクと9条の関係で言えば、日本はイラクに対して有志国の一員として参戦しております。9条も中身がなければ紙に書いた落書きです。
・同種の動物の件ですが、犬でもネコでも殺し合います。死ぬまでします。
生まれたての我が子の頭を食うヤツもいます。
もちろん死ぬまで攻撃しない個体の方が多いように思いますが。
またネズミはハムスターでも砂ネズミでも二十日ネズミでも構いませんが、一定の場所で繁殖してみてください。
増えると血縁など関係無しに殺し合いを始めます。
しかし人間のように利他的に無意味に大量殺戮はしません。
他の動物は基本的に利己的ですから、自ら危険を犯してまで殺し合いはしませんから。
・ローレンツ博士
自然主義の誤謬やそれに近い意味のことだと思いますが、道徳的なことはできるだけ避けていますのでご安心を。

ただ私は人間・人間集団の習性や本質をふまえた上で、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか」という命題を考えているのです。


戦争を減らすことができるが、根絶することは不可能だという価値観は誤り。
 何故ならば、戦争を減らすことはできるが、根絶することは不可能という結論になってしまうことは、日本国家の現状を肯定あるいは「あきらめる」ことになるからである。すなわち、憲法9条2項を削除し、戦争を「最小限度」にする軍備を保持できるようにする憲法改定を合理化することになるということである。 では、人間は戦争を根絶できるという根拠はどこにあるか?何故、人間精神、価値観を戦争根絶で統一することが正しい教育科学となり、戦争を根絶することは不可能であるという人間精神、価値観が宗教、非科学なのであろうか?その根拠、基準は人類史に求めるしかないであろう。人類史の圧倒的な時間は戦争の原因である階級・国家が存在しない歴史であった。戦争は悠久の人類史の極々、最近に階級・国家、すなわち、文明の誕生と共に発生したことが価値観、感じ方ではない歴史上の事実関係なのである。


コメント一部訂正します
私の前のコメント、「自然界の『殺し』」ですが

>本能の中に「同属」を殺さないような強い規制が組み込まれていると。

>動物学の世界では「同種属」殺害の例としてたいへん話題になったそうです。

すみません。「同族」、「同種族」(どっちも「同種」という意味のつもり)と書いたつもりがうっかり間違えました。どうでもいいような間違いかもしれませんが、生物学では「属」というのは「種」の上の区分で範囲が広くなるようですから念のため。素人のくせに知ったかぶりで書くと、こんなものですね。(^^;)


戦争は人の心の中で生まれる…
でも、いまどれほどの人が、他者の心を慮るだろうか?

みんなめんどくさいんじゃないかな?

底の底まで、人の心を推し量るなんて、自分の利益に直接つながらない限り、とにかくうざったいし、余計な労力を消耗する意味のない行為だと。

案外、人の心なんてどうでもいいと、軽く思ってないかな?

そうじゃなきゃ、より学術的に、あるいは、よりシステマティックに社会構造の問題として考える。それで十分、戦争防止対策になるとか?
今、生きている自分自身が、人の心をどう扱っているかなんて、直接議論に関係ないわな、と。
形式的に、礼儀を保っていれば、それで十分!なんて…。

本当に??

荒廃は人の心から始まる。
しんどいところで他者の心に寄り添えない人間たちが、どうやって戦争を止めるのだろう?

イデオロギーでも宗教でもなく、理論でも方程式でもなく…。

『ただ人間に触れるということ』が、なぜにこれほど難しいのだろう?

※ここでの議論に対する感想ではありません!
なんというか、わたしなりの『戦争論』??


自然界の「殺し」
>キンピー様

>たとえば過去の(w 我国の総理大臣だって、個人としては勇ましいことを言いつつも、そのような大それたことを本気でやろうとは考えないかと。
しかし“集団”ともなれば話は別ですね。

えーと、私が言いたかったのは、どれもアメリカの例になってしまいますが、

パパブッシュの湾岸戦争が始まる前に、「イラク兵がクウェートの病院で赤ん坊を殺しまくっている」とか(アメリカ議会で証言したクウェートの"一般市民"の少女は実は駐米クウェート大使の娘で当時現地にはいなかった)、今度のイラク戦争でも「悪逆非道なサダム・フセインが大量破壊兵器を製作して『世界制覇』を狙っているから、どげんかせんといかん!」とか、その類の話を国民に信じさせようとするということです。

たしかに今の日本ではウソの話で強引に世論を形成して開戦に持って行くなんてことはできないでしょうが、でも、九条でも無くなったらどうでしょうか?

それから、自然界の「殺し」のお話が出ていますが、そもそも「同種族相手の殺し合い」でない限りはヒトの行なう戦争とのアナロジーにはならないと思います。そうした動物の同種間闘争については、(私は専門家ではないので、あくまで耳学問ですが)動物行動学のコンラート・ローレンツというノーベル賞学者の人が、詳しく研究していますが、基本的には同種の動物同士は一見、激しく争っても殺すまでには行かないような仕組みが働いていると言っています。特に危険な牙を持つ肉食獣の場合、互いに相手をかみ殺してしまっては種族の存続も危うくなってしまうので、本能の中に同属を殺さないような強い規制が組み込まれていると。

ただし、彼以降に、メスのハーレムを一頭のボス(オス)が率いる動物の場合、ボスが交替した時に群れに残っていた前のボスの子供たち(特にオスの仔)が新ボスに殺されてしまうという例が何種かの動物で発見されて、動物学の世界では同種属殺害の例としてたいへん話題になったそうです。ネズミの場合は、他の「群れ」というか、血縁集団の個体が縄張りに入ってくると、匂いの違いで気づかれて噛み殺されると聞いたような・・・(この辺はたぶん、各動物の中の「遺伝子」が己の複製を作り続けることを第一の目的とするように動物が行動する、という「ドーキンズの利己的遺伝子」とかに関わる話になるようです)


そういえば、ローレンツ博士は人間「原罪」とか、「戦争」についても何か書いていたような気がしまが・・・・・ずいぶん前に読んだきりなので忘れました。W ともあれ、良い例とするにしろ悪い例とするにしろ、人間の道徳観を自然界の生物に当てはめて考えるのも、あるいはその逆に、人間社会の倫理の根拠を自然界に求めるのも、なかなか難しいことではあるし、時に危険なことだと思います。


キンピーさんへ
> 少なくとも会話ができるほどの至近距離にいることに留意し
> てください。
 ずいぶんと不自然な想定ですね。まぁ、でも想定ですから。
私とシンペイさんが、「会話もせずにその場を離れる」という
回答をしましたが、不十分でしょうか?
 キンピーさんは、ご自身の想定に「親子」以外の兵士の存在
を含めていますか? 私は、見ず知らずの他人である敵兵が親
(子)の周囲にいるし、私の周りにも親(子)から見たら他人
である戦友たちがいるものと考えていましたが。
 戦場の収支という表現で、特別な個人を対象にしない方法が
存在する事を示したつもりでしたが、それでは問屋さんは相手
にしてくれませんか? 敵前逃亡せずに「その場を離れる」と
同等の効果があるんですが。
 前提条件が有るのではありませんか? との以前の問いは、
何が何でも親子で殺しあわなければならない条件が有るのか、
という事です。戦場である事は、親子が殺し合う理由にはなり
ませんよ。親も子もそれぞれが「駒」として振舞えば、戦場の
収支を合わせる形で親子による殺し合いは避けられるのですか
ら。

 キンピーさんが問題提起しようとしている事柄は、理解して
いるつもりです。個としての人間と集団としての人間の違いに
ついて、できる限り一般化した結論を導き出したいのでしょう?
 ただ、そうすると「なぜ例外と呼ぶべきような想定にこだわ
るのか」が、引っかかるんですよ。こだわっていると感じた理
由は、前回投稿に書いた「煽り文句と感じた」からなんですが
ね。
 あと、キンピーさんの
> なるほど。
> そうやって帰還兵は廃人になるわけですね。
これのみのコメント。これも、前後の流れから、私は悪印象を
持っています。何か兵士である事を馬鹿にしているような。だ
から、「兵隊は親子でも殺し合うんだろw」と言わんとしてい
るのか、と邪推が働いています。

 「誤解だ、邪推だ、ダイスの捻くれ者め!」で結構ですから、
ピンキーさんの考えを説明していただけるようお願いします。
 利己的・利他的の話も、個と集団の話に絡めて議論したいの
ですが、これに引っ掛ったままでは、気が乗りません。

>皆様方
 私信のようなコメントで、申し訳ありませんでした。


「平和」「戦争」とレッテルを貼るから見えなくなります。

例えば「ネットウヨク」というレッテル貼りが大好きな方々が世には多数存在するようですが、こうやって勝手に相手を何かの集団に決め付けてレッテルを貼りをするようでは物事の進展は無いでしょうね。

戦争と平和を考えるのに面白い物が有ります。

漫画トランスフォーマーの敵役、デストロン(ディセプコン)の破壊大帝メガトロン、彼の目的は「全宇宙の平和」で、彼による宇宙征服で戦争をなくするという目的で活動しています。
(漫画上の事ですが、機械生命体である為世俗的な欲望とは無縁で、純粋に賢人による理想支配が目的なのが面白い所です。)
対するサイバトロン(オートボット)の信条は「自由と言う権利」を守る事。

多くの作家によるお話しの中の事ですからそのまま現実に当て嵌める事は出来ませんが、なぜ「平和」と「自由」の間で終わりの無い戦争になるのか、思考実験としては面白いでしょう。
(少しだけアメリカの人の思考の一端が垣間見られるのも面白い部分です。)

なぜ「戦争は政治の一形態」なのに「平和は政治の一形態」といわれないのか、何が戦争で何が平和なのか、頭の中の決め付けを取り払って考える事が肝要です。

長文になってきてしまいますが、戦争と平和を考える上で一筋縄でいかない問題として「中立国の戦争」「いんちき戦争」「冷戦」「ポルポト派統治下のカンボジアでの平和」「A級戦犯・平和に対する罪」などを思いつきます。
仕事が繁忙な合間に時々考える程度ですから結論なんて出ませんが、安直な結論に飛びつかず考える事は大切だと信じています。


お玉さんおもしろいな~
 そうか、他国の脅威を言っている人でも、9条を大切に思っている人がいる。か

 私は、今のアメリカを見ていて、貧困を強制することにより、学ぶことの長期展望性を否定して、無知や無関心を強制することで、貧困と戦争を強制していると思います。

 日本もそのやり方を見習って、貧困を拡大していますね。二千万世帯を超える人たちがこの数年で極貧に転落させられている。そして、アメリカの命令どうりに2010年までに強制して戦争に協力するように進んでいますね

 有事法制も98年に成立してもう十年。戦争がはじまり、強制的に戦争に協力しなければ、監獄につながれる法律はできている。あとは、戦争に参加できる状態を作るのみになっている。

 のどもとにギロチンが突きつけられているけれども、自覚している人はほんのひとにぎり。9条がなくなったとき、それは自分たちの首をアメリカの侵略戦争といっしょに切り落とされることを意味するだろうね。

 戦争がはじまってしまえば、破壊しつくされるまで終わりはしない。家のある人は家を失い。そこに住んでいる家族の多くを失う。今の高性能の軍備において、防ぐ術は一切ない。

 イラクのバクダットでは、今どうなっているだろう。あれが戦争を喜んでしたらどうなるかの結果だろう。

 今、抑止論はまったく意味をなさないと気づき始めているのかもしれない。戦争をしたい人たちが、戦争を止めただろうか?戦争の歴史はうそをついてでも戦争をしたい人たちの歴史ではないのかな?
 戦争したい人たちは、絶対に被害を被らない。安全なところで貧困な人たちに武器をもたせて、武器を買い取らせて、貧困なもの同士を殺し合わせた
 それを気づきたくない、認識したくないと思っている人たちが多いなら、戦争はまた繰り返される。

 事実は、貧困な人たちに殺し合いをさせている。貧困にならないように合法的な殺人を一般の人もたくさんしている。平和を望む人を特高警察に売ったり、CIAに売ったり、KGBに売ったりして少しでも自分だけは助かろうとする。あるいはいばろうとする。

 今でも、情報を自衛隊が秘密裡にもち、国民を監視しているし、それのどこが悪いと大臣がいう。監視と恫喝で圧倒的な力で国民に反発することをやめようと強制して、あきらめさせる。

 戦争は一歩一歩、確実に国民の手をしばり、足におもりをつけて近づいてくる。

 あとは半分の国民をだまして、9条を無効化すれば、すべてが完成する。

 同時に自民党草案では、特高警察の復活と治安維持法の復活も担保されている。

 国民の半数の半数の半数をだませばまた、戦前と同じ、ヒトラーのファシズムと同じ時代が、歴史が繰り返されると思っている。12%の国民が9条を失くそうと思えば、第二次大戦前夜になると思う。国民投票法はそのようになっている。いいすぎかもしれないが
もっと低くなることもあろう。

 投票率1%以下でも成り立つんだから。なんとも悪質な法律だ。

 長文すみません。


ま さん
勉強になります。ありがとうございます。
その好戦的な遺伝子は抑えられると。
しかし例え出されました安倍元首相や隣国に対して好戦的な人も内側に向けて好戦的なわけではありませんので、彼らにも教育の効果はあったと考えるべきではないでしょうか。
そしていわゆる護憲派の人たちも同じ地平に立っているように思います。

>人間に生まれた直後からの教育と環境の改善しかないということ、つまり、美しいものに対する感受性(芸術、文化)を高める教育
同意です。

-------------------
KYさん
記憶力は想像力とはまた違いますが、よりリアルに考えることのできる“記憶力”についてのご教示ありがとうございます。
ネットへの過信は禁物ですが、ネットの出現により、ゆるい連帯が必ずしも「なにもしないこと」を最高の状態とする、地域血縁のコミュニティーである必用はなくなりました。
つまり記憶力による『集団の仲間』として認識する『構成メンバー』は、地域や血縁を平気で飛び越えることが可能となりました。
『平和のための戦争』に突き進むのではないかという懸念ですが、確かにあります。
しかし、平和へのゆるい連帯と対峙する集団とはどのような枠組みの集団でしょうか。
国家でしょうか、支配者層でしょうか。それとも別の何かでしょうか。
--------------------------
議論が先に進んだようで先の私の問いへの私の考えだけ申し上げます。
a.従来であれば国家、宗教、イデオロギーなど。
b.可能。既に実証済みと考えます。


>何が言いたいのか?

>非常に辛らつな批判ですね。こういう言い方をされると非常にショックです。

ごめんなさい。でもあなたにはこれまでにも何度かお玉は言ってるように思う。配慮して欲しいのはあなたの出してきた説に対してではないよ。

脅威論を唱えつつも護憲派と言う人や条件付き護憲派という人に対して配慮してほしいと思っています。

とはいえ、最近お玉、ものの言い方がきついかも知れない。ゴメンね。


お玉さん
>脅威をことさら煽るのはおかしいと思っているけど、それは平和への考え方が違うだけ。戦争がしたくて脅威論を唱えているのは政治家(安倍さん筆頭に)及び財界人くらいだと思う。

そうですか。でも私は一概にそうとは思わない。

話しても分からない人たちは日本では政治家を除いては少数かもしれないし少なからずいるかもしれない。それは世界でも同じ。

だから抑止が必要だと声高に言う気もありません。この人たちにどう対処していいのかもよくわからないというのが正直な気持ちです。今思うのは、間違いも犯すかもしれないけど圧倒的な世論を喚起するしか方法がないのではないかということ。

>何が言いたいか・・もう少し配慮して書いて欲しいということ。

多田氏たちの見解が正しいかどうかは私は免疫学の素人だからよくわからない。

しかし、こういう学術的な見方もあるというのは事実だし、子供の教育環境が決定的に大切だということくらいはわかる。
それ以上はどうすればいいのか、この説が正しいかどうかもわかりません。

柳澤氏も多田氏も戦争や暴力を憎み、憲法9条を大切に思い、しかも両氏とも脳梗塞や難病で不自由な身体でおられる。

何が言いたいのか?

非常に辛らつな批判ですね。こういう言い方をされると非常にショックです。

失礼しました。意見の場を与えてくださってありがとうございました。愛のない書き方でごめんなさいね。


まさん
>ここのブログで隣国の脅威を煽り立てた戦争中毒患者のような意見を寄せられている人もままいます。
>この人たちにどんな感動的な言葉を投げかけても平和思考にはならないということだなぁ~ 

お玉はそうは思わない。脅威をことさら煽るのはおかしいと思っているけど、それは平和への考え方が違うだけ。戦争がしたくて脅威論を唱えているのは政治家(安倍さん筆頭に)及び財界人くらいだと思う。
脅威論を唱えつつも護憲派と言う人や条件付き護憲派が大勢いる事実にも目を向けよう・・

何が言いたいか・・もう少し配慮して書いて欲しいということ。


集団と戦争と平和
>キンピー様

人間が『集団の仲間』として認識する『構成メンバー』の数は通常200~300で、これは短期記憶の数が7個程度で決まっているのと同じ生物学的な制限である。という話をどこかで読んだ記憶があります。

この制限を突破するには、個々人ではなく、グループをひとつの構成単位とみなすことが必要だそうです。確かに大きな組織は小さな下部組織から成っているものです。

しかしこの集団が営利企業のように、何かの目的のための集団である場合、その連帯感情は戦争を止める力にはならないのは明白です。目的のために団結する一番の方法は『外敵の存在』とそれとの闘争、つまり戦争だからです。

そのような闘争を止める平和的な力が働くためには、その集団は『コミュニティ』である必要があります。コミュニティとは地縁血縁のようにそこに居るだけで参加させられる特に目的のない集団のことです。
なぜなら目的のない集団にとって、達成され得る最高の状態とは
『何事もないこと』
つまり平和だからです。目的のある組織にとって何事もないことは最低の状態ですが、目的がない集団にとっては何事もないのが最高の状態なのです。

しかし当然のことですが、こういう目的のない集団が目的のないままに大連立するのは、合目的な組織が階層構造をたやすく形成するのに比べて非常に困難です。だからこれまでの統一国家の形成は戦争の歴史でもありました。戦争という目的のために作られたものが国家であると言い換えてもかまわないほどに。

おそらく平和への道は、ご近所づきあいのようにどちらがエライという序列のあまりない、ゆるい組織どうしがゆるいままに連帯することにあるのではないかと思います。
残念ながら『平和を目的とする集団』はまさに目的があるという理由のために他の団体と抗争し、『平和のための戦争』に突き進むのではないかと邪推します。

ネットのように誰もが発信者になれるツールによってこの流れが変わるといいのですが・・・


・・・長文失礼いたしました。


免疫学から見た好戦性
免疫学の権威である多田富雄氏(国際免疫学会連合会長)と遺伝学者の柳澤桂子氏の間で交わされた往復書簡の中に、遺伝子からみた人間の攻撃性についての記述がある。
(いのちへの対話「露の身ながら」 多田富雄・柳澤桂子共著)

柳沢氏の「男性の持つY染色体の上に残虐性の遺伝子、領土争いの遺伝子が乗っているのならそれをノックアウトすれば平和に暮らせるのでは?」という問いに多田氏は、

「一般論で言えば、男が持っているY染色体はメスを獲得する闘争の為に生まれた古い遺伝子で、他の動物もそうだが、ヒトでも残虐性や領土などの征服欲などは男の属性のように見える。一方、競争による進歩や新しいものへの挑戦も同じ様に一般には男性のものとされている」

また、「女性は調整の遺伝子がもともと優位に働いている。いろいろなものを寛容に受け入れ、征服や排除は好まない穏やかで争いを好まないのは女性の本性」

「もし、そうであったらY染色体上の問題の遺伝子を除いても、男は無気力になるだけ、社会進歩や学問が阻害される。勇気ある破壊力が進歩の為に必要」と述べておられます。

さらに続けて多田氏は、
単一の遺伝子ではなくの多数の遺伝子の相互作用があるから人間の行動(ここでいう戦争への動機)を単純に規定できないが、Y染色体による残虐性を社会的に制御することは可能だそうです。

それは、人間に生まれた直後からの教育と環境の改善しかないということ、つまり、美しいものに対する感受性(芸術、文化)を高める教育や他人の痛みがわかる教育などがそれにあたるということです。

この好戦的遺伝子がドミナントに発現するのはおそらく幼児のころで、それに対処して早く発現を止めないと、大きくなってからではどんなに声を大きくして説得してもムダで、遺伝子の発現は一定の時期にだけ制御が可能だそうです。

この免疫学からの見解が正しいかどうかわかりませんが、もしそうだとすれば、ここのブログで隣国の脅威を煽り立てた戦争中毒患者のような意見を寄せられている人もままいます。政治家の中でも安倍のお坊ちゃまのように好戦的な人も多数存在します。
この人たちにどんな感動的な言葉を投げかけても平和思考にはならないということだなぁ~ 
やれやれですね(T_T)


皆さまありがとうございます。
ちえんさん
そのとおりかもしれません。そしてそのような状況に至っては憲法9条も無力です。
言葉としては美しいかも知れませんが、全くの無力です。

撞木鳥さん
>ある国の支配層たちが他国と戦争をしようと企んだとき
たとえば過去の(w 我国の総理大臣だって、個人としては勇ましいことを言いつつも、そのような大それたことを本気でやろうとは考えないかと。
しかし“集団”ともなれば話は別ですね。

ダイスさん
将棋の駒なら収支があうかも知れませんが、実際の戦闘ではそうは問屋が卸しません。
少なくとも会話ができるほどの至近距離にいることに留意してください。
また話し合いで親子関係を保つことも可能でしょう。しかしそうはならない場合は他の方のご指摘どおりです。
そして人間の本質に関して、人間が利己的であるなら特攻などという人間の本質を利用した非人間的な戦闘方法が確立されることもなかったでしょうし、現在に引き継がれることもなかったでしょう。
60数年前、「少しでも大切な人が長生きできるように」という思いで死んでいった兵士たちがいることを思い出してください。
個人と集団の研究の件ですが、大切なことだと思います。
しかし人間個人としての本質を見誤るとあらぬ方向へと結論が導かれる可能性があります。

お玉さん
私個人の見解では人間の想像力に限界は“無い”と答えます。
昔、知人が私宛に書いた文書の最後にあった一節です。
「暗黒の中では、我々の想像力は明るい光におけるものよりもたくましく働くのを常とする。」

-カント-

さて、ダイスさんが個人と集団の問題を言われましたが、重要なことだと思います。
人間は本能として集団化する動物と言われていますが、a.その集団とは何によって決められるのでしょうか。
その枠組みを決める際、b.私たちの意思で決めることはできないのでしょうか。


ご自身で「空気が読めない」とおっしゃってる方へ

今の話の流れにまた歴史修正論の話を持ってこようとするからダメだと言ってる。悪いが表に出しません。今後はこうやっていちいち書くことはしないよ。お玉にとって都合が悪いと思ってくださってかまいません。##だってせっかくの今の流れを遮断されるのは非常に「都合が良くない」ですから・・・

歴史修正論ほかいつもあなたの語りたい内容をそのように具体的に書いていいのは、お玉が記事にそれらを書いた時です。


三輪耀山 さん、遅レスですが
>つまりは、一国内部で軍隊を持たないと平和を誓っても戦争をなくす事は不可能であり、外国がある限り軍隊は必要だと言う事が再確認されただけです。

憲法は国民に約束したものですから、「平和を誓う。」のとは違うと思います。まあ、世界(国外)には誓ったことになるのでしょう。

しかし、平和の誓いは何の役にも立ちません。平和を維持するシステムが世界に無ければならないと考えます、しかし、今、それが無いに等しいということでしょう。だからこそ、「憲法9条を世界に広げよう」ということはとても重要な意味があると思います。



う~~ん・なかなか深いねえ・・みなさん。

お玉はキンピーさんのおっしゃる

>では人間はどこまで自分にとって大切な他者だと認識できるのでしょうか。
人間の想像力の限界はどこなのでしょうか。

を導き出す過程の話にそれほど違和感がないのです。よかったらもうチット書いてみてくだされ。>キンピーさん


キンピーさんへ
> 人間と人間の集団の内部から戦争を見ていこうとしています。
 それを考えるのに「親子が戦場で相対したら」という問いが
必要なんですか?
> とっ捕まえて眉間に銃口を当てて引き金を引きますか?
 こんな煽り文句(だと感じました)を入れてまで。
 戦場での収支(そうあえて収支と表現します)を考えれば、
わざわざ親(子)を撃たずに、その隣にいる敵を撃てば収支は
合うんです。その程度の想定だと気付いてますか?

 お玉さんが「正義のために」という言葉を使ってコメントを
返されていますので、ちょっと便乗して。
 お互いの信じる正義が相反して妥協できなくとも、殺し合い
に発展せずに妥協できる濃密な人間関係。親子とか兄弟とかの
関係ってのは、そんなものなんじゃありませんか?
「このバカ息子! てめぇなんざ勘当だ!!」
「うるせぇ、このクソ親父! 言われなくともこっちから出て
ってやらぁ!!」
 こんなやり取りをしても、心の何処かで相手の無事を祈り許
している関係なんじゃありませんか。例え喧嘩別れした後、一
生会う事が無かったとしても。
 もちろん例外は存在するでしょうけど。

 信ずる正義が異なれば親子であっても殺し合い以外の解決策
は存在しない、との考えなのでしょうか? もしそうであるな
らば、戦争を無くすためには「一つの正義で人類を統一」する
しかありませんが、さすがにそりゃ無茶でしょ。
 親子でも妥協できないのであれば、「他人の正義」なんて容
認できるわけありません。平和なんか諦めてさっさと戦争に備
えなきゃ。(ちょっとイジワルかな^^;)

 正直、キンピーさんの視点に違和感を感じました。個人とし
ての人間と集団としての人間の違い、その理由について考えて
いるのだと理解しましたが、なんかズレてると感じます。

 それと人間も動植物並に利己的だと考えます。人間の「己の
範囲」が条件によって大きく変化するから利他的に見えるの場
合があるだけです。
 家族愛・友情・郷土愛・愛校心・愛社精神、そして愛国心。
これらが同一のものとして語られるのも、「己の範囲」が変化
しただけで、利己的である本性と合致してるからに他なりませ
ん。

 どういった条件の時に己の範囲は何処までになるのか、個人
として認識できる範囲は何処までで集団が相対する範囲とはど
の位違いがあるのか、この二点を研究すれば、個と集団の違い
をある程度一般化できるのではないでしょうか。


個人の攻撃性と戦争
兵隊はそもそも個人的な憎しみから敵兵を殺すわけではありません。あるいは、個人が起す殺人事件がいくら度重なっても、それを戦争とは呼びません。おそらく人間には誰にでも、持って生まれた攻撃性のようなものはきっとあるのでしょう。それはもしかすると、生きていく上で必要なのものでさえあるのかもしれません。しかし、現代ではそのことと「戦争が起こる」ということが直接結びつくとは私には思えないのです。

原始時代の部族間抗争や源平合戦の時代ならば、あるいは個人的な憎しみや攻撃性が戦(いくさ)の元になることもあったかもしれません。でも現代の国家間の戦争は個人の思惑などをはるかに超えたものです。むしろ、個人の攻撃性は戦争のために利用されるものとなっているのではないでしょうか?

ある国の支配層たちが他国と戦争をしようと企んだとき、まずは国民一人一人の中に、敵国と敵国人に対する憎悪と軽蔑を掻き立てるべく、あらゆるメディアを動員して仕組むことでしょう。そして、実際に戦地へ送り込む兵士ともなれば、その「洗脳教育」はさらに徹底します。

かなり昔に『ベトナム帰還兵の証言』という、今は絶版になってしまった岩波新書の一冊を読んだことがあります。(手元には無いので、詳細は覚えていないのですが)その中で新兵たちにはまず、敵(ベトナム人)を「グークス」(アジア人に対する蔑称)と呼び、徹底的に蔑み、人間ではないものと思うように叩き込まれたそうです。(かつての日本も「鬼畜米英」と言いましたが)

そして、最近になって『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』という、元海兵隊員でベトナム帰還兵の平和運動家、アレン・ネルソン氏の著書を読みました。やはりその中でも「グークス」という蔑称は使われていたとありましたが、それ以上に軍隊生活が兵士たちの攻撃性を引き出し、敵(からなずしも武器を持った兵士ばかりではない)に対して情け容赦なく振舞える「殺人マシーン」に仕立て上げていくかが描かれています。

ネルソン氏の本は子供たちにもわかるような平易な言葉で書かれてはいますが、そこに書かれている、彼自身が同僚の兵士たちと行なった、女性や子供も含むベトナム人に対する殺戮は恐ろしいものでした。そして同僚たちの中にはどんな残虐な行為も平気でやってのける「モンスター」のような兵士もいて、まだ、かろうじて良心を保っていたネルソン氏も、いずれ自分もその「モンスター」になってしまうのではと怖れます。軍はそんなモンスターの存在を咎めるどころか、むしろ利用しようとしているのを知っていたからです。

たしかに戦場の兵士たちが自発的な復讐心に燃えて敵や民間人を殺すことはあるでしょう。(ネルソン氏の本の中にもそういう話は出てきます)しかしその背景に、戦争当事国の国民として、兵士として、すでに相手を憎み、蔑む心を育まれていた状況があったことも忘れてはならないのではないでしょうか?


どんなことでも起こる
 自分の肉親が自分を裏切るときは辛いですね。麻痺した人間が無差別に殺戮することも怖いですね。
 考える力を力づくで止めたとき、人間は麻痺します。
 麻痺した人間にとって、肉親も恋人もないでしょう。認識力を奪われた人の想像力を期待するのは無意味なことです。限りなく無に近いと思う。
 もし、日本が戦争に向かうとしたら、まず日本人の半分を思考力が無に近いようにすることです。すべてに無関心にさせれば、戦争は起こります。

 自分たちは正しい。歴史上の事実を歪曲してなにもなかったのだと考えれば、あやまちは繰り返されると思います。なにかがあったのだと考える思考力を失ったときに戦争は起こります。

 平和を望む人たちでも間違いを間違いと気づかずに、無関心でいれば、主観的には平和を望んでいても、客観的には戦争を呼び寄せる、無関心で麻痺した人格になっていくでしょう。


お玉さん、ダイスさん、シンペイさんありがとうございます。

ダイスさん
>ひょっとして、質問に何か前提条件があるんじゃありませんか?
特にありませんが、人間と人間の集団の内部から戦争を見ていこうとしています。

シンペイさん
>自然は一部の人間が思っているほど優しい物ではないと思うのですよ
私が言ってるのは逆です。
自然界の動物は利己的だから必用以上に殺戮しない。
スズメバチの攻撃性はスズメバチの持つ社会性に原因があるわけで、人間の利他的な資質と似ているのかもしれません。
ちなみにネズミも自分たちで殺し合いをしますが、それには別の利己的な意味があります。

自分自身が敵であるなら戦う、あるいは自分とウリ二つの人間とでも戦うという意見がありましたが、自分が最も大切にしている他者とは戦わないという意見が多いようです。
人間らしい利他的な考えです。
ここまではウヨもサヨも同じだと思います。
では人間はどこまで自分にとって大切な他者だと認識できるのでしょうか。
人間の想像力の限界はどこなのでしょうか。


キンピーさん
親兄弟が戦場で戦った例ならナンボでもあります
古い所ではスイスですね。
かつて産業が殆ど無いので傭兵として人間を「輸出」していました。
ある戦場で同郷の者達が敵味方に別れて出会った際
「雇用者の信用を失わない為」全力で戦い、両者ともほぼ全滅したそうです。
近い所では第二次大戦時の日系人がありますね。
山崎豊子の「二つの祖国」で描かれています。
まあ第442連隊が有名ですね。
彼らは基本的にヨーロッパがメインの戦場で、幸い(といっていいのか)日本相手には
出陣しなかったようですが。

どういう状況か不明なのですが自分の子供が敵として
戦場に出てたなら、わたしは多分こそこそ逃げ出すでしょう。
眼前で銃を放り出して逃げたとしたら、その光景を見た「彼の友兵」に彼が
スパイ容疑掛けるでしょうから。
少なくとも子供に対して引き金を引くというのはありえないと思います。

あと、よく言われる方が居ますが
人間以外でも「必要以上の殺戮」はよくしますよ。  っていうかしょっちゅうです。
そもそもどこまでが「必要」でどこからが「不必要」なのかよく判りませんが。
必要だったらスズメバチなどが行う巣一つを殺し尽くす「絶滅戦争」は
肯定されるのでしょうか。
猫は鼠や昆虫を遊びでよく殺しますよ?
自然は一部の人間が思っているほど優しい物ではないと思うのですよ


親兄弟が戦場で
 親兄弟が敵味方に分かれて実際に戦った例なら、歴史上、色々
あります。有名どころは、真田一族なんていかがでしょう。

 彼らには、そうすべき理由があったのですよね。人間の本質
は、それほど変化していないと考えていますので、現代人だっ
て、理由があれば親兄弟で刃を交える事はありえるでしょう。

 ちなみに、私と親父が戦場で相対したら。お互い見なかった
事にして分かれるでしょう。実力差が顕著であれば、捕虜にす
る(なる)でしょう。
 私と息子の場合でも、同じように振舞えるよう、息子との関
係を作っていくつもりです。

 「戦争=殺すか殺されるかだけ」という定義は、兵士間に個
人的な関係が存在しない、将棋の駒のように考えたときにのみ
有効です(実際の戦争の殆どの局面は、駒対駒の関係でしょう
が)。
 人間は、もっと柔軟な生き物でしょう。

 キンピーさんは、何を訊きたいの?
 ひょっとして、質問に何か前提条件があるんじゃありませんか?


それがお前の正義ならば、私はここに銃を置く。お前が正義のために引き金を引きなさい・・・

子どものために闘っていたつもりならばこういえる。・・では正義のために子どもを捨てて闘っている場合はどうか・・・私はそれでも子どもに銃は向けられない。

キンピーさん、これは親になった経験のあるなしで大きく左右される問題かも知れないね。

では敵が自分の親だったら・・・正義のために私は引き金を引くかも知れない・・・そんなこともちょっと思ったよ。


お花畑で生きられたら
戦争、の対義語は平和、でしょうか。それとも、もしかしてお花畑・・・?^^;

言わせてもらえば、お花畑にいられたら生きてることが楽しくてしかたないでしょう。それはたぶん、死ぬまで見ることのない夢ですね。絶対に手に入らないものだから、かえって人はそれを軽蔑するのかも知れません。
 僕が戦争について嫌になるようなことを延々と書いたのは、それが実は、今生きている現実の延長上にあるものだと感じているからなのかと思います。いくら平和に生きたいと思ったって、かならず利害の対立があり、あるいは好悪の感情があり、心穏やかに生きることはできない。だけれど、それを不満に思って世界をもっと酷いところに押しやってはいけない、そういう思いがあるんだと思っています。もちろん、素敵な仲間をたくさんつくって、本当に幸せな人生を送る人もいるのでしょう。ですがそれは自分にとっては縁のないことで、夢だけを描いて現実を避けていることはできません。生きていることをやめたくなるような中でも、自分にできることをやって生きていくしかない。それが、敵に向かって銃口を定めることであっては悲しいのです。人の命を粗末にする仕事であっては嫌なのです。
 レイテ戦の生き残りの老人が、死んでいった仲間に今の日本を報告するのは辛い、といったようなことをおっしゃっていました。こういう世の中で、僕らはどうやって、生きることを本気で大切だと思えばいいのだろうか。ちえんさんには悪いんだけれど、お花畑で遊んでいられるのは、自分勝手な人ばかりだと思えて仕方ありません。平和は絶え間ない努力なくしては保てないと思います。なぜならば、この世界は、生き残りを賭けたとても厳しいところであるからです。
 この休み中、くだらない文章をたくさん読んでいただいた方々、ありがとうございました。また忙しい日々に戻ります。それでは。


ちえんさん
>千人の仲間を持っている人間に対して、国だっておいそれとは手を出せないだろう。
グロバリゼーションが浸透するにつれて、その可能性は高まると思います。

コウトさん
>こんな悪い(?)想像をあまり続けようとは思いませんけど
いやいや、もっとえぐらないと見えてきません。
一人ひとりの人間はコウトさんの仰る「愛することができる」とは少しずれるかも知れませんが、とことん利他的な動物です。
「敵を殺さねば味方が殺される」から殺戮する。
ここでも殺戮するマインドは味方への利他的な気持ちなんですよ。
他の動物はそこまで利他的ではありませんから、味方が殺されそうになっているからといって、敵を攻撃したりしない。
ようするに必用以上の殺戮なんてするのは人間だけなんです。

ここでもう一つ性質の悪い質問です。他の方のご意見も是非お聞かせください。
戦場で会った敵兵が自分自身でも戦うと言われる方はいらっしゃるようですが、出会った敵兵が自分の娘(息子)だったらどうしますか?
娘(息子)は言いました。「お父さんお母さんのために戦っている」と。
貴方も言いました「オレ(私)もお前達のために戦っている」と。
どうしますか?
とっ捕まえて眉間に銃口を当てて引き金を引きますか?
これはぶっ飛んだ空想ではありませんよ。


お花ばたけを作ってみたら
仲の良い仲間を千人作ったらたいしたものだ。

 是非、どうしてそうできたかを聞いてみたいものだ。

 千人も人がいたら、いろいろなことができるだろう。きっと今ひとりぼっちで考えるだけでは到底わからないことが。
 頭がよいとか知識があるとかとは別のなにかが生まれるだろう。
 千人が千人を増やせば百万だし、百万が千人を増やせばもう、もう十億だ。大きな力になるね。
 また、千人の仲間を持っている人間に対して、国だっておいそれとは手を出せないだろう。その安心感というものはどういうものだろう?
 どれだけひとりぼっちの考えが浅く狭く薄っぺらいかをきっと千人の仲間を持った人は否が応でも気づくだろう

 烏合の衆じゃないよ。納得した仲間だよ。まだ人類はその千人の仲間を作ったことは歴史上ないんじゃないかな。作りたくて努力した人はいたかもしれないけど。

 ここは違い、ここは同じ、ここは少し違って、少し同じ。ここはずいぶん違って、少し同じ。・・・・
 納得しあう仲間など、遠くかすむような話だ。
 それでも千人の仲間は作れるだろうか?

 また、あるいは5人の仲間を作ることができるだろうか?自己中に生きる人ばかりのなかで、めちゃくちゃ多い相違点。でも、五人であってもめちゃくちゃ勇気がつくだろう。

 けしてひとりぼっちではもちえない安心感をもつだろう。たとへ国によってひねりつぶされるとしても。

 意見が違うように見える人同士でも、納得してつながっている仲間が、敵のように見える人間とつながるなんてことは日常茶飯事だ。誤解もどんどんあきらかになる。

 違っているのはあたりまえ、仲間が違うのもあたりまえ、では、仲間は変化しないのか?変化する。あたりまえ。心を開き、良書を読み、共感する。そこに平和への礎があると思える


愛すか愛さないかの差だけですよ
キンピーさんへ
こんな悪い(?)想像をあまり続けようとは思いませんけど、戦場で敵を撃つのはそれが自分に課せられた義務だからです。敵を殺さなければ味方が殺される。それを許すことは味方への裏切りであり、もっといえば自分が兵士として存在することの否定になります。兵士は闘うために戦場にいるのです。敵と仲良しになるためではありません。ですから、たとえ敵兵にいとしい家族があることを知っていようと、義務として彼を殺さねばならない。それが兵士に課せられた唯一の仕事です。もちろん相手の人間性を感じれば引き金を引くことを躊躇するかも知れない。でもそこで迷ったら、兵士としては失格、ですね。断っておきますが、僕はひとりの人間が兵士として有能であらねばならないと主張するのではありません。戦争とはそういうもの、という現実をはっきりさせたいだけです。
 おわかりだと思いますが、本来人を愛することのできる人間が、そのように他者の人間性を無視した行為を続けることで精神にどんな影響を受けるのかについて、とても大きな懸念を持ちます。少なくとも心の奥ではわかっていることを無理にでも見ないことにして、人の命を奪うようなことを延々と続けるのですから。


コウトさん
>ただし、この設定がとてもおもしろいのは、相手が自分自身であるなら当然ながら、そいつが人間であること、単なる鬼畜ではないことを知っているわけ。それでも撃つ。

えーとですね。
戦場で殺戮できるのは相手を人間とは【その瞬間に】考えていないからで。
少なくとも対等だとは思っちゃいない。
だからどのような状況であれ、相手が対等の人間であると認識できる設問をしたのですが。

私の日本語少しヘンでしたが、後から気付いて帰還兵おかしくなるセヨー。
最初からわかてて殺すてシャチョさん少し変態ね。行き着くところは自分の否定になるスミダ。


世界政府はお花畑か?
 戦争をなくす(少なくする)ために、世界規模で連邦化を促
進する、というアイディアは、もう少し評価されるべきと考え
ています。

 何だかんだと言って、50ものstateが、あたかも一つの国家の
ように振舞えるUSというシステムは、もっと研究する価値が
あります。もっともUSも南北戦争をしているわけだから、絶
対の解決案ではありませんが。

 一つの国家として振舞う事を可能にしている共通基盤は何な
のか?
 共通基盤以外の部分は、どの程度異なっていても大丈夫なの
か?

 世界政府がお花畑で終わるか、現実的な解決案になるのか、
ヒントは、日本の平和主義者が毛嫌いする米国にあると考えて
います。

 私の目下の関心事は、nationとstateのunionは可能か? と
いう事です。


実際の話、戦争と平和ってのを考えると頭がおかしくなりそうになりますね。
考え始めると際限が無く、しかも「こんな事を考えたらどうだ?」「こんな意見だってあるんだぜ?」とか、本気で凄い情報の整理と思索が伴ってきます。

案外ね、右翼と左翼が喧嘩するのは、その問答が深刻すぎる(左右双方では容赦なんかほとんど考えられないしw)上に、あまりに問題が根源的過ぎて収拾付かないからかなと、そんな事を考えてしまいます。

最低限の礼節を互いに失わない様に議論しあう・・・と言うのさえ難しい。
お互いに相手の根幹を否定してしまう傾向がありますからね。我々って。
でもまあ、私は偽右翼相手にしてる方が楽かなと思う事も多いですよ。
連中相手なら、どれだけ否定を行っても無罪ですしね。
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-642.html

これが貴方がたの思っておられる右翼の典型じゃないですかね?
こんなのは私としても全否定します。ただの人非人なのでね。


お玉さんすみませんね
連投でなくとも、ちょっとくどいなあと自分で思う・・・
>キンピーどの
話がそれるかもですが、僕はやはり、帰還した兵士は周囲から十分に暖かい待遇を受けることを提案したいのです。これはある意味、自分の主義主張と相反するかもしれない。戦争そのものを非難する立場にあって、なぜ多くの命を無造作に奪った(かもしれない)兵士たちを優遇するのか。でも、あなたの言うように戦場で過酷な経験をしてきた兵士は心を病んでいると考えてまず間違いない。その彼らを、ただの殺人機械として扱うなどというのはそれこそ、良心が許さない。人間を使い捨てにすることがいかに現実世界で当然であっても、それを傍観するのは自分も加害者と同じ場所にいることの証明ではないか。
 まあ、なに綺麗ごと言ってるんだと言われても仕方ないけどね。


なるほど。
そうやって帰還兵は廃人になるわけですね。


自分でも敵だよ
キンピーさん滅茶おもしろいこと言いますね。
僕の思うのは、もし自分が本気で戦争に臨んでいたら、相手が自分であろうと心を無にして敵を倒す。戦争はそういうものだと思う。敵兵の人間らしさなんて考えたら、決して銃など撃てないでしょう。なにがなんでも敵兵を殺す。それが戦争です。
 ただし、この設定がとてもおもしろいのは、相手が自分自身であるなら当然ながら、そいつが人間であること、単なる鬼畜ではないことを知っているわけ。それでも撃つ。なぜなら、これは人と手を結ぶ場ではないから。握手をしようとした手が無残に切り落とされるのがオチであるから。わかるでしょう、戦場は、人間性を忘れる場所です。当たり前ですね。


>キンピー様
多分、この再生能力は「凄まじい程の食糧」を必要とするでしょうし、再生の代償として老化が進行する事でしょう。

しかし、人間では本来的に全く抵抗不能な暴力、例えば重機関銃以上のでないと殺害が不可能になると思います。
これは大きい変化ですよ。

少なくとも、治安が最低限維持されている社会では暴力による犯罪に凄い抵抗力が備わりますから。
そして、弾圧による支配が極困難になると思います。
問題は、市民人民の多くが国を恐れなくなる事で、様々な弊害が生じる事でしょうか?
その他に、強い武器を持った者達が死を恐れなくなると言う事で、人間の社会が違う方向に一変してしまう可能性もありますね。

ちなみに、私なら敵陣に乗り込んだ時に自分自身がそこにいたら戦いますね。
量子論とかを知っていますので、例えば相手が自分のクローンだったとしても、それが自分とちょっと似ただけの他人だと知っていますから。

私の述べた事は頭の体操に思えるかも知れませんが、多分私などが死ぬ前にこの技術は実用化されるでしょうね。
今から考えておいた方が良い事かも知れません。


>三輪耀山さん
死なない体を持つことが戦争からの解放なのでしょうか。
痛いのは痛いのでなんだか精神的に殺されそうですが。

思いっきりぶっ飛んだ話ですが、戦に出かけて敵兵と遭遇したが、相手は自分自身だったらやっぱり殺し合いするんですかね。それとも止めちゃうんですかね。


三輪耀山さん
>孫引きしている”広瀬隆”ではなく、元ネタの森村誠一が告白していますが?


広瀬氏の著書のどこの部分が森村誠一氏の本の孫引きをしているのでしょうか?
具体的箇所をお教えください(^^

もっとも、731部隊については常石敬一氏の著書のことが若干引用されていますが。

でも「腐食の連鎖」と言う本は、薬害問題や原発、軍事産業の中に巣くう閨閥、あるいは人脈などを問題にしているのであって、731部隊の行動そのものを主題にしているわけではありません。



>コウト様
日本が力づくの方法で他国を侵略する方法を否定しているのは、戦後の歴史でわかる筈です。
問題は、まだ簡単な方法を肯定する国が残っている事でしょう。
力だけを崇拝する。今の時点で力をもった国ならば、そう言う歪んだ考えを平気で肯定する人達が多いと言う事です。

http://www.enjoykorea.jp/tbbs/list.php?board_id=pfree
こちらをご覧下さい。例えば韓国程度の準強国と言える国でも軍事力の強さを肯定し、日本が平和憲法の国だからと言う事で侮る意見がどれ程に噴出しているのか?
良くご覧になればよろしいかと。

日本はそう言う意味では良い線行っていると思いますよ。

>ま様
孫引きしている”広瀬隆”ではなく、元ネタの森村誠一が告白していますが?
反論の方法もまた笑えるww

ちなみに、六ヶ所村のプルトニウム工場が、核兵器プラントかも知れない。
と言う事なら、日本政府に蛮勇さえあれば、ダーティボムとして使っても、中国や韓国を全て地獄に叩き込めますね。

まあ、そんな事は戦後の事を考えると、自衛隊自らが止めるでしょうけど。
(妻子持ってる人達ばかりですし、歴史に悪名が実名付きで残るし)

>キンピー様
http://wiredvision.jp/archives/200509/2005093001.html
生半な暴力では破壊できない肉体を人間が備えると言うのも解決策の一つかな?
ヤクザとそのパワーアップ版である軍隊、両方共に人間が暴力に極弱い事を付け目にしていますから。

これがSFの中の出来事と思われるなら仕方ないですが、私はこの方法が一番手っ取り早いと思ってます。
カエルの足を再生するのは、単位面積当たりの神経密度を倍にすれば再生が始まります。
人間も単位面積当たりの神経密度を何倍かにすれば再生を行うと思えます。
神経の太さ、密度を上げるのではなく、異常に神経を興奮させて擬似的な高密度神経状態を実現すると言う方法もありえるでしょう。


>このエントリーは誰も実現したことのないもっと根本の問題を問うているんでしょ。

あ、キンピーさん、うれしいな。
こういう議論してくれる方がお玉ブログらしくてね。

たださあ・みんな(この場合まさんが発端か・)~~・記事違いな話をもって来るのはなるべく控えて欲しいなあ・・それだけで別エントリー必要だと思うから。


三輪耀山さん、このわたさん
>書いた本人が小説だったと告白している「給水部隊」が何かに関係しているんですか?

広瀬隆が小説だったと言ったのですか?知らなかった。

この本を読まれたのかどうか知りませんが、731部隊や原発などに関係する彼らの閨閥について、それが作り事であったということを広瀬隆が言うはずもないと思います。しかしそうであったと言ったのなら、この本の信憑性は根底から崩れると思います。

>もしかして新聞読んでない?

新聞は毎日読んでいますよ(^^ 2紙しか取っていないので博学なあなたは負けるかも知れませんけどね。


>>六ヶ所村のプルトニウム再処理工場が戦前の戦艦大和と同じだと喝破した

>どこがどう同じなのでしょう?意味不明だ…。

後世における戦艦大和の評価と同じという意味で。
詳しくはhttp://www.isep.or.jp/  を参照に。



>集団と集団の争い(戦争?テロ?)は激化しそうだけど。

非対称戦のことでしょうか。

------------------------------
相互依存の拡大が戦争抑止の切り札にはならないと指摘する人も多くいますからね。
南オセチアの紛争で最初に殴りかかったグルジアにしても天然ガス供給をロシアに大きく依存していました。
-------------------------------

>六ヶ所村のプルトニウム再処理工場が戦前の戦艦大和と同じだと喝破した

どこがどう同じなのでしょう?意味不明だ…。


「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか」

「力には力で」は戦争の抑止にはなるけど解放にはならないね。
過去の指導者たちも必死でバランスを保つのに努力してきたけどパワーバランスによって平和が永続したなんて歴史は無いし。
一見現実的そうに見えてもちょいとバランスが崩れれば危なっかしい。

このエントリーは誰も実現したことのないもっと根本の問題を問うているんでしょ。
お花畑であろうが暴言であろうが、もっとラジカルに発言しても良いんじゃないっスかね?


すでに存在しますよ
>国というシステムから軍隊を切り離す試み
既にチベットなどで行われてますよ。
その結果が今現在のアレですが


立派ではありませんので
三輪さんと議論するような知識は持ち合わせない素人ですので、お世辞にも立派などと言っていただかなくとも結構なのですが・・・
力には力で、との言説に対してそれがすべてではないのではと書いたのですけどね。力関係だけですべてが決まるとは思いません。ですから、戦争をしたらうんぬん、とおっしゃられても困ってしまう。すぐにそこに飛躍しないで、戦争にしない付き合い方をしていくことが大事ですよね。そしてそれが、悲惨な出来事を繰り返さないための最善の方法ではないかと思います。


>ま様
>731部隊
書いた本人が小説だったと告白している「給水部隊」が何かに関係しているんですか?

>EU
今もロシアがEUと境界線でしのぎを削っています。
もしかして新聞読んでない?

>カーク様
>自衛隊の出現で、失敗となっている気がします。
自衛隊の出現は、韓国の竹島侵略と、その後の対馬への出兵計画に怖気をふるった米国の要請によります。
つまりは、一国内部で軍隊を持たないと平和を誓っても戦争をなくす事は不可能であり、外国がある限り軍隊は必要だと言う事が再確認されただけです。

>コウト様
>核保有国に対しては核を以てしか外交も貿易もできないってことになるんだろうか。

いいえ、戦争をやったら必ず負けると言う事です。
どんな政府だって、国民全てをローストにしてやると言われたら戦争に勝てない。

と言うか、まさに60年少し前に日本がそう言われたのを忘れてるんですか?
はあ、レイテ云々が聞いて呆れますな。

ははは。ご立派な空説を真顔で言われると、聞いている方が恥ずかしくなりますね。

>Venom様
管理人が迷惑と言ったら迷惑なんだよ。
客の分際で主人に何を文句垂れてるの?
あんた何様?


国が軍隊を管理しない。
過去の日本で実現しましたが、そいつらは勝手に異国の地で戦争を始めちゃいました。
9条を世界に徹底したとしても集団と集団の争いということに関しては無くならないかと。
グローバリゼーションも同じく。

戦争や紛争(要するに必用以上の殺戮)をなくしていくには賢そうなシステム論やイデオロギーなどではなく、青臭いところにも目を向けなければどうしょうもないような気がしています。


敗戦記念日に思う
>村野瀬さんの仰るEUの成功も、私には彼らの哲学の成功だとは思えません。

少なくともEU内部では第二次大戦のような隣同士が武器を持つ戦争は起きないのでは。それだけで見れば大いなる前進と思います。そういう哲学が世界中に広まることを期待したい。

人間のもっとも人間らしい哲学は「先見の明」でしょう。ところが戦前の日本はそれが悲しいほどなかった。敗戦という結果論でみれば天皇制政府の誤りを指摘するのは簡単だけれど、神国日本の教育を叩き込まれた人々が天皇制政府の崩壊という「先見の明」を持つのはとても難しいかったと思います。

だがそれは 現代における足元の出来事でも同じ。記事違いかも知れないが、例えば六ヶ所村のプルトニウム再処理工場が戦前の戦艦大和と同じだと喝破したのは環境エネルギー政策研究所の飯田哲也氏だが、おおいに賛同できる「先見の明」だと思います。

(プルトニウムの恐ろしさは角砂糖6個分で日本人がすべて死ぬほどの毒性もあるが、本当に恐ろしいのはそれが核兵器に簡単に転用できる危険性。広瀬隆氏の著書によると原発関連の閨閥は731部隊―薬害―原発―学者―軍事産業―政治家―裁判官などが腐食のリングのように絡み合い、目に見えない地下水脈のようにつながっていると指摘している。こういう事実を知るだけでも戦争を未然に防ぐきっかけになると思う)


すばり、これでしょう
国というモノが出来たから、
そして、独裁とか民主主義などの国を操れるシステムが生まれたから。そこに軍隊が組み入れられることで戦争が可能となりました。

憲法9条は国というシステムから軍隊を削除しようとする初めての試みですが、それは日米安保とか自衛隊の出現で、失敗となっている気がします。

軍隊を国というシステムから切り離さないと戦争はいつまでも終わらないでしょう。



お玉さん、
>連投もいい加減にしよう・・・

「連投」の定義がよくわかりません。 今まで不思議に思っていたのですが、連投とは、「同じエントリに続けて投稿すること」じゃなかったんですか?

他のエントリ、つまり他の話題に数分間隔で投稿しても、お玉さんがチェックするときは、結局まとめて見ることになるから、連投になるのでしょうか?


お盆ですから
休みにしかこんな連投はできません。でも文字通りの連投にはなっていないのでご勘弁。

 愚樵さんが書かれたことには少し違和感があって、たとえば「力には力で対抗するほか術がありません。だから誰かが力を持ってしまったら、他の者も力を持たざるを得ない。」というくだりなど、ん~と思ってしまいました。それってじゃあ、核保有国に対しては核を以てしか外交も貿易もできないってことになるんだろうか。それは北朝鮮みたいな国のとる態度であって、それが唯一無二の方法とは思えないんですけど。そういう覇権を巡る競争的なありようとは別に、ふつうに生きるための営みっていうのがあるんじゃなかろうか。威張りたい奴にはとりあえず威張らせておいて、こっちは日々の飯を食って笑っていようぜ、みたいなありようは考えられないのかなあ。現実には、そうやって人々は生きているんじゃないですか。立派とは言えないにしても、生きていく術ってのはそれこそいくらでもあるように思うんですね。それら人間の暮らしを、ただ力での統治のみで治められると考えるのが間違いであって、結論だけ言っちゃえば喧嘩が好きな殿様なんかには取り合わなくていい、自前で暮らしていけるような算段さえしっかりしていけば、っていうところじゃないのかと。その意味では、人の生活を脅かすような戦争はやめてくれ、っていうのがふつうの人の気持ちですよね。その意を汲めない国家だの権力だのって、はたして存在価値があるのかどうか。どうなんでしょう。


巧妙な支配と稚拙な戦争
人の心を食い物にする巧妙な支配の網の目が、世界中に張り巡らされていく。
あたかも巨大なピラミッドを構築していくように。

そして、その支配の末端、ピラミッドの裾野にあたる各地では、あまりに稚拙な戦争や、激しい虐殺が繰り広げられている。
あるいは、理由のない無差別の無慈悲な殺人が突発的に起こる。

巧妙な支配と稚拙な戦争・虐殺・殺人は、同じ世界構造の一部なのだ。

はたして何が出来るのか?
わたしたち一人ひとりの個人に。

巧妙な支配構造の上部構造に住むことを目指すのか?
それとも、世界から心を閉ざし、目を背けて、ひとり、自らの心の平安のみを求めるのか?
それとも、こつこつとanaother worldを追求し、構築していく、決してたどり着くことのない営みに心を傾けるのか?


価値観と動機。
 人間が戦争するのは何故か?という問いが出るのは何故か?人間は戦争する存在ではないにもかかわらず、戦争が起こるから問題になるのではないか?人間が戦争する存在であれば、そもそもこの記事の問題提起はナンセンスということになる。人間が戦争するのは何故か?それは人間だからである、という答えになるからであり、結論は人間が人間である限り戦争は無くならないから戦争をなくす努力をしても無駄であり、如何にして戦争を手段として利己主義を貫徹するかという問題が浮上するのである。では、果たして人間は戦争をする存在であるか?この点、人類史を認識する必要性がある。中学の社会科の教科書でも明らかなのであるが、階級・国家、すなわち、文明が誕生する前の人類史には戦争は存在しない。戦争とは政府が起こすものであるから国家が存在しない以上、戦争は存在しないのである。戦争の原因は人類にあるのではなく、国家のあり方にあるのである。フロイトの文化論も国家と戦争の関係を論じているのであれば、あながち、精神論とも言えないであろう。


>ぐろーばりぜーしょん

国家と国家、権力と権力の戦争は抑止できるかもしれないけど、集団と集団の争い(戦争?テロ?)は激化しそうだけど。


>この発想で行くならば、現在批判の多いグローバリゼーションは非常に有効だと言わざるを得ません。

相互依存論でしたっけ。

でも左派ブロガーって平和を唱えながらグローバリズムに反対するんですよね…。経済での相互依存を深めることで戦争を回避しようというのなら割合説得力のある議論が展開されていたりするのに…。


せっかくだし
戦争でさえも過ぎたら忘れる、そういう人間のありさまを勝手に反省してですね、レイテで感じたことをもう少し延長して考えます。
 いきなり戦争をなくしてしまうことは無理なんですね。だったら段階的にやったらどうなのか。レイテ戦の過ちは、まず海軍の情報入手のいい加減さに始まったとされます。そしてそれが明らかになった後でも、軍の立場上間違っていたとは言えなかった。そのまま多くの兵士を無駄に死なせる戦闘へとなだれ込んだのです。
 戦争がすべてそんなものだというつもりはない。ですが、明らかな間違いを認めない権力の体質を認めてはいけない。軍隊を即時なくすことができない以上、その行動に歯止めをかける法律を整備することが必要ではないでしょうか。でなければ、力で押し通せることはすべて、強力な軍隊を持つ国の思うがままです。現在のアメリカやロシアがとる行為は、そういった現実に沿ったものだと思います。グルジアとの戦闘に関しては、ロシアが周辺の国々に反発を買っているとありました。しかし具体的に大きな不利益がなければ、彼ら強国は自らの行動を正当化するだけです。愚樵さんが書かれたことを引用するなら、制限なき力の行使が他から拒絶されうるような国家間の取り決めをつくっていくべきだと思います。価値観が多様だということは、すなわち一国の傲慢なふるまいが多くの批判にさらされるということになるはずなのです。それを阻んでいるのは強国の力による価値観の押し付けであり、言ってみれば世界を単純化したがる愚か者を野放しにしていることが問題ではないのでしょうか?
 話がいろいろになってしまっていますが、レイテの悲劇を忘れないためにも、間違った命令(または政治)で多くの人間を犠牲にすることを絶対に許さない世界を目指して、僕らは努力しなければいけません。


Venomさん
連投もいい加減にしよう・・・
悪気がないとはとても思えません・・それなのに、お玉の良心に触れるような文章(お玉に甘えるような文章といいましょうか)を取り混ぜたものも含め、7つも連投してきても。。それは他のコメンターにとって明らかなじゃまだ。みんな嫌がってコメント出来なくなります。

それとも、あなたが普段出入りしている右翼系ブログでは、いつもこういうコトをしているのでしょうか?(そうはみえなかったけど?)



ひとまず感想
えーっと。
戦争をなくすことはできるかどうかはちょっと大きすぎる話なのでおいといて。

レイテのを見た感想から行ってもいいでしょうか。まずひとつ、旧日本軍兵士たちが体験した地獄、生き残った方も戦後レイテの話はしたことがないというほどのもの、そういうことが起こったということを私たちはほとんど重要視していないと思うのですね。戦争は悲惨だ、二度としてはいけない、という言い方は簡単に使われるし、それが戦後日本の常識に近いものだったと思います。でも、はっきり言ってしまえば、その体験は私たち自身のものではない。同じ日本人であってもそれは他人の経験でしかないのです。だから、その地獄を実感として感じることは僕らのほとんどはできないし、ゆえに戦争への恐怖もたかが知れたものになる。
 ごく簡単な結論だけ言うと、自分の経験しないものを血肉化することはできない。借り物の知恵でしかない。だから、いくら人類が悲惨な経験を繰り返そうとそれらは決してなくなることがない。
 さらに過ぎたことを言うと、人間は、本当に他人の立場に立てるだろうか、という根本的な疑問を持って挑まなければ先には進めないと思います。


出先から
フロイトの描いた「お花畑」は、私も不可能ではないかと思います。理由は三輪さんと同じ。そのやり方では「闘争心そのものに対する敵意」と言う倒錯にはまり込んでいくようにしか思えないからです。

村野瀬さんの仰るEUの成功も、私には彼らの哲学の成功だとは思えません。彼らが成功したのは、アメリカやアジアといった、彼らにとっての「外部」が存在したことが大きいでしょう。「外部」の存在が彼らを団結せしめた。そのほうが有利だという現実的な判断があったからと捉えた方が良いように思います。

力には力で対抗するほか術がありません。だから誰かが力を持ってしまったら、他の者も力を持たざるを得ない。もしくは誰かが絶対的に力を独占するほかない。世界政府という発想は、こうした思考の延長線上です。

この発想で行くならば、現在批判の多いグローバリゼーションは非常に有効だと言わざるを得ません。現在の人類の多様すぎる様々な価値観の統一できなければ、絶対的な力を独占することなど不可能でしょうから。価値観が異なれば必ず「外部」を生みます。「人の集団」は「外部」が力を独占することを絶対に許さない。してみれば、戦争を根絶するためには、経済的格差の存在という多少の短所には目をつむろうかということにもなってしまいます。

では、価値観の多様性を維持しつつ、何者かが力を持とうとすることを阻む方法はないのか? もしそうした方法が有るとすれば、その方法は力を所有することが不利になるような統治の方法でしょう。夢の世界政府は、その方法によって運営されなければなりません。が、果たしてそんな方法は存在するのか? そういった方法を編み出せないのなら、平和主義者は、三輪さんの言うとおり愚か者ということになってしまいますね。


ぶっちゃけ・・・地球人というくくりでまとめようと思ったら地球外に敵を作る

これぐらいしかないと思いますけどね。

それでも内部闘争は発生するでしょうけどね。


「人」はあまり殺戮しません。
つーかほとんど利他的ですが、「人の集団」になると必用以上に殺戮しますね。
なぜ集団になると利他的でなくなるのか?ですが、それは他の集団を自分たちの集団と同等な「他」と認識できない事態になるケースがあるからだと。
たとえば自分たちの集団の方が優れているとか正義だとか。
そうなれば自分たち以外の「他」は人間ですらなくなる。
そんな事態になっても一人ひとりの「人」はあい変わらす隣人や家族への愛に満ち溢れているんですよね。
だから必用以上に殺戮したりもするのですが。


無理ですね。日本の戦後を見れば良いでしょう。
日教組は文化的に日本の子供の闘争心を奪おうとしました。
結果はイジメの蔓延です。闘争心を昇華させるんじゃなくて、闘争心を否定した。

「闘争心そのものに対する敵意」と言う倒錯に嵌りこんで、闘争心あるいは闘争に対して戦争を仕掛けたと。
結果は、今までは普通の決戦戦争だったのが、ゲリラ戦争になったと。

愚か極まりますね。

その他に、例えば北朝鮮を見ていればわかりますが、外交的手段を使っても絶対に降伏しませんよね?
それが戦争になればどうでしょうか?

北朝鮮単体なら数日で軍事力を無力化できますし、指導者を捕獲する事もできるでしょう?イラクのフセインの様にね。
後先さえ考えなければ、戦争は凄く簡単にいろんな事を解決してしまえます。
だから戦争はやめられないんでしょう。

最後に、私は平和主義者の理想の一形態である夢の世界政府とやらができたら、そんな代物は恒常的に内紛問題で揉めると思います。
利害の調整を徹底的に行う権限と、分配を完全に行える行勢力が無い限り、どこかに不平不満が出てくるからです。

また、公平な事に不満を抱く向きも出て来るでしょうから、様相は更に地獄の様相を呈するでしょう。
私は戦争や緊張があったとしても、現在の世界のあり方は、良い線行ってる方かなと思ってます。


「ミンメイアタック」ですね、わかります。
なにせ、歌を歌って戦争終わらせ、その後は敵対していた戦闘種族と共存共栄してますから(笑)

まあ、「3J」が世界を救うとまでは言いませんが、「戦争」と「宗教の縛り」と「過剰な規制」が無いと楽しいですよとは言えるかな?


「お花畑」は可能。その意志があれば。
>みんな(各国)がそれぞれ自分の持つ権力や権威を主張することなく、それらの主権を中央集権的な機関に譲り渡さなければ、永遠の平和は訪れない

それはヨーロッパ(EU)でやろうとしていることに近いのではないでしょうか。各国の主権を「欧州連合」という人工的な「超国家」にゆだね、各国の政策の自由度を少なくして安全保障や財政政策を統一する...。それによてかつて血みどろの戦争や蛮行があった国どうし、たとえばドイツとフランスの間ではもう戦争は無い...。1950年代からの息の長い哲学の実現ですよね。アジアでも同じような哲学を実現しようという根気はないものでしょうか。



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