寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか
2008-09-15(Mon)
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」
お玉が忙しいこの時期にこのフレーズで検索してここに辿り着いた、そこの「あなた」・・・
あなたは偉い!!みごとお玉の琴線に触れた・・
覚え書き代わりにここに書いておきましょう・・
読んだ人いたら感想もどうぞ。
平和よりも戦争の方が簡単・・・・・・
コメント欄に対し不寛容なときもある、身勝手なお玉からのお薦めの一冊
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コメント
話が抽象的すぎたので、具体的すぎて語弊はありましょうが、ややこしいところは一切とっぱらって簡潔にいってみます。
建前、法を犯さなければ何をしてもお咎め無しの「寛容」なこの国で、近年横行する不寛容な出来事に憤っている人、辟易している人、諦めている人。そんな多くの人たちに現状をいっしょになんとかしようと呼びかけるのは寛容な心がないとあきまへんなということであります。もちろんそれだけじゃないですけど。まず心構えとして。
でも、世に不寛容なできごとがあるのは不寛容を強制する人たちがいるわけで、そうした人たちに確信を持って組する人たちの存在をみとめたうえで、躊躇なく思いっきり不寛容には不寛容でなければ寛容は貫徹できない。なぜならこの世は抑圧するものと抑圧されるものとに非妥協に分裂し不寛容は寛容を呑み込んでしまうほど世にあふれているから。
これは非寛容をもって大衆運動を抑圧してきた私自身の懺悔の言葉であります。
これまた愛がたりないかな? 新お玉基準はちょっと難しい。これでおわります。m(_ _)m
いわゆる主義者的な広範で“強固な”団結が可能なのかは置いといて、薩摩長州さんが紹介されたような「寛容」についつい警戒してしまいます。
不勉強なもので上手くいえませんが「その寛容さは、ただ現状を黙認するだけじゃない?」ということです。
寛容や非暴力という言葉は心地良いですし、手段として有効な場合があることは分かりますが、やはり素直に頷けません。
ガンジーに言わせれば、ただ「寛容であれ」と言うのは無意味ということですし、制裁の力を携えた“手段として使える寛容”は不寛容な側面をどうしても含みます。
寛容の歴史的成果の表面をみて、ただただ寛容であれば良いのだと考えてしまうと、手痛いしっぺ返しがきそうで怖いですし、キリスト教の不寛容さに滅ぼされたローマの寛容(制裁の力を失っていた)にも「ある時期から無意味になった」と言えるのではないでしょうか。
寛容の話がいつの間にか暴力の話になっているような気がします・・。
寛容か非寛容かは「本来どうあるべきか」の話であり、暴力的な支配の話は「結果としてどうなったか」のことで、全然違うように思うのですが。
ともあれ確かに天安門事件が学生騒乱として日本で言えば安保運動のような扱いになっているのは知っています。しかしそれは「寛容さの敗北」でしょうか?
それは単に彼ら学生たちの要求が社会の要求とリンクしていなかったことを示しているだけで、別に寛容さが敗北したわけでもなければ民主主義が否定されたわけでもないと思うのですが・・・。
(確かに日本の安保運動は市民活動そのものを「うさんくさいもの」にするという意味で、日本社会を民主化の方向から遠ざけたとは思います。そういう意味ではあの天安門事件も中国社会から民主化運動の萌芽を摘み取ったと言えるのかもしれません)
どちらにしても、私は個人としてあのデモをテレビで見たときの興奮を否定することはできません。実際のところがどうであれ、あれは確かに意味のあることだったと、今でも思うのです。
キンピーさまへ
力持ち=強力な知力持ちってことで・・・ なにをいまさらではありますが。
幻想的共同性という「寛容」(括弧付)を打ち破り、いちじくの葉をひきはがし、支配なき共同体を実現すことができるのは寛容であります。多様な人間性をうけとめて強く結ぶことができるのは寛容な精神であります。広範にして強固な団結が、暴力として極限にまで高められたとき、階級的分裂とそれにともなう暴力は共同体の中に統一的に揚棄されるでしょう。直接的暴力だけではイチジクの葉を引きはがすことは出来ないのです。
十文字(衆愚代表) さまへ
>征服した国や地域の神々をすべて認め、奴隷化してもローマ市民権への道を開き、有力者は元老院に招いた。・・・・・
私は、これを「寛容」をもって不寛容を隠蔽する、不寛容な関係=幻想的共同性と考えます。奴隷の放し飼いといってもいいでしょう。 愛の足りない言葉で失礼とはおもいますがm(_ _)m
寛容について、このような視点もあります。
面白いですね。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20061215bk01.htm
(一部抜粋)
平和の極意「勝者の寛容」
1992年以来、1年1冊ずつ15巻。塩野七生(しおのななみ)さん(69)の歴史巨編『ローマ人の物語』(新潮社)が、ついに完結した。単行本・文庫の累計部数は774万部。非キリスト教徒によるローマ帝国の歴史は、「9・11」以降の世界へ多くの示唆を含む。この時代に思い出すべき寛容の精神とは――。イタリアから一時帰国中の作者に聞いた。(尾崎真理子)
「なぜ、ローマ人だけが」
初めにこの問いがあったという。ギリシャ人の知力に学び、紀元前2世紀に地中海の覇者となり、長いパクス・ロマーナを実現し得たのは、ローマ人の何が秀でていたからなのか。
「人間の生活にとって最も重要なことは安全保障(セクリタス)。戦乱の苦しみほど不幸なものはないという真実を、彼らはよく知っていました」
その統治は、独自の寛容さによって貫かれていた。征服した国や地域の神々をすべて認め、奴隷化してもローマ市民権への道を開き、有力者は元老院に招いた。「ローマ化こそ、最強の安全保障であるという信念がありました。軍事力で制圧すると、いずれ反乱が起こり、税負担が増える。この悪循環を見通していたようにね。ただしローマ人は、勝って、譲った。勝者の寛容なんです」
薩摩長州さん
どもです。
左翼的に言えばそうなるのですが、たとえ表面的なものでも寛容であることが好ましい結果をもたらす場合があるのも確かで、ルーサー・キングは、やはり間違いなく犠牲者のわりに大きな成果を得たと思います。
国家がこれだけ力を持つと左翼チックな直接暴力であったのならどうだったか。
PS:ち、力持ち?ふぁっつ?最近釣り竿より重いものは持ってませんがw
naokoさん
ええ、あがいでいます。
あがいたついでに、こんなことを思っています。
現在の被抑圧者と抑圧者の直接的暴力の力関係や、後々の遺恨を残さないという意味では、不寛容より寛容をまとった方が良いのかなと。
そして被抑圧者(被治者改め)は常に制裁の力を準備し、不服従を養わねばいけないのかなと。
KYさん
メディアを制裁力としたあの戦いは、抑圧者の異常な行動の前に得るものもなく事実上崩壊しました。
次に同様の戦いがあったとしても、天安門事件とは何の脈絡もありません。
寛容と不寛容は同じである。
寛容になるべきものは寛容に、不寛容であるべきものには不寛容に。いずれか一方が不徹底であれば、もう一方も不徹底となる。
細かい定義は記事違いとなるので省くが、正義や真理に反する態度、思考、感情に対する「寛容」は寛容とは言わない。感情的な好き嫌いで物事を判断する思考や態度、感情を「不寛容」とは言わない。人はそれを「安易な妥協」「不見識」「良識がない」と呼ぶ。最悪な場合、「降伏」「服従」という場合もある。
真に寛容になるためには、感情を理性に合致するように努力すること。真理を追究するように自己研鑽をすること。
これを理解しようともしない人が多い状態が、日本が今、社会も経済もこんな状況にしていることに、われわれは早く気づかなければならない。
>kyさん
では連合赤軍の戦いは記憶に残ってるから
「まるっきり敗北したなどということはありえない」のでしょうか
ちっと俗物的な発言になりますが現時点で彼らは
死に、彼らの活動は「ただの反社会的運動」(天安門の学生達の事ですよ)とされています。
既に中国国内の一般市民の記憶からは掠れてきているようです。
悲しい事ですが自由と権利を認めない中国共産党の政策の前に
彼らは敗北したと言っていいのではないでしょうか
>天安門事件の学生達の寛容は丸っきり敗北した
彼らの行動があなたやわたしの記憶に残っている限り、彼らが「まるっきり敗北した」などということはあり得ないはずです。
そもそも「寛容」は平和や倫理と同じで、一時的に「失われる」ことはあっても「敗北する」ことなどないのではないでしょうか?
>寛容になるだけでは、その成果は無条件には成立しない
ですから、これは‘あがき’なのかと…。
キリストその人の死をもってあがなわねばならないほど、人は救いがたいのですから。
自由を侵害する自由、”自由のアポリア”と同質の命題ですね。
「極左」的には、社会の階級的分裂とその非和解なるあり方が、不寛容を規定している。同時に、階級支配へのイチジクの葉である幻想的共同性に寛容は根をもつ。
寛容は不寛容に対してより徹底して不寛容であることをもってより寛容となる。
それは、毒をもって毒を制する、暴力は暴力をもってしかそれを揚棄できないことにも似て。
寛容な奴隷は、不寛容な主人のもとであれ、寛容な主人のもとであれ、不寛容な関係にはかわりはない。
PS.キンピーさんって力持ちだね(^^)/
「よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いと思わねばなるまい。」
渡辺一夫氏は、寛容さを示した学生たちを圧倒的非寛容で虐殺した天安門事件にも、秘密裏に殲滅を目論んだポルポトの浄化にも同じことが言えただろうか。
ポルポトの浄化はともかくとして、天安門事件の学生達の寛容は丸っきり敗北した。
渡辺氏の願いとは裏腹に、おそらく歴史は彼らの死などお構い無しに進んで行くだろう。
これって寛容になるだけでは、その成果は無条件に成立しないということではないのですか?
昨日は休館日だったので・・・ 残念^^;
ちえんさん
>さみしさを知るからこそ、相手のことを大切に思える精神を作ることができるのだなと。
自分の弱さを認めたときに、人の弱さも受け入れられるのかも知れないですね。
絶版、なんですよね(汗)。
ただし、たいていの図書館には入っていると思います。
それから岩波なので、本屋さんからの返本がききませんから、在庫で持っている書店もあるかもしれません。
それにしても、いい本がどんどん絶版になる…。
著者は、「不寛容に対して不寛容にならず、寛容であることの困難さ」を、戦前から戦後にかけて、マルクス主義とナショナリズムの対立が生み出す憎悪・相互不信・闘争を見つめつつ、ルネッサンス期のフランスにおけるユグノーとカトリックの闘争期のユマニストのあがきに共感しながら、記しております。
とても‘人間的’な本です。
同僚が奥さんが海外へ帰るのでさみしいと言っていた。
ふとさみしいという言葉はとても大切で精神を安定させるために使われる言葉だと思った。
さみしさを知るからこそ、相手のことを大切に思える精神を作ることができるのだなと。
間違いがいかに大きかろうと許す。
それが寛容。それ以外にはないのではないかと思う。
間違いを繰り返せば罰するし、二度としないことを誓わせることが大切だ。
反省をして9条を実践したから、日本は許されている。
何千万人も殺しているのに、許されている。そして、たくさんの人が幸せに生きている。
間違いを反省したら許す。それが寛容。個人の幸せとは別の次元になることもたくさんあろう。
寛容になろうとするのではなくて、寛容は一番合理的な考え方と考えるべきであろう。お玉さんの好きな伊勢崎さんの考えもここにあろう。
寛容は、落ち着いた精神を持ったときに初めてもてるのかもしれない。
「聖書は異端者を殺すことを勧めているだろうか。答えは否である。
キリストは異端者を訓戒せよ、避けよと言っているにすぎない。
そもそも異端とは何だろうか。本当のキリスト教とはどれだろうか。
カトリック教会・ルター・ツヴィングリ・カルヴァン・再洗礼派。
彼らはそれぞれが自分の教理が正しいと言い張っている。
だが、聖書の章句は、全てがそれほど明瞭だろうか。そうではない。
今日に至るまで、諸君 (旧教派) が福音派の人々にどのような仕打ちをしてきたか想い起こしていただきたい。諸君は彼らを追及し、獄に投じ、地下牢に幽閉し、しらみ責め・のみ責めにかけ、泥沼の底・忌わしい闇・死の淵に彼らをつなぎ、ついには苦しみを長引かせようと計って、彼らを生きながらとろ火にかけて焚殺した。
いったい彼らにどんな罪があったと言うのだろうか。彼らは教皇やミサ・煉獄を信じようとせず、聖書に書かれていること以外は信じようとしないだけではないか。
今、諸君の上に降りかかっている不幸は、他人の良心を圧迫した報いであるにすぎない。自分がそのような不幸から逃れたいならば、人を迫害することをやめよ。
諸君 (新教派) は、以前にはいかような迫害にも耐え忍び逃亡する以外には、どのような反抗もしなかった。だのに、今はどうだろうか。
旧教派の連中と同じように武器をとり、自分たちの信仰だけが正しいとして他人の良心に圧迫を加えようとしている。
それでは諸君が非難する旧教派と、なんの違いがあるというのだろうか。」
それは分る。
が、しかし迫害されている者にまで「暴力に寛容になるべし」と言ってしまうと、結局のところ迫害への加担。
すなわち、もっとも犯罪的な言葉になってしまうのではなかろうか。
さすが!感服します。
すでに命題に応えているじゃないですか。
自分としては、その「寛容」を胸に秘めて日々を自分なりに生きていくだけです。その先にあるものに期待を込めて。
タイトルの意味は、正確に書かねばなりませんね。
“とうてい許すことができない他人の行為を無理して許す”
の意ではなくて、
“他人の行為を許すことができない自分を許す”
ということ。寛容とは、まず、自分自身に対する姿勢のことでしょう。
他人の行為を許せない私を認めれば、それは争いを認めることに繋がります。争いを認めて寛容といえるか? とりあえずはYesといっていいんじゃないですか。
争わなきゃならんときは争えばいい。争う自分を認めればいい。自分を認めれば他人を認めることができないという事態は当然起こりうる。自分と他人は違うというのは、この世界の大前提なんだから。そして、この大前提を認めることが寛容の基本でもある。
寛容の精神とは、みんなが異なるのだという基本に立ちながらも、その異なるものを自分のなかに抱擁していこうとする、自分自身への姿勢のこと。だから当然矛盾を孕んでいる。その矛盾に絶望しない粘り強さが寛容。とりあえず争うことは認めても、争わないで済む方策を探ることを諦めないのが寛容。
許さないと決めて立ち止まってしまうのも、許すと決めてしまって自分を放棄してしまうのも、どちらも不寛容です。
>naokoさん
そうですね、一度読んでみるべきだと思っています。でもこれ絶版だそうで・・・ 汗
言葉遊びの危険性を思うのは、やはりこの問題は頭の中だけではなく、実際の生活の中で試行錯誤すべきことであると感じる故です。思想として紡ぐのが生業であればそれはそれ、しかし生活者である僕たちは論ずるだけではダメなのです。戦争は間違っているか否かを論ずるだけで、実際に戦争を黙認しているとしたらその人は果たして何のために論じているのでしょうか。頭の体操だけでは世界は変わらない。そう思うのです。
>ちえんさん
愛は寛容である、という言葉を思い出しました。新約聖書、コリントの信徒への手紙にありました。ですが、現実世界における平和構築を考える上で、このような宗教的なアプローチは普遍性を持てない、つまり誰にでも使える方法ではない、と感じています。
ところで、”不”寛容ではなくて”非”寛容が正しいんでしょうか?
渡辺一夫さんの思索は、断じて言葉遊びではない。
できれば、氏の専門である「フランスルネッサンスの人々」などもじっくり読んで欲しい。
ぱらぱらっとページをめくっただけでも、氏のユマニストとしての真摯な姿勢に打たれることは間違いない。
ここにあるのは「知識」ではない。氏の生き様であり、世界と向き合う中で氏が紡いできた言葉があるだけだ。
その姿勢に勇気を与えられたのは、弟子筋に当たる大江健三郎氏や高杉一郎氏だけではないと思う。
ちゃんと自分の価値をもたなきゃ、お話にならないことだから。
もし、自分が価値をみにつけた場合という前提で・・・
きっと私は仲間のために喜んで死を選ぶだろう。
もう年だし、長生きしていてもなんだしね。
だから、寛容になれないことはなくなるだろう。たとへ、ナチスだろうとなんだろうと。反省してもうしないと改心するなら許すだろう。たとへ自分が殺されたとしても。
ただ、なんども繰り返しやられたら、許さないだろう。自分が死んでいたら、きっとまわりが怒るだろうし、改心したとしても、許さない人が必ず仇をうつだろう。仇をうつ人にも寛容にならなければならないだろうし。
自分はきっと死んでいるので、寛容になりたくても、存在していないだろう。それを寛容というなら、そういうものかもしれない。
自らのみを考えた時、寛容は手に届かない夢だと思う。身をすてたとき、そのまわりの人たちが私の価値を思い返してもったいなかったと思うとき、寛容の意味が生まれるのだろう。
だから、寛容は自分の価値を生み、仲間のために死を喜んで選ぶときにしか生まれないだろう。
もう少し思考を進めます。
国家間の戦争、9.11、白バラ、プラハの春、インド独立、戦前の日本の弾圧、天安門事件、米騒動や秩父事件、地下鉄サリン事件をそれぞれ非治者の立場から見た場合、寛容になれるものとなれないものがあります。
逆にそれぞれに非寛容であるべきか?と問われれば…NOだろうと。
ますます分らない。
寛容という態度は、個人の意思に左右されますよね。恋人の浮気心をここまでは許す、それ以上は絶対許さん!!みたいな。^^;
簡単にいうと、程度問題でもあるように思います。ナチスドイツや狂信集団が示すような不寛容に対して、それもよいだろう、というのはありえません。それを認めてしまえば自分も同じ不寛容に同化してしまうからです。もしくは、寛容な態度を偽装した自己保身か。
程度といったのは、彼らも同じ人間であって、もしかしたら違う態度に変化するかも知れない、ということを考えるゆえに、他に害を及ぼさない限りは存在を許す、というような許容範囲のことです。何が何でも受け入れる、ような神のごとき寛容は人間には無理ですから。
こんな言葉遊びにこだわっているよりは、実際に不寛容な面を多々内包する人間という生き物を、いかに認め、つき合うのがよいのか、その実際的な方法を身をもって探究すべし。
ん~、ん~、ん~、
言葉のやりとりで考えると相手の存在を認めつつ、思考に対して批判するというのは有効だと思います。
しかし命のやりとりで、手段として考えるならば、成功する時にしか使っちゃいけないかと。
「いつか寛容が非寛容を飲み込む時が来る」として失敗を黙認するのには賛成できません。
ん~、一貫してない。
しかしこの違いの部分が重要なんだろうと思います。