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あなたは愛する人のために死ねますか

ふと本屋さんで見かけた題名

「愛のために死ねますか」

その本の作者は曽野綾子だった・・・

ぱらぱらとめくってみるとカトリック信者である彼女と宗教者の対談形式のようで、生きることの意味とか聖書に書かれたコトから人間の美徳をどう学ぶか・・といった内容かな?と感じました。

そもそも題名がお玉にはどうしようもなくダメで・・・・

お玉は愛のために死ねないかも知れないけれど、愛する人のために人を殺せるかも知れない・・・・・自分が何かのきっかけで、罪を犯すかも知れないと思うから、だからいかなる理由であれ、死刑制度には反対だという持論を何度か記事にしています。

愛のために死ねるか?という問いはとても美しいです。そして怖い言葉だとお玉は感じる。戦争に殉じた兵士の方々や自爆テロで死んでいく人々は愛する人のために、そして愛する人のいる国のために死ぬ覚悟をしたのだろうと感じていて、そう思わねば戦場へ駆り立てられる意味を持てないだろうと感じるから・・

みんなが難しいコトをわかっているわけではないから、プロパガンダは簡単な言葉の方が人の胸に響くから・・・・

あなたは愛のため(愛する人のために)に死ねますか?

その死は本当は何のための死ですか?

キリストは愛する人々のために死んだけれど、「あなたは愛のために死ねるのか」などを問うているのではないとお玉は思う。

いえ、それを問うていたとしても、その美しい言葉が時として戦争の道具のように使われていたとは夢にも思わないだろう。

愛する人のために人を殺すかも知れないなどと思っているお玉は、クリスチャンにはなれない。でも愛のために死ねるか?などと問う信者さんが、別の場所で戦争をことさら「美化」するような文章を書かれていることが、お玉にはたまらなく嫌・・・

言い訳のように・・この本じたいは良いことを書いてあると思うのよ。広く人を愛する心の大切さとか、キリスト教的自己犠牲の意味を深めているのかも知れない・・でも、お玉には違和感がぬぐえない・・・・どうしても・

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Secret
(非公開コメント受付中)

ハリケーンジョー様
>私の場合、理論的にとかアカデミックに考えることができない程度の頭でしかないので、自分のレベルに合わせて冠あえただけなんですよ。

私は、ハリケーンジョーさんは「本当の『愛する人のために死ねますか?』という命題の答え」を、ご自分の中に持っていらっしゃると思います。
それを言葉として表わすことができないんだろう、ということです。

しかし、それでもいいと思います。
人間の感情や行動を、理論的に述べることはできる人もいると思いますし、突き詰めればそうなんでしょう。
たとえ行動原理が理論的に説明できるものだとしても、それを意識して毎日を暮らしている人は、むしろ少数だと思いますし、私も意識はできていないと思います。
なので、「答え」を言葉で表すことができないのは、むしろ普通だと考えても間違いではないかなと。

この命題がもたらしてくれたものは、普段何気なく暮らしている私たちに「ん?言われてみれば、そうだなぁ、どうなんだろうなぁ。」と、立ち止まって考えさせてくれる『きっかけ』だと思うわけです。曽野綾子さんがどうであれ、何も曽野さんが求める「答え」を出す義務はないわけですし、表だって答える必要もない。
自分自身に問い直して、改めて自分が「愛する人」を意識的に思ったり、あるいは、足りなかったところを補ったり、といった、『自分のため』に使えばいいと思います。


現実逃避のための「戦争待望論」
コウトさん、こんばんは。

 自分は「論」よりも「感想」がすきなので(苦笑)。

 自分たちの世代では一般的に

戦争=命を捨てる
 と言う思考回路になっていないんです。戦争待望論は一種の自傷行為かもしれません。
 少し生々しい事を書きますが、手首切ったり(リストカット)、大量服薬(オーバードーズ)と同じかなと。

多分
戦争=現状を変えたい
 かなと思います。決して滅私奉公などではない。

正確には。。。
「戦争で現状を変えてもらいたい」
と言う欲求だと思います。
 一種の現実逃避でしょう。その混乱に乗じて、自分の役割や居場所を見つけたい。あたりでしょう。。。

 本来自分の役割や居場所は自分で見つけるものですが、それが出来ない。
 多分正確には「どう見つけていいのか分からない」だと思います。
 この部分を何とかしないと、戦争待望論を抑えるのには厳しい。

 「役割」は、コウトさんの仰るように、各自が内面で「役割を得ているか」と思えるかどうかだと思います。これが出来れば、戦争待望論も抑えられる。

 後は戦争待望論が起こる背景は、自分たちの世代で、危険を予測する力が不足している部分です。
 戦争すれば、人・モノ・カネを大量に失います。赤紙一枚で兵士に取られ、税金以外に、任意での国債も割り当てでガンガン来ます(戦時国債)。

 最近祖父が亡くなって、色々整理していたら戦時国債が出てきました。曾祖父が戦時中は金策など色々大変だったなと。感じました。

 その戦争を推進すると結果どうなるのか?
 想像できないのかも知れません。戦争が起きる過程とその結果を、学校教育で教えない事も原因だと思います。ただ戦争はダメだ!しか教えない。
 
 人間誰しも、精神的に弱っているときは「美しい言葉」にコロッと騙されやすいです。

 多分コウトさんの世代からみれば、どうして?とお思いになるのではと。。。
 ぶっちゃけ、おかしいんですけどね。

 これを保守の中でも、アンポンタンな連中(安倍ちゃんとそのお友達)と財界や役人が自分たちに都合よく利用しようとするから非常にまずい。

 戦争などやっても、人は死ぬは、赤紙一枚で兵士に取られるわ、戦時国債を押し売りされるわで。。。ろくな事ないでしょう。
 兵器を売っている会社だけがぼろ儲けでしょう。
 
と何だか、まとまらない話になってしまいました。すいません。


戦場へ行きたがる人はそういないはずですが
くろねこさん
役割、についての文章は、少し論理的に飛躍があるように思います。まず、若者が自分の役割、またはもう少し広く考えて生きがいを求めるとき、必ずしも滅私奉公に行き着くわけではありません。いろんな方向性があるし、たとえば好きな趣味に没頭する、遊びでストレスを発散するなど、その人なりになにか楽しめる対象を見出せればそれでいいわけです。もちろんそれだけでは生きがいにまでは到達しませんが、とりあえず社会にとって不利な選択をすることは免れます。
 僕はあまり若者の右傾化に関して過大に考えたくない、のが本音で、なぜならばその根本的な問題はやはり、生きていく充実感がなくなっていることにあると考えるからです。日々意欲をもって生きられる環境があれば、国家なんてものにそう安易に流されている暇はない。くろねこさんの言う役割という概念も、それが中身を持たない形だけのものであれば外部にその充足を求めます。こどもに支えてもらわねばならない親、持ち上げられねば満足できない社長、そういった存在は、実は内面が磨かれていないことから発生しています。
 つまらないことをくどくど書いていますが、我々がいかにして暮らしの充実度を高めていけるかは、本当ならば政治に先立って考え、行動しながら学んでいくものであって、政治におんぶして悪いのはすべて他人だという態度を取り続けることは避けるべきなのです。それは結果的に民主主義社会の理想を損なうことにもなります。
 命を捨てにいくことでしか充実感を得られない若者がいるとしたら、それは我々の生き方がどこか間違っている、偏っているからではないかと疑うことも必要だと思っています。


コウトさんへ
コウトさん、こんばんは。

>自分はみなのために命さえ顧みず行動できる、そこに何もやましいことはない、そう考える人の心に、本当に他の人々への愛情があるのだろうか、それを問うのがくろねこさんの言葉であり、また本来ならば「愛する人のために死ねますか」が提示していることではないでしょうか。単に名誉だとか気位のために命を賭けるのか、それとも他者を思いやるためにやむなくそうするのか。そのへんが、似て非なる行動の分かれ道なのかと考えます。

まさに、その通りだと思います。
 人間は「役割」を求める生き物。自分の「役割」がないと自分自身が感じると、不安定になります。

 そうなると。。。戦争待望論になってしまう。見かけ上兵士になって役割を得る事が出来るからです。
 しかし、いざ戦争になれば「殺し合い」です。結果としてとんでもない代償を払います。

 それを煽る「安倍ちゃんと愉快なお友達」が一番の悪徳連中です(苦笑)。

>人を、教えを本当に尊重しているのか、それとも自分の都合のために利用しているだけなのか。「尊重」って簡単に言っても難しいことですよね。試行錯誤しかないと思います。

 正直難しいです。常に己を振り返って、自問自答しなくては。。。


 後はスレ違いですが。。。コウトさんのコメント読んでふと思ったことです。

>>消極的死刑賛成派の自分から死刑反対派の人へ

もし死刑を廃止に導きたいのならば。。。

 自分に都合の悪いものでも「排除」しないこと。

 そして「責任を取る」と言う事と、向き合って欲しいなと思います。
究極の責任を取る事=死 という現在の考え方をどう変化させる事が出来るか?

 これを一般有権者が納得できる形を提示できれば1歩前進だと思います。

 もちろん現在の護憲リベラル連中の「死刑廃止」派の「態度」では、問題外です。説得力は全くありません。

 お玉さんは希少価値ですが。。。

 左翼や護憲連中ほど、都合が悪いものは排除する傾向が強い。
これでは問題外。

 「死刑」って、「都合が悪いものを排除する」究極の形だと自分は思います。

 国民新党の亀井さんのように保守系でも死刑廃止を言っていれば説得力はありますが。。。



十文字さんは正しい
十文字さんは正しい。が、括弧付きの愚衆代表ってのはどうですかね? 

>丸山真男教授に対してはご関心をもたれた方がよいと、僭越ながら申し上げます。

啓蒙家でいらっしゃるようで。

ちなみに『日本の思想』は持ってます。ブックオフで買いました。全部読んでませんけど。

>このような百鬼夜行化を、あの丸山真男教授は「理論ないし思想の物神化」と指摘したのではないでしょうか?

つまり、「言葉の一人歩き」現象は存在すると丸山教授も仰ったわけですね。じゃあ、私も正しいわけだ。

>「キュウジョウ」という妖怪が百鬼夜行をすることは歓迎するというのが、愚樵さんのスタンスなのですね。

はい。妖怪でも何でも構いません。戦争はしたくない、させたくない。ただそれだけ。この背景に深遠な思想背景が必要とは思いません。愚昧な人間の素朴な気持ちだけでよいと思ってます。

また「関係ない」といったのは、誰の言葉であろうが関係ないという話です。9条でいえば、アメリカの押しつけであろうが、そんなの関係ないということですね。


付喪神の百鬼夜行ですか?(笑)
愚樵さんへ

 言葉が一人歩きするなんて、言葉に付喪神が宿り妖怪化して、百鬼夜行をするみたいな話ですね(笑)。

 そして、「コーゾーカイカク」とか「ジコセキニン」とか「アナタハアイスルヒトノタメニシネマスカ」という妖怪に関しては「関係ない」ですが、「キュウジョウ」という妖怪が百鬼夜行をすることは歓迎するというのが、愚樵さんのスタンスなのですね。

 しかし愚樵さん「関係ない」といいつつも、「アナタハアイスルヒトノタメニシネマスカ」という妖怪を、「人を狂気へと誘う」と定義付けをしてますよね。

 反対に、「キュウジョウ」という妖怪に対しては、「人を真理へと誘う」と定義付けされるおつもりでしょうか?

 とどのつまり、愚樵さん(だけに限らない多くの理想を抱く人々)は、浅薄な定義付けによって、「アナタハアイスルヒトノタメニシネマスカ」や「キュウジョウ」の百鬼夜行化に加担しているのです。

 このような百鬼夜行化を、あの丸山真男教授は「理論ないし思想の物神化」と指摘したのではないでしょうか?

 そしてそれらの問題点を、丸山教授は半世紀も前に、著書『日本の思想』にて書き記しているのです。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/00701154/pg_from/rcmd_detail_1
 
 曾野綾子さんにご関心が無くても、丸山真男教授に対してはご関心をもたれた方がよいと、僭越ながら申し上げます。

 ちなみに、『日本の思想』では、「マルクス曰く、『私はマルクス主義者ではない』」という言葉を紹介しておりますが、これは訓戒を兼ねた名言だと私は思います。 

 平たくぶっちゃげて言えば、上っ面の理解で物事の白黒を付けちゃダメなのです!

P.S
因みに付喪神について。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%98%E5%96%AA%E7%A5%9E
付喪神も「理論ないし思想の物神化」も、日本の文化・風土にリンクした話であるといえるのでしょうか…。


完結した言葉として
返事に間が開いてしまいました。

十文字さん。

>だがら、「本を読む読まないは関係ない」はNGです!

ご意見拝見しましたが、私はやっぱり「関係ない」ですね。

私は曾野綾子については漠然としたイメージは持っているにしても何も知らないも同然だし、また興味もない。曾野綾子について何らかの判断を下したいと思っているわけではない。

前コメントの私の書き方も不十分でしたが、私は

「あなたは愛する人のために死ねますか 」

という言葉を、誰かの言葉として受け止めたのではないのです。「コーゾーカイカク」とか「ジコセキニン」なんて言葉などと同様、最初は誰かが言い出したには違いないにしても、言葉が発言者から切り離された“完結した言葉”あるいは“一人歩きした言葉”として読んだ。だから関係ないと言ったのです。曾野綾子の言葉としての「あなたは~」を判断したいと思ったわけではないのです。

本来言葉というものは発言者の意図と切り離されて解釈されるべきものではありませんが、得てして一人歩きするものでもあります。受け手がどう感じるにせよ、私は9条の条文が社会の中で一人歩きすることを歓迎しますが、「あなたは~」については、要らないに一票です。


お玉さんの主張に驚きました
書込み失礼します。

愛する人の為に死ぬ事はできないかもしれないけど、殺す事はできるかもしれない…
で、その結果自分が殺されるのは嫌だから死刑制度には反対??

なんと身勝手な理屈なんですか。驚きを禁じ得ません。

自分が殺す分には仕方ない事があるかもしれないけど、自分が殺されるのは絶対嫌だって?
自分が人を殺す可能性は否定しないけど、自分が殺される可能性は全否定し、その為に法律も変えろ、という。
欺瞞というか、幼稚というか、それすらをも通り越して犯罪者スレスレの理屈ではないか。
そんなあなたに平和を語る資格などない。
あなたのような身勝手な人間が言う平和など、私には信じられないです。

あなたのような人がいるから、世界から戦争がなくならない、とまで思ってしまいます。


くろねこさん
>愛する人の想いを尊重できますか?
死ねますか、は極論であって、わかりやすく言えばそういうことにもなりますよね。

自分が遭遇しない条件で物事を考えるのは難しいですから、特攻隊員であったら、とかイエスの弟子であったら、とか想像してもそれは言葉遊びの域を出ません。でも、今の世の中で自分が果たしてどう生きていけばいいかを真摯に考えたとき、たとえば産み育ててくれた親の思い、あるいは親しい人々の思い、それとも近所や、地域に暮らす多くの人の思いを大事に考えることはできます。

 曽野氏らの言葉をお玉さんが憂うのは、国を愛しているから命でも捧げられる、と考える人を扇動することへの疑念からだと思っています。自分はみなのために命さえ顧みず行動できる、そこに何もやましいことはない、そう考える人の心に、本当に他の人々への愛情があるのだろうか、それを問うのがくろねこさんの言葉であり、また本来ならば「愛する人のために死ねますか」が提示していることではないでしょうか。単に名誉だとか気位のために命を賭けるのか、それとも他者を思いやるためにやむなくそうするのか。そのへんが、似て非なる行動の分かれ道なのかと考えます。

 イエスの教えを尊重し、酷い拷問にかけられて死んでいった多くの殉教者の存在は、その教えが単なる個人の趣味趣向でなく、人間としての本質を厳しく問い、そこに絶対的な愛を注ぐ主への献身であることを意味しています。では彼らは、キリスト教への多くの批判が示唆するようなエゴイストではないのだろうか。教えのために他者を踏みつけにして顧みない横暴な人々ではないのか。そのへんも、先に書いたことと関連します。人を、教えを本当に尊重しているのか、それとも自分の都合のために利用しているだけなのか。「尊重」って簡単に言っても難しいことですよね。試行錯誤しかないと思います。


問いが高尚過ぎるのでは?
「共に生きる」とか言っちゃうと問いの前提が成り立たないんじゃないかな?
私の場合、理論的にとかアカデミックに考えることができない程度の頭でしかないので、自分のレベルに合わせて冠あえただけなんですよ。
「空腹のときに自分の子供に自分の食物を分けられるか?」
「自分が寒くても妻に毛布をかけてやれるか?」と。
そう考えるとイエスと答えられる人はおおいんじゃないかな?と思いました。
結局、「愛する人」が具体的にいる、
イメージできるということがこの問いの答えの分かれ道かな。もっと言えば目の前に困っている人がいるかどうか、そういう状況を経験したことがあるのかどうか。地震の時の様子なんか見てると、若い連中(小学生におにぎり上げてる高校生なんかもいましたから)もまだまだ捨てたもんじゃないぞと思えます。


「死ねる」とか「死ねない」ではなく
「共に生きる」じゃだめなの?

と書こうと思ったら、自分が書くよりもわかり易くかつ丁寧に、わくわく44さんが書かれているので、夕べ書き込もうと思ってた文章が消えてしまったのは結果オーライ(^^ゞ

でも、お玉さんが書かれている
「愛する人のために人を殺すかも知れない」
にもなり得る考えでもあるのかな?


ハリケーンジョー さんへ。
 コメントサンキューです。

 キリシタンじゃなくてクリスチャン(笑)。自分ではクリスチャンとコメントした精神・意識でしたが、言論内容がキリシタンになっていました。頭が理路整然としていない状態のようです。ボケてますね。すみません。キリシタンという言葉を言論したことに深い意味はありません。キリスト教を生きるための思想・信条にしている人くらいの定義です。

 さて、愛のために死ねるか?愛する人のために死ねるか?という問いを発した曽野綾子さんの結論は、その人の書物の背景にある作者、つまり、この人の生き様によって示されているのでしょう。ゆえに、書物の内容と切り離して回答することは有意義なことであって、必ずしも書物を読まなくてもよいということです。

 そこで、書物の内容に焦点を当てるのではなくて、リアルにおけるこの人物の生き方を対象とした方がよいであろう、ということで書物の内容を度外視して、質問することが必要な問題だと思いました。世間に対して有名作家がその影響力を行使して、「愛のために死ねるか?」「愛する人のために死ねるか?」と問うているわけです。その場合、読者であるわたしたち凡人は有名作家である知識人の説明責任を問うべきです。それが東西の先のコメントです。特に、愛という心理・観念・精神・意識・葛藤・矛盾を優先するか?それとも、人命を優先するか?に焦点を当てて問うてみたいわけです。その質問が、以下です。

「例えば、曽野綾子さんが、あるいは、人類である女性が強姦されてしまった。そして、「不幸」にも妊娠した。その場合、自分の子供の生命を守り、出産しますか?それとも、強姦で妊娠した犯罪者の子供でもあるし、望まない妊娠であったので「幸福」を選択し、自分の子供の生命を断絶し、中絶しますか?人命、しかも自分の子供の生命よりも自分の精神的な「幸福」を優先しますか?」

 東西の結論としては、「愛」という観念・意識・葛藤・矛盾の究極内容においても、正しい正しくないは存在する。正しい愛とは何か?科学的な愛とは何か?こうです。

 自分の「幸福」「意識」を優先して、「犯罪者の子供」といっても犯罪とは無関係の無辜の人命を断絶・中絶する行為は非科学的なヒューマニズムであって偽善だと断じざるをえない。他方、「いかに犯罪者の子供、強姦されて妊娠した子供であっても、それは自分とは違う一個の人命」であって、自分の「都合」「精神」「葛藤」を超越した存在であるから人命を優先して出産する、人命を生み出すという行為こそ科学的なヒューマニズムである。

 こうして人類は、例え、強姦犯罪者の子供の命と言えども人命については共に連帯して産み育てていく条件を国家的に整備していくしかない。これが祖国愛、人類愛、したがって科学的なヒューマニズム、人類の平等、人間の尊厳の基礎だということです。人命あっての国であって、人命あっての国土、人命あっての思想・信仰・意識・心理・精神だということです。

 
 

 

 


あなたは、愛する人の想いを尊重する事が出来ますか?
お玉さん、こんばんは。

お玉さんのタイトルをパクって。。。

「あなたは、愛する人の想いを尊重できますか?」
をタイトルにしました。

 どうしても、日本では「死」は美化されがちです。
 どうしてか?日本人独特の感覚があると思うのです。
「死」=「責任を取る」という事が刷り込まれている。

 それでは「責任を取る」とは何ぞや?という一番難しい疑問に当たるはずです。

 タカリ専門の左翼連中は、何でも国のせい、国の責任と言い。
 欲ボケ新自由主義者(賭博資本主義)の竹中平蔵さんや国際基督教大学教養学部教授の八代さんや経団連の奥田さん・御手洗いさんたちは、個人の自己責任と言う。
 でも都合が悪くなると。。。新自由主義(賭博資本主義)を推進した人たちが、政府に公的資金うんぬんは。。。矛盾しています。
 彼らは結局「給食費を払わない親」や「タカリ左翼連中」や「福祉ボケ連中」と同じじゃないのかなと改めて痛感しました。

 口先では、「責任を取る」とか、「責任取れ」とか簡単に言えますが。。。難しいです。

 結局は、「想いを尊重する」くらいの事しか出来ないのかなと。。。



ハリケーンジョー様
まず、私は宗教に関しては詳しいわけではないので、キリスト教のカリタスというのを知らないので、そのあたりをご了承ください。申し訳ないです。

その上で「愛する人」の定義についてですが、「定義」をするのは難しいですね。私も思いつくとすれば、もし家庭を持っていれば、やはり「妻や子供」となると思います。今は幸いにして、目の前に命を失いかねない戦争とかがありませんから、これぐらいしか思い浮かばないですね。

戦時中は「お国のため」「天皇のため」というのがありましたが、「国」という漠然としたものの「ため」は無理だと思いますし、一度も会話したことのない天皇のために命を落とすことも思いつかないです。
強いて言うならば、「お国のため」という言葉から思い浮かぶのは、「日本・日の丸・天皇」ではなく、『私の家族や友人、故郷の光景』でしょう。


新潟中越地震のことを仰いましたが、ハリケーンジョー様がそのときに思ったことや、周りの救助活動の光景こそ、まさに「愛する人のために死ねる」という国民が集う国が日本だ、ということなんです。

「愛する人のために死ねる」というのは、みなさんが考えているほど生易しいものではありません。特攻隊の手紙や日記のように、教育で洗脳できるほどカンタンなものでもない。
「愛する人のために死ねる」という覚悟は、それに値するだけの信頼と幸福があって、はじめて自分自身に問いかけることができるものだと考えます。

自分のことは後回しにして、妻や子供はもちろん、お年寄りや弱者に食糧や水、毛布などを優先することができるのは、自分を含めた、そこにいるみんなが助かるという信念と信頼があるからこそなんですよ。その信頼があるからこそ「まだまだできる」と思うことができる。

「死」を出したために、おそらく疑問に持たれているかと思いますが、以前から申しているように「本当に死ぬ」のではなく「そこまでの覚悟」が大切なのであって、それは「死ぬ」どころか、むしろ「生きるためにこそ」だというのが私の考えです。
そのあたりは誤解のなきように、お願いします。


子を持つ親御さんくらいでは?
20年くらいは前でしたか、「ガンの告知」ということが世間で話題になり始めた頃です。当時は今ほどの早期発見、早期治療の技術もなく、ガンの告知と言えば、まだ「死の宣告」のように受け取られていました。ある医師が「自分には死ぬまでにしておかなければならないことがあるので、是非とも真実を教えてほしい」と希望する末期ガンの患者さんたちに限って、告知に踏み切ってみたという例が何かに載っていました。それによると、告知することによって、高僧といわれているような人望ある宗教家がすっかり動揺してしまい、何かを言い残すどころではないままに亡くなってしまったこともあれば、むしろ、無学な田舎のおばあさんのような人が冷静に受け止めて身辺を始末し、穏やかな最後を迎えられたりもしたそうです。医師は「患者さん自ら、『知りたい』と願っていると言っても、実際の告知によってどれだけ動揺するかしないか、あらかじめ見分けるのは難しい」と悟り、告知をやめてしまったそうです。

人というのは己の生死に関わることにはかくも弱いもので、普段がどうであれ、本当にその時になってみないことにはわからないものだと思います。私自身、自分のこともわからないし、いざとなって動揺する人を、臆病だとか卑怯だとかも言えません。むしろ、そういう人間の弱さを認めて、謙虚になれと諭すのが「宗教」というものではないかとも思うのですが。

わが身を犠牲にしても誰かを守ると言う言葉を信じられるとしたら、やはり、子を持つ親御さんのことくらいではないかと思います。


アウフヘーベンしようヨ(欽ちゃん風)
冷戦構造が終結して、右翼と左翼という分類は無意味になった、とよく言われますが、私はこれに懐疑的です。右翼・左翼の歴史をさかのぼると、フランス革命まで行き着きます。古来より右翼は、国家や地域共同体等への帰属意識を力の源泉とし、左翼はそれらからの解放を求めます。やりちゃん用語では前者をビロング志向、後者をリバレイト志向と呼びます。

濃密な人間関係のわずらわしさや抑圧を逃れて、世の中がどんどんリバレイトに振れている。そうこうしているうちに、日本は世界有数の自殺大国になり、働き口の無い若者が増えているのだという。もうそろそろ、少しぐらいはビロングを見直してみてもいい頃なんじゃないだろうか。ハリケーンジョーさんのコメント(17:43)は、そんな希望を予感させるもののように私には思えます。

朝鮮人や支那人をコキ下ろしてさえいれば右翼だ、と考えている人は、右にも左にも多いと思います。だけど、「排斥」っていうのは、ビロングでもリバレイトでもないんだよなぁ。


どうかなぁ・・・・・・
うかつに「愛のために死ねる」とか言わない方がいいと思うのですよ。
「愛のために死ねる」というのは「愛のために殺せる」という意味でもあります。
かつて十字軍を名乗った人類史上最低最悪の虐殺者どもは
ことごとく「神への愛」を口にしました。
誰かを、そして何かを愛するというのは愛するモノを愛してないモノの上位に置くものであり
愛してないモノを切り捨てる口実につながる、そう思います。
例えば鯨。
鯨を愛する捕鯨反対派は鯨愛のあまり鯨を食って
生活を営む人たちの存在自体を否定しながら牛や鶏殺して食います。
捕鯨推進派は鯨を食うのを愛して鯨の生命を否定します。
彼らの争いはいわば「愛」が原因
ベクトルやらポイントやら色々食い違ってはいますが。
少々極論するならばこの世の争いの八割は愛とやらが原因でしょう。
だからといって争うな、愛するなとは言えませんが。
愛に関しても節度を守るのが大事、という事ですかな。


わくわく44様
お返事ありがとうございます。

いくつか質問があります。
1、本題の「愛する人」をどのように定義しましたか?私は自分の妻や子供が単純に浮かびましたがわくわく44さんはどうですか?具体的な誰かですか?それともキリスト教でいうところのカリタスのようなものですか?

2、私自身現在新潟在住で、4年前に大きな地震を経験しました。妻がそのころちょうど下の子を身篭っていました。そのときは自分の食料がなくても妻に食べさせたいと思いましたよ
あの時はずいぶんみんなで「子供はちゃんと食べているか?老人は寒がっていないか?妊婦はいないか?」と若くてそこそこ体力のある人たちはみんな自分のことなんか後回しで弱い人たちを助けるのに必死でしたよ。
わくわく44さんはどうですか?
「戦争と平和」をテーマにすれば平和ボケの日本人が「わからない」と結論付けなければならないことはなんとなくわかります。こういう状況を想定して語ることはできますか?


ハリケーンジョー様
『もっと個人的で利己的でくだらない個人的な「愛」』というハリケーンジョー様のお言葉こそが、「愛する人のために死ねますか?」の答えだと、私は思っています。

なぜ、愛する人のために死ぬことが尊いのか。それは、愛する人が幸せになるためではないでしょうか。

しかし、自分が死ぬことは、その愛する人を悲しませる最大の背信でもあります。

だからこそ、そんなことにならない状態、すなわち「平和」へ向かって全力を尽くすのです。

さらに言えば、目の前で本当に「愛する人のために死なないといけない」とき、口ではどうあれ、心の中では「死んでも守る」「いや、生きていたい」という葛藤が入り乱れる。
ましてや、長年の平和の中で過ごしてきたわれらです。やりちゃんさんが仰ったように「そのときになってみなければ、わからない」というのが本音です。

でも、今現在が戦乱の世の中だとしたら、後の世に生まれてくる自分の子どもに対して、自分が死んでも、「平和ボケでいてほしい」と願うほど平和であって欲しいと思うことでしょう。

つまり『愛する人のために死ねますか?』という問いかけは、矛盾と葛藤を持ったままに、「生きるために」こそ「死ねる」という答えを出す、そういう矛盾した答えを出すための問いかけであり、われわれの永遠のテーマなんだろうと、私は思います。


平和ぼけを愛そう
問い「あなたは愛する人のために死ねますか」
答え「そのときになってみなければわかりません」

これは、問いに答えた人に差し迫った危険が存在しない、ということを示しています。愛すべき「平和ぼけ」だとは思いませんか。皮肉を言っているのではありません。

「戦争が終わったら○○がしたい」「戦争が終わったら○○を食べたい」という願いも虚しく、先の大東亜戦争では、多くの命が失われました。平和な時代に生きる日本人が、「どこまで走っていけるだろう」「どこまで豊かになれるだろう」と追求する手を休めて、右も左も、老いも若きも、「○○が気に入らない」「○○が許せない」と言い募ってばかりいるのは実に愚かしいことです。それは憲法9条を愛する平和主義者の土井たか子さんがいっつもシカメッ面をしていたり、日本を明るく元気にしようという麻生首相が新聞記者を脅していたり、というパラドックスにも似ています。

私は、尊い犠牲への感謝の念を忘れない限り、「平和ぼけ」を世界に誇ってよいのではないかと考えています。靖国の英霊にもそう伝えています。むしろ野田聖子あたりがよく口にする「常在戦場」という言葉ほど軽いものはないと思います。たかが選挙じゃないか。


よい意味で、炎上してるみたいな・・・
みなさん、燃えていますね!こんちくしょー、負けずに書いてやる! (爆)

もうどの論点を主にするか狙いが定まりませんが、まずはこれ。
この本、実際に読んでみました。曽野綾子氏とスペイン生まれで日本に帰化したカトリック神父の対談形式となっています。まず自分なりの感想として、悪いんですが曽野さんより神父さんの方がずっといいことを語っています。どちらかというと曽野さんが突っ込み、神父さんがボケ(ちがーう)、いや包み込むようなシーンが多く見られます。もっと言うと、曽野さんの現実主義的なきわどさは、ある種日本人のおかれた危うい土壌をそのまま表現しているようにも感じられます。今の日本に対するいらだちは結局、愛の裏返しなのかも知れない。ただ、「愛は忍耐強い、愛は情け深い。愛は自慢せず、高ぶらない。」(聖書のことば、一部のみ引用)というような愛の本質からすると、まだまだですよー、みたいにも感じますね。^^;
結論的には、本格的に思索を深めたい人には物足りないでしょう、ひとつひとつの話題を読む側がもっと掘り下げる必要があります、という感じの本です。


論点ずれますが・・・
>東西南北さん
キリシタン(笑)
今あんまり使いませんよ。クリスチャンですね。

さて、私自身2人の子の父ですが、
子供を持ってみて初めて自分の命よりも大事なものがこの世にはあるということを知りました。
幸運にも母子ともに健康に生まれてきてくれましたが、もし出産のときに妻が重篤な病気(心臓疾患等)をわずらっていたとしたら私は妻の命を優先するでしょう。
しかし、ありえないですが、たとえば自分の体に新しい生命が宿ったとして、仮に自分が心臓疾患を患っていたとしたら私は子を生む方を選択すると思います。

だから私はわくわく44さんにも反論したい。「誰かが愛する人のために死ぬ」時は平和などという崇高な理念の実現の礎となるためなどではなく、もっと個人的で利己的でくだらない個人的な「愛」のために命を捨てるのです。遊就館の特攻隊員の手紙をお読みになったことはありますか?彼らの手紙からは最後の最後まで故郷に残した父母や兄弟を気遣い思いやるやさしさにあふれています。彼らは何もお国のために日本国のために死んだのではありません。愛する人を守るため、その命を犠牲にしたのです。逆に言えば私は平和のために命をかけることはできないけれど、もしも自分の子供のためなら喜んで死にますよ。


愚樵さん
口にするだけならばカンタンでしょう。誰だって命を捨てたくはありません。即答するような人の「死ねます」なんていうのは、私は信じていませんし、何も考えずに述べる言葉に価値があるとは思っていません。

本当に価値がある「死ねます」という言葉とは、常に「愛する人のために死ぬとは何なのか?」「本当にそんな覚悟が持てるのだろうか?」、そうしたことを自分に問いかけ、「いや、自分は死にたくない」という自己矛盾に陥ってしまう。そんなことを繰り返しながら、もっといえば「本心かどうか、まだ疑問を抱きながらも『出す』もの」こそが、価値のある「愛する人のために死ねる」言葉だと思っています。

愚樵さんが思っているような状態での「愛する人のために死ねる」なんていうのは、私は説得力などないと思っています。

タイムリーにガンジーを見ていた人の中には、同じように、「売名だろ?」「頭がおかしいんだろ?」という疑問を抱いた人も多いと思います。
ガンジー自身、非暴力主義が正しいか正しくないか、きっと逡巡しながらあんなことをしていたんだろうと思います。

ガンジーの存在が偉大で説得力があるとするならば、それは『そうしたガンジーの「逡巡」を、時には疑問を抱き、時には批判しながら、ガンジーの行動を理解しようとしている。』という状態を指すんじゃないだろうかと思います。もっといえば、ガンジーを批判し、否定するからこそ、ガンジーを尊敬し、そしてその意味に近づける。
つまり、ガンジー自身が持っているのは、「説得力」ではなく「問いかけ」なのです。あくまでも答えを出すのは「自分自身」なのです。

そして、平静な状態にいるときこそ、常に「愛する人のために死ねるだろうか」と問い続けるべきだと思います。
「愛する人のために死ねるかどうか」を自らに問いかけ続けるからこそ、政治を正常に機能させ、平静な状態を維持し続けると思うからです。

人は望まなくても、自分や自分が愛する人が「生きる」ために、「戦う」ことを余儀なくされる場面がありうる。水が欲しい、食べ物が欲しい、でも水もない、食べ物も育たないとなれば、それを得られるところに行かなければならない。一方、水や食料を持っていても、人に分け与えるだけの余力がない人は、飢えている相手にそれを渡すことなどできない。渡したくても渡せない。その矛盾が葛藤を生み、葛藤が争いを起こす。

「人智で解決できる保証がない状態があり、人智で克服できない原因がありながらも、ともに生きていく」というのが平和だとしたら、人類にとっては、とんでもないチャレンジなのです。「命を捨てたくない」というネガティブな動機で達成できるような生易しいものではない。逆に言えば、「平和」というのは「命を捨てる価値がある」ほど崇高なものだということです。


まとめて返答致します
>フレンズさんと、お玉さまへ。

 いや~、ボケですよ!
 マジツッコミされても困っちゃいます…。
 わざわざ「曽野さん」とはせずに、「綾子さんの作品」と書いたとこを読んで、ギャクとしてのツッコミをして欲しかったです。
それと…、
・拙速な理解だと、こんな感じで根本的なことを誤解してしまうかも…。
・「クリスチャンにはなれない。」「違和感がぬぐえない」とありますが、では他のクリスチャンの作品だとどうですか?
という事が、言外の言の投稿でした。

> 愚樵さんへ
>「あなたは愛するもののために死ねますか」という問いのみを直截に
>受け止めた上で自己を客観視して回答したものだと、改めて思います。

 そうですか?
 私には「自己を客観視」というよりは、「自己完結」、つまり「読もうが読むまいが最初から答が出ている」答をしているように思えたのですが…。
 
 
 それと、「バイアスに捉えられている」ですか…。
 一つの物事を「深く知ろう」とすると「バイアス」がかかり、「客観視」できないということが仮に正しいとするならば、「憲法9条に深い知識を持つ人々は『すでにバイアスに囚われた人』で、彼らの発言は客観的ではないということは真である」、ということになると思いますが…。

 でも現実はそうではないですよね。
「憲法9条を深く知っている人」に関して言えば、例えば「9条を激動する世界に輝かせたい」という人々もいますし、「9条は諸悪の根源」という人もおりますし、「9条は原理であって、準則ではない」という回答をする人もおります。

 こういうこと読まれて、「結局、彼らの論理で最終的な結論を出しているのは、彼ら自身の『主観』によるものではないのか?。『客観』なんて本質的に意味が無いのではないのか?」という疑問を持たれるかもしれません。

 それはその通り。ですから例えば9条に関して「客観的」であろうとするならば、「9条を激動する世界に輝かせたい」という論理も「9条は諸悪の根源」という論理も、そして「9条は原理であって、準則ではない」という論理も、キチンと読み込み、考察しなければならないのです。

 ゆえに、「曽野綾子」に客観的な判断を下したいと思うならば、彼女の著作を読み込まなければならないのです。

 だがら、「本を読む読まないは関係ない」はNGです!


問いに答える義務はない
なんだか、曽野氏に対する好悪感情で意見が構成されているような気もしますが・・・^^;
タイトルについてもう少し補足しますが、「死ねますか」に対して真面目に死ねるかどうか答えなければならない義務はありません。本のタイトルから受け取るイメージが不快であるというならば、それは曽野氏なり出版側の戦略を嫌うという話になります。僕はタイトルよりも内容がどうか、を確かめたいと思ったのですが、世間的には書店で具間見ただけで反応してしまう人も多いのかなと考えざるを得ません。となるとやはり戦略が機能しているということになるのかも知れませんね。僕なりの解釈では、その戦略は販促・宣伝によると考えています。繰り返しますが、タイトルの問いに直接的に反応する必要はない。その問いが何を意味するかを知りたい、何を訴えたいのかに興味を持ったときに、読んでみればいいということです。もちろん批判的に読むこともできるし、心に不安を抱いてなにかにすがる気持ちで読む人もいるでしょう。しかし僕はそこまで考えてはいません。「立場の弱い人に対する洞察力を養って欲しいと思う」という意見は否定しませんが、曽野氏に対する自分自身の評価が固まっていない現時点では彼女がどんな意図で強いメッセージを選んでいるのかがわからない、だから読んでみたいと思うわけです。


本を読む読まないは関係ない
コウトさん、十文字さん

お言葉ですが、おふたりこそ曾野綾子というバイアスに捉えられているのでは? 「そんな問いは要らない」「そのときになってみなければわからない」という答えは、「あなたは愛するもののために死ねますか」という問いのみを直截に受け止めた上で自己を客観視して回答したものだと、改めて思います。

村野瀬さんの
>もちろん、国政をになう者~
私の
>でもね、こうした質問が“効く”人たちが~
以降は、曾野綾子がある立場に立って発言しているというバイアスがあってのものと解釈されても致し方ありません。政府云々を語るときには個々の立場を切り離すことはできませんので。


わくわくさん

>「愛する人のために死ねますか?」という問いかけに対して「死ねる」と答えるからこそ、人は平和を願い、それに努力する。

これはわくわくさんにしてナイーブ杉やしませんか? 答えるだけなら誰だって答えることは出来るのです。が、ガンジーのようになれるのは、その中の一握りのものだけです。だからこそ尊敬を集めるのでしょう(同様に、私は特攻隊員も尊敬してます。自爆テロを行った人もです)。

どのような形であれ、自らの死を客観視できる人は尊敬に値します。凡人たる私などが言うことが出来るのは、自分が死に直面した状態など想像がつかない、というのがせいぜいです。けれども、ウソはつけます。自分の言葉がウソだと知りつつ、もしくは自分で自分の言葉をウソだとも自覚しないままで、「愛する者のために死ぬことができる」と答えることは出来ます。

この言葉が危険なのは、わくわくさんの言う説得力のためです。ウソを本当だと信じてしまったら、とんでもないことなる。ガンジーのように偉大な存在が、かえって「愛する者のために死ぬことができる」の言葉に信憑性を与えてしまいます。

私たちをとりまく事態が異常な状況に陥ったとき、この言葉にある種の有効性があることは認めます。だからなおのこと、平静な状態にいるときにはこの言葉は使用すべきではない。もちろん、文学として用いるのは構わないでしょう。だが、正常に機能している政治の言葉としては、やはり不要だし、用いてはなりません。


私には問えないが
『愛のために死ねますか』ですか。
本の内容を読んでいないので、曽野氏がどういう意味でそのような題名をつけたのかはわかりませんが、その「愛」の対象が神であれ家族であれ、恋人であれ祖国であれ、そのために死ねるかどうかなどは、己に問えばと言って、むやみと他人に問うべきものではないでしょう。


十文字さん~
フレンズさんの言うとおり~~
そう、それは三浦綾子さんの銃口です・
お玉も紹介してるよ。
http://potthi.blog107.fc2.com/blog-entry-281.html
三浦綾子さんといえば塩狩峠も有名・・でも時として三浦朱門がだんなな曽野綾子と混同されるのよね・・・

曽野綾子ではこんなのを以前紹介してます。
http://otama.livedoor.biz/archives/50531382.html


銃口は…
十文字(衆愚代表)様
リンクされていましたページは「銃口」でした。
「銃口」の著者、綾子さん、は綾子さんですが、「曽野」ではなく「三浦」さんでは?
お二人の、文学はまるで違うと思いますが。


出産と人工妊娠中絶。
 曽野綾子さんはキリシタンで女性ですね。この人に具体的に問えばいいと思います。あなたが自分の子供を妊娠したとする。しかし、出産時に自分の生命の危機が差し迫る場合。さて、あなたは自分の愛する子供のために自分の生命を絶ってでも出産を選択しますか?それとも、自分の生命を守って、子供の生命を犠牲にしますか?愛する子供のために死ねますか?

 さらには、強姦されてしまった。そして、「不幸」にも妊娠した。その場合、自分の子供の生命を守り、出産しますか?それとも、強姦で妊娠した犯罪者の子供でもあるし、望まない妊娠であったので「幸福」を選択し、自分の子供の生命を断絶し、中絶しますか?人命、しかも自分の子供の生命よりも自分の精神的な「幸福」を優先しますか?

 人命の始まりは受精卵であるのが科学上の真理・真実であって、人工妊娠中絶反対論者は宗教だとアメリカでは言われているようですが、むしろ、人工妊娠中絶賛成論者こそ宗教論者ではないか?

 人命の始まりが受精卵である以上、他人の生命を断絶することが許されるのは正当防衛の場合しかありえない。これが科学的なヒューマニズムではないか?

 


喜悦
愛のために死ぬよりも、愛を失ってでも生きるほうがいい、と公言するのは倫理的かもしれませんが、ロマンティックでは全然無いですよね。(笑)

狂気は楽しいのです。それに巻き込まれる人間には楽しくなんかないですが、自らそこに至る人間にとってこれほどの喜悦は他にありません。たとえば恋愛は狂気です。狂気のない恋愛などスパイスの無い肉料理のようなもので、栄養にはなるかもしれませんが美味しくありません。

そんな狂気に至る道に立ち、倫理や正義で狂気を止めようとする人間が踏みにじられるのはある意味当然のことなのです。皆が反省するのは「祭りのあと」でしかないのですから。


皆様、キレないで下さい。
 愚樵さん(2008/10/26 14:06)までの皆様の投稿を読む限り、コウトさん以外、お玉さまを含めて感情的になりすぎている気がします。

 そういうわけで、コウトさんのおっしゃる事に一票!
というより、皆様はじっくりと本を読まれていないじゃないですか?(お玉さまは立ち読みで流し読みしかしていないようですし…)

 コウトさんのおっしゃるとおり、キャッチコピーやイメージだけで判断してしまうと、大変な勘違いをしてしまうことに繋がります!!
それゆえ、冷静なスタンスで「愛と死」について考察する必要があるのです。
そういう意味においては、『愛のために死ねますか』は、それを考えるうえで、ちょうどよい機会だと思います。
 だから、良かろうが悪かろうが、興味を持ったら「読んでみますか(byコウトさん)」がベストなのです。



 それに、クリスチャンの綾子さんは、こんな作品も世に出しているのですヨ!
http://www.amazon.co.jp/gp/product/product-description/4094021817/ref=dp_proddesc_0?ie=UTF8&n=465392&s=books

 一時期お世話になっていたクリスチャンのおば様方に、綾子さんの作品は大変好評でした!

P.S
 そういう訳で、私の愚論にマジギレしないで下さい(特に、平和を愛するクリスチャンさん・49歳には、重ね重ね申し上げます)。
(参考資料)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E9%87%8E%E7%B6%BE%E5%AD%90


読んでみないとねえ
愚樵さんが書かれているような警戒心は、「生きていく拠り所を奪われている人」の不安定な心につけこむ態度に対するものですよね。書店で探してみましたが見つからなかったので、ほかの本を少し読んでいます。簡単な感想として、曽野という人は日本とはまったく違う条件に生きる人たちとの付き合いを通じて今の日本人の置かれている立場を顧みるという方法をとっているのだと思います。僕は基本的には、他者の経験を通じて新たなものの見方を知ることは大切だと考えます。ただそれが強制になる可能性、という意味で他人の心への干渉の可否を考えることもまた必要です。教育にはそういう側面が常にありますし、そんな限定された部分だけでなくこの社会そのものが我々の心や生き方に大きく干渉している現実もまた忘れていません。
 面倒な話になってしまうのでこのへんでまとめます。この作家さんがどんな意図を持ってこういうタイトルを選んだのか、それを明示的に示してもらえばメッセージを受け取る側も比較的安心していられます。あるいは、これが出版社の販売促進のための戦略なのであればまた別問題ですね。刺激的なキャッチコピーであれば手にとる人が増えるわけです。それに関する倫理的な批判は作家に向けられるべきではありません。たぶん、実際に読んでみるとそのへんがわかるのではないかと思っています。


まさに「平和」の言葉です
「命」は最後で最高のものです。それさえ失うことを覚悟しても、愛する人のために全力を尽くす。

しかし、そこまでの事態になれば、たとえ自分が命を捨てて守ろうとしても、その愛する人は命を落とすかもしれない。

ということは、「愛する人のために死ぬ」覚悟が必要ではない世の中にしなければならない。

つまり、「愛する人のために死ねますか?」という問いかけに対して「死ねる」と答えるからこそ、人は平和を願い、それに努力する。また、そういう覚悟がある人が発するからこそ、平和を願う気持ちに説得力がある。責任感のある態度をとる。

「愛する人のために死ねますか?」という問いかけを「要らない」とか「狂気へ誘う」と思う人は多いとは思う。でも、そういう人が唱える「平和」が、いかに説得力がないものか。

ガンジーは無抵抗主義を唱えた。殴られ蹴られ、それでも無抵抗。もしかしたら射殺されるかも知れない。それでも自分は殴らなかった。だからこそ人々は「武器で人を従わせることはできない」という考えに賛同した。
もし、ガンジーが「愛する人のために死ねますか?」という問いかけを「要らない」と考える人であったなら、武器を取ってイギリス軍と戦っていたことであろう。いや、おとなしく奴隷でいるか、どこか遠くへ逃げていたかもしれない。

『愛する人のために死ねますか?』というのは、「死にたくないから生きる」という逃避ではなく、「生きなければならない。だから生き抜く。」という答えを出すための問いかけだと私は考える。


狂気
「このような問いは要らない」という村野瀬さんに一票。

付け加えるならば、このような質問は、人を狂気へと誘うものです。平常心でそんな質問に答えられるわけがない。もし平常心で答えるとするなら、「そんなこと、そのときになってみないとわからない」でしょう。自分が狂気にとりつかれた状態を平静に想定できる人なんて、そうはいない。

でもね、こうした質問が“効く”人たちがいることを私たちは忘れてはいけない。生きていく拠り所を奪われている人には、この質問はおそらく効く。人間は、自分が思っているより容易に狂気へ堕ちていくものです。


読んでみますか
まあ、キャッチコピーやイメージだけで判断してしまう面もありますからねー。題名は出版社の売らんが為の意図もあるのでしょうか。そのへんはわかりませんが。

できるだけ客観的になろうとすると、その作家さんが政治的にどちらよりかということは別にして、どのへんが自分には共感できるか、またできないかを慎重に判別するのがいいかも知れません。内容自体は全体主義賛美といったようなものではない感じですので、機会があれば読んでみたいと思います。

余談ですが愛と死というのは今の日本ではふつう、互いにほとんど無縁な概念だと思います。人を好きになれば一緒に楽しめばいい。愛することは楽しいこと、幸せなこと、そういうイメージが浸透していて、一種の宣伝効果だとも思います。ですが社会状況がもっと厳しいところではそうはいきません。愛する肉親が死んでいく中で生きなければいけないような、そんな過酷な状況は世界のあらゆるところにあります。そんな立場におかれた人たちにとっては、愛する人のためにできることは自分を犠牲にすることだけである、という場合も多々あるはずです。それがよいことか否かは問題にできないような、それほど過酷な世界も多く存在することを考えた上で、恵まれたこの日本で生きることの意味を問い直すことが大事ではないかと思っています。


このような問いは要らない
お玉さんは遠慮がちに言っているようですが、もっとはっきり言うと次のような感じになるでしょうか。

本来このような問いを他人に向かって発して答えを迫るものではありません。あまりにもぶしつけな問いです。

もちろん、国政をになう者(政治家や政府や政党...)はなおさらこのような問いを人々に向かって発して答えを迫ってはなりません。国政をになうものの仕事はこのような問いを発して人々にはたらきかけることではなくて、「あなたは愛する者のために死ねますか」という問いがまったく不要な社会や国や世界情勢をつくることです。


訂正のお詫び
どうしても曾野綾子と言う人が好きになれません。
才能もあるし、頭もいい。でも、立場の弱い人に対する洞察力を養って欲しいと思う。
ところで、

以前伊勢崎氏が出演なさる番組の紹介をさせていただきましたが、ひにちが野球放送のため、違っていました。
「世界一受けたい授業」の放送は日本テレビ11月1日の土曜日夜7:57~8:54の時間に放送されます。

間違えた情報を書き込んでしまい申し訳ありませんでした。




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