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お玉おばさんの悩み 2 立憲主義と民主主義

どき!

松竹おじさんがきびしい事書いてるよ。

お玉さん流立憲主義への疑問・1

2年近く前、タマちゃんのクラスにおける掃除当番を例に立憲主義の大切さが論じられたとき、その同じ問題には何もふれずに議論をすすめていくのを見て、ずいぶんと違和感をもったものだ。ただただ立憲主義という原理を信奉しているように、私には見えた。だから、このブログにはあまり近づかないようにしようと、そう思ったのである(いまは違うけどね)。

あの、タマちゃんの教室でのお話のコメント欄でのやり取り、あれは確かに今読んでみるとなかなかきついものあるからな。。。。あれだけ読むと、お玉って立憲主義の信者さんみたいかも。。。

そもそもこのブログを立ち上げた頃の大きな疑問は

なんで憲法学の先生ってあんなに偉そうに物言うんだろうなあ。。って事だったのね。立憲主義が大事なのは決まり切ったことだから。。妙な疑問を挟み込めないというような感じがして、、、そういう学者の説明にわたしら一般人はついていけないし、もっとわかりやすく教えて欲しいのに、、と思ったから憲法も政治もひっくるめてこのブログの題名は

お玉おばさんでもわかる政治のお話

となったのでした。

さて、松竹さんの文章を読んでみると


 その必要性を論証するため、よくナチスの例が持ち出される。国民の支持と熱狂のなかでナチスが登場し、権力の座に着き、大虐殺をおこなった。国民はそういう間違った判断をすることがあるから、立憲主義が必要だと。  しかし、当時のドイツに存在したワイマール憲法は、十分、立憲主義の憲法だったのである。立憲主義だったのに、ナチスが台頭したのである。立憲主義の憲法があることは、ナチスを防ぐのに役立たなかったのである。

そう、お玉もね、ヒットラーの話で立憲主義を考えた頃から、なんかおかしいなあと引っかかっていたのよねえ

ワイマール憲法があったのに、立憲主義があったのに、でも民衆がまちがって選んだヒットラーが政権を取って、悲惨な歴史を作っていった。この矛盾点を護憲派はきちんと向き合えてないと心の奥の方で思っていたのよね。でもみんなここにあまり触れないでしょう。。。。。。国を縛る立憲主義であり、民主主義の暴走を止める立憲主義であるならば、本当はあんな事はおこらなかったはずではないかな。。

立憲主義がキチンとお役に立った歴史ってあるのでしょうか。

このあたり、松竹おじさんの論評。。。いえ、これは殆ど往復書簡ではないかと思うのだけれど。。。。。に期待。

実はPCの具合が良くなくて、文章書きづらいの。

今晩新しいPCが届くので、このあとの記事のアップは遅れるかも知れませんがご容赦を!

 

otamaいつもいつも、お玉を応援してくれてありがとう!!そしてポチしてくれて、ありがとう! ↓お読み頂けましたら、どうかポチッとお願いします。

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うちもそれ悩みます。

補助金だすだけでは「ばら撒き?」になるように、授業減らしただけではうまくいかない?ように、なにか足りないのかも?

多数派?の価値観で少数派産み、「悪」とみなすところから問題でそうな気もします。

御互い否定しないで「生きれる」ように補ってゆけたらとも思えます。


あけましておめでとうございます
なめびょんさん

>「人権や個人の尊重という観念の意味まで相対化」というのもある意味当然なこと

“ある意味”ではなくて、“そもそもからして”当然だというのが私の理解です。

人権というのは、国権と対になってこその概念です。国権無き人権は、本来ならあり得ない。ところが人権が一人歩きするんですよ。子が親に向かって、「人権侵害だ!」なんて叫ぶ。当初の意味からすれば、あり得ないことのはずなんです。
(DVなんてこともありますから、国権に対する「だけ」では困ることもあるんですが)

>「人間の強さ」

この強さは、“公権力と「緊迫した攻防」”をする強さとは別物のような気がします。

公権力と戦うには「フィクション」を駆使せねばなりません。けれども、民衆の「人間の強さ」は、フィクションではない、リアルなものです。

公権力はリアルな力を後ろ盾にフィクションを操ります。そうした存在に対してリアルな力を不用意に行使すると、それは下手をすればテロとされかねない。民衆のリアルな力を統率する「フィクション」はどうしても必要なんです。


憲法(ルール)は「絶対」ではなく、幸せに生きるためのひとつの手段
こんばんは。自分は「立憲主義」など分かりません。
 しかし法律家や憲法学者が綺麗に立憲主義を唱える事ほど。。。胡散臭いな~~~と感じます。

 「ルール」を知っているものが、自分たちに都合よく「ルール」を利用しようとしている事がみえみえだからです。

 民度が高く高度な知性を持った「立憲主義」の人たちは、本当に「法律」を完璧に守っているのでしょうか?
 立憲主義者たちが「高速道路」や「一般道路」で、法律を完璧に守っているならば説得力がありますが。。。 
 


十文字さんの引用された長谷部教授の「価値観の対立は万人の万人に対する闘争を引き起こす」という考え方はわたしが参考にしている池田清彦氏の「恣意的な権利の行使は他者の同じ権利を侵害しない限り許される」という考え方に近いと感じています。
また「人権や個人の尊重という観念の意味まで相対化」というのもある意味当然なことです。それは相対化し常に問い直すことで、我々が現在、最も有効ではないか?と選択した「フィクション」であるからです。

>あくまで権力(者)に対してのみ厳しい目を注いでいるのですが、他ならぬ民主政体を構成している、自分たちを含めた私たち一人ひとりに対して、厳しい目を注いではいない

それだけでもありません。
「伊藤塾長に感化された」お玉さんからこのブログで教えてもらった田村理「国家は僕らを守らない」という本があります。この本や、同じ著者の「僕らの憲法学」では、我々一人一人が公権力と「緊迫した攻防」をできるようにならなければならない、と述べられています。

そして、そういう「人間の強さ」は我々にも本来備わっていることの例として示される、中越沖地震での人々の姿を描いた文章を読んで、神戸で育ったわたしは涙が止まりませんでした。


道は自分たちで見出すものではないでしょうか
人間の、あるいは人類の価値とはなにか、というような問いは問うに値しない愚問かも知れませんね。人は他人の助けなしに生きていくことは不可能ですが、だからといってひとりでは何もできないと卑下する必要もない。なぜならば人間にとって自他の関係性こそが生きることを豊かにするのであり、相互のかかわりの中で命や人生の意味合いはいくらでも変化するものだからです。

 私たちにとって憲法だとかあるいは他の理想が、身近な生活に関連の薄い、遠くにあるものであったとしても、だからそれらが無意味な存在価値のないものだとは言えません。私やあなたがどうやってその理想に近づいていけるかを考え、現実の中で苦心して歩みを進めていくとき、その道のりは次第に目の前に拓けてくるでしょう。どの道を行けばよいかを誰かに聞くことはできても、その道を実際に歩むのは私であり、あなたなのです。どうして盲目のまま誰かに頼ろうとするのでしょうか。自分の目で確かめながら一歩一歩を進めていかなければ、いつまでも誰かの言葉に観念だけがかき回されるばかりです。
 十文字さんの書いている内容(引用長い!)と少しかぶっていますね。とにかく、限りある命を生きるのは私たち自身であって、決して「夢うつつの中にいる自分のようなもの」ではないはずです。


要飼主
単純に
「人類は自治権に値しない」
ということのような気がしました。

かといって、人間の飼主・愚かな人間を正しく導いてくれる上位種はいない…独裁者・貴族試験問わずエリート集団・集団そのもの・伝統のどれも「人間より上位で間違いを犯さない」存在にはなれません。
聖書とそれを解釈する教会・憲法とそれを解釈する法学者集団など「文章と解釈者の組」も、「人間の上位者」とはなれないでしょう。

で、どうしましょう。


憲法は何を教えてくれないか、について
 伊藤真塾長の講演で、立憲主義について納得されたお玉さまが、「彼のお話を焼き直すような形でここで説明し」、究極の形として書き上げられた「タマちゃんの掃除当番」のお話が、「ところがこのお話はとっても反響が大きく、そして大きな批判を受けました。」ということになったのは、そもそも伊藤真塾長の立憲主義論自体にある種の矛盾があり、その部分を批判されたのではないでしょうか。

 その一つが、松竹さんが指摘されているように、「民主主義の欠陥について、冷徹な認識があるのか?」ということ。
 伊藤塾長(と不特定多数のリベラル)は、あくまで権力(者)に対してのみ厳しい目を注いでいるのですが、他ならぬ民主政体を構成している、自分たちを含めた私たち一人ひとりに対して、厳しい目を注いではいないんですね。
 民主主義そのものに対する、ある意味、「不信」の視点を持たず、ナショナリズムを煽動し権力に組みする人間のみを批判すればよい、という程度でしかなかったのではないでしょうか。
 なお、松竹さんの、ワイマール憲法崩壊に関する指摘に対しては、
http://www.magazine9.jp/juku/058/058.php
「ドイツでもワイマール憲法時代に文民統制を制度として保障しましたが、ヒトラーによる軍隊の悪用を議会が止めることはできませんでした。」
http://www.jaspu.or.jp/topics/kenpou.pdf
「ドイツには現在、憲法に反対する権利はありません。国民にも憲法を守る義務を与えています。(中略)。(註:ワイマール憲法は)すばらしい憲法でしたが、ヒトラーに潰されてしまいました。すばらしすぎた憲法であるが故、憲法自身を攻撃する自由さえ持っていました。」
という程度が伊藤塾長の認識です。
 この様な認識には、「ただただ立憲主義という原理を信奉している」という松竹さんの指摘を受けてしまう、問題の根幹があるように思えます。

 そしてもう一つが、他ならぬ私がマガジン9条の読者投稿欄において、伊藤塾長に向けて突っ込んでいたことなのですが、「立憲主義に特定の価値観を持ち込んではならない」というタブーを、いとも容易く侵すことです。
「本来は価値中立的な立憲主義という旗を掲げその下に集まるというのが、憲法論としては正解なのかもしれません。ですが、私はあえて9条という価値を持ちだしたいのです。そこに人類の希望を未来を感じるからです。」
というのが伊藤塾長の弁です。
 
この様な伊藤塾長に感化された当初のお玉さまは、彼の立憲主義に関する現実乖離がもたらす批判をそのまま受けてしまうのは、ある意味自然の成り行きだったのではないでしょうか?


 さて、「立憲主義に特定の価値観を持ち込んではならない」という考え方は、長谷部恭男教授の主張の受け売りなのですが、そのことについて、少々長くなりますが、明快に記述したものがありますので、抜粋してご紹介いたします。
 当方と致しましては、立憲主義と民主主義を考察するうえで、タイヘンに参考になる文章になると思いますので、宜しければ是非ご一読下さいませ。

(長谷部恭男著:『憲法と平和を問いなおす』P178より抜粋)
http://kiyosakari.blog105.fc2.com/blog-entry-15.html

 終章 憲法は何を教えてくれないか

 ヨーロッパでの成立の経緯に照らしてみればわかるように、立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公平に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である。そのためには、生活領域を公と私とに人為的に区分すること、社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないよう、自制することが求められる。
 立憲主義は、ありのままの人間が、自然に受け入れられる考え方ではない。少々無理をしなければ理解できないし、身につくはずのない考え方である。自分が一番大切だと思う価値観、自分の人生に意味を与えてくれる価値観を、みんなのためになることを議論し、決定する場には持ち込むなというわけであるから。
 しかし、そうした自制がないかぎり、比較不能な価値観の対立は「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。それは遠い昔の話でもなければ、ただのおとぎ話でもない。今も世界のいたるところで、そうした闘争はつづいている。立憲主義はたしかに西欧起源の思想である。しかし、それは、多様な価値観の公正な共存を目指そうとするかぎり、地域や民族にかかわりなく、頼らざるをえない考え方である。
 立憲主義にもとづく憲法――日本国憲法はその典型だが――は、人の生きるべき道や、善き生き方について教えてくれるわけではない。それは、個々人が自ら考え、選び取るべきものである。憲法が教えるのは、多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間に平和な共存関係を保つことができるかである。憲法は宗教の代わりにはならない。「人権」や「個人の尊重」もそうである。さまざまな信仰を持つ人々、無信仰を奉ずる人々が共存する術を教えるだけである。
 立憲主義は現実を見るように要求する。世の中には、あなたとは違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだという現実を見るように要求する。このため、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限界がある。現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるかにかかわりなく、ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立しうる平和主義ではない。
 別の側面から見ると、立憲主義的憲法は、民主政治のプロセスが、自分では処理しきれないような問題を抱え込まないように、民主政治で決められることをあらかじめ限定する枠組みでもある。根底的な価値観の対立を公の領域に引きずりこもうとしたり、大きなリスクをともなう防衛の問題について、目先に短期的考慮で勇み足をしないように、憲法は人為的な仕切りを設けようとする。引かれた線が「自然」な線など見えないという指摘は、反論にはならない。憲法が扱うさまざまな線のなかに、「自然」な線などどこにもないからである。「自然」な線ではないからこそ、いったん後退を始めると、踏みとどまるべきところはどこにもない。
 立憲主義は自然な考え方ではない。それは人間の本性にもとづいてはいない。いつも、それを維持する不自然で人為的な努力をつづけなければ、もろくも崩れる。世界の国々のなかで、立憲主義を実践する政治体制は、いまも少数派である。立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖である。
 本書(註:『憲法と平和を問いなおす』)をここまで読む進めた方は、国家の主権や国境だけではなく、人権や個人の尊重という観念の意味まで相対化されてしまったことに戸惑いを覚えておられるかもしれない。こうした観念は、いろいろな問題を解決するに際して、自分では考えないですませるための「切り札」として使うには便利な道具である。自分で考えるということは「……である以上、当然……だ」という論法で使われる、そうした「切り札」など実はないとあきらめをつけることである。
 そして、自分で考え始めた以上は、本書はもはや用はないはずである。願わくば、本書を踏み台にしてさらにすすまれんことを。

 (以上抜粋終了)


矛盾してます?
過去のエントリを読んでいない等の関連で、的外れかもしれませんが、立憲主義と、立憲主義だから個人の尊厳は絶対守られる(「悲惨な歴史」は作られない)はずだという事とは別の議論だと感じましたので、コメントさせていただきます。

憲法の目的が人権の保障と政治権力の抑制にあるとしても、その目的に反しない様な立法を、独裁樹立後なら被支配者の政治的自由を無視して行えば良いだけで、立憲主義下であろうと「悲惨な歴史」(抽象的で何を指すのか不明ですが)は作られる事になるのではないでしょうか。
問題は、憲法に反しないように立法出来た理論付けは何だったのかという事であり、独裁自体の危険性ではないかと思うのです。確かではありませんが、ヒトラーには立法権が与えられていたと思いますので、そもそも、「悲惨な歴史」は立憲主義の瑕疵云々の問題ではないと考えます。余談ですが、フランスで死刑廃止を決めた手続きは、実質単独の人間による立法という意味で、ヒトラーへ立法権を与えた間違いと類似性がありますが、結果はどうあれ、こちらへの無批判には疑問です。

立憲主義は大切ですが、例えばナチスのユダヤ人への根絶政策に関しては、法律と道徳の問題として考えるべきです。この政策も一応、法律に基づいて行われたもので、法律の瑕疵だからです。それに、立憲主義自体は別に道徳や倫理等の社会規範ではないですよね?主義で現象を理解出来るとは思われませんし、そんなに単純ではないはずです。


 まだ日本人には立憲主義を考える習慣がついていないと思う。一度も政権交代を選挙で実現したことがないのだし、・・・・

 立憲主義は連立政権を経験しないと国民に理解されないのではないかと思う。

 日本は幸か不幸、一党独裁に近い状態で六十年近く来たので、国民自身がもうどうでもいいやという気持ちになってしまったのだと思う。

 だから、与党のほうは立憲主義の意識がつかない間に、独裁国家をつくろうと必死なのだと思うな。立憲主義を完全に死滅させて、国民を奴隷状態にさせていたいという人がいるんじゃないかな?


本日2:00からガザ空爆の抗議行動
お玉さん、こんにちは。
今日12/30 2:00からガザ空爆の抗議行動があるそうです(麹町)主催団体不明。
ネットで見かけましたので、お知らせします。私は行きません。(というか政治的運動には参加したことはありません。また心情的には、ハマスを擁護し、アメリカ、イスラエルのみを罵倒するのは好みません。)
http://blogs.yahoo.co.jp/tocka_jikkoi/58108880.html
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo/47772097.html




立憲主義は自明か?
「私は日本人だ」
「私は日本国民だ」

立憲主義が自明か? という問いは、これら2つの断定が自明かどうかに関わっているように思います。

日本という国にはいろいろな出自の人がいますから、前者も一概に自明だとは言えないのですが、一応自明と言うことにしておきましょう。では、後者は? 右の人なら自明だというでしょうか? 国旗国歌斉唱に反対する左の人はどうでしょう? 私自身の感触でいえば、前者に比べて後者は自明度が低いと感じます。

自分が日本人であることは、日本語を話すこと等々、子供の頃から知らずのうちに自然に確認していますが、自分が日本国民であると認識するのは、それとはちょっと違いますね。後者は教育されなければなかなか認識しません。

立憲主義は、国民ひとりひとりが自らを国民と認識しなければ機能しません。ところがこれがなかなか難しいようです。得てして「日本人である」ことと「日本国民である」ということが混同される。ナチスや戦前の日本は、その典型例ではないでしょうか。

立憲主義は国権を抑制するための仕組み。国権とはすなわち近代主権国家です。近代主権国家とはおそろしいものですから、それを抑制するという考えは必要なことですが、その立憲主義を自明と考えることは、国民であることが自明であると考えることにつながり、そしてそれは日本人=日本国民という認識に近づいていく。これはこれで危険なことです。

では、国民である、ということを自明と考えず、自ら選択するべきか? そうした国家の危険度は、アメリカをみると決して低いわけではないですし、それに、国民でないという選択は実際問題として不可能に近いという事情もあります。



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