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何度も死刑廃止の話を書く意味。

 死刑廃止論を取り上げれば、何度も何度も同じ場所に立ち返って、議論をしなければなりません・・・・それってすごく大変なんだよね。でもこの問題はネット上に何度も出すべきことだお玉は思ってます・・・・・きっと、だからこそ、村野瀬玲奈ちゃんは死刑制度FAQを周期的にトップ記事に挙げているのよね・・

ネッドさん。

> 冤罪は終身刑でも起こりえます。
> これは運用上の問題であり、制度はあんまり関係ないんですよね。
> 終身刑の途中で死にました。実は冤罪でした。という事も起こりえるわけです。

だから冤罪で死刑になってもいいということでは、もちろんないですよね?
冤罪をなくすための話はまた別記事で書きたいです。

麻原をどうするのか?ということは、もちろんそれだけではなく、残虐な殺人犯のいた多くの国(はっきり言えば、ヨーロッパ諸国や韓国、アメリカの一部地域も含め)がなぜ死刑廃止に動いているか・ということにも絡んできますよね。
全員一致で廃止になんてなるわけは勿論ないよね・・・・・・

長いから読んでくださいなんて言える筋のものではないけれど・・・・ギロチンで公開処刑をしていたフランスがなんで廃止できたのか・・・

喜八ログより・・

バダンテール 死刑廃止演説

シンペイさん AWさん

コストを問題に語るのではまずいですよ。

意外でしょうけど、死刑は終身刑よりもコストがかさむのよ・・・・そんな・・税金かさむから死刑に・・なんて・・そもそも論点に持っていくのはとってもおかしいし・・・・

村野瀬玲奈の秘書課広報室より・・・

死刑制度のコスト

 かといって、AWさんの書かれている後半部分は記事に関係ない、死刑制度と結びつける筋が見えません。ちなみに・・・死刑制度存続している主な国ってあなたがお書きの「シナと北朝鮮」・・まあ、アメリカも一応そうですよね・・・・州によって違うみたいですけど・・あなたのお嫌いな国ばかりではないですか。

で、これもまた何度も書いてるかな?あなた方、死刑制度存続派は国民の8割もの方々に賛同を得ているのです。お玉もすぐに廃止になるなんて思ってない。

でも。だからこそ、死刑にすることですべてが解決するような印象を持たされて、実は再犯防止や被害者家族救済にメスを入れられることのないという部分にも、光を当ててみてほしいです。 

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(非公開コメント受付中)

まーくさんへ
ちょうどKYDさんへのコメントを書き終わったら「やりちゃんへ」が出てきて驚きました。声をかけてくれてありがとう。

>小さな視点で、殺人を犯したという理由で死刑にす
>るかどうかと動かない枠でのみ考えると、答えがな
>くなるという典型的な例だと思います。

私の投稿は、一つ前のキンピーさんのコメントを受けたもので、ちょっとややこしいんだけど、この後に「民主主義を否定する殺人をどう考える?」の一つ目のコメントに飛んで続いています。是非キミの意見も聞きたいな。この一連のやり取りは、ちっとも「小さな視点」なんかじゃないし、私の部分はともかく、キンピーさんの書いたところからは、大きな刺激を受けると思うよ。感性にもよるだろうけど。

キミのコメントは、一時ネット上に溢れ返った秋葉原の加藤英雄論の丸写しみたいで、何ら刺激を受けないし(やれやれまたか、という感じ)、

>現実は合理的である。無差別殺人にも三分の理がある。
>精神を錯乱状態においやる派遣労働をおしつけたのは
>無責任な大人たちではなかったか。

この部分は、ハジけたりせず、今も頑張っている他の派遣労働者の皆さんにとても失礼だよ。全く同じ論理で二二六事件の青年将校や地下鉄サリン事件の実行犯も肯定できることになるけど、それでもいいのかな。


KYDさんへ
>しかし重要なのは、信じさせることであって
>真実にそうであることではないのです

この社会が、幻想や何がしかのフィクションによって保持されている、ということはよく言われています。私はこの「幻想」という表現に接する度に、「騙されてなるものか」という発言者の並々ならぬ決意を感じます。

ところで、「核抑止力によって保たれる世界平和」もまたフィクションである、とは考えられないでしょうか。全世界を滅亡させることのできる怖ろしい大量破壊兵器こそが世界平和の源泉なのだ、というパラドックスが、何かにつけて疑り深い現代人の気質にこの上なくピッタリとフィットして、自ら進んで信じよう、という気持ちを沸き起こしているのではないでしょうか。

事程左様に、社会を保持するフィクションのトレンドは、時代につれて移ろいでいくものです。数百年の後には巡り巡って、「世に平安をもたらすのは、人々の善意と神の愛だ」なんていうフィクションがファナティックに受け入れられているかもしれません。私なんかは、変に背伸びしたりせず、そっちの方がよっぽどラクで自然なんじゃないのか、という気がしてならないのですが。


やりちゃんへ
 小さな視点で、殺人を犯したという理由で死刑にするかどうかと動かない枠でのみ考えると、答えがなくなるという典型的な例だと思います。

 ひとりの殺人者を捕まえて、殺された人の変わりに調子にのって正義をふりかざすことは、お調子もののそしりを免れない。

 今四秒にひとりが餓死している世界で、それらの死に向き合わない人がたくさんいる。考えても仕方ないといいわけをして、静かなる殺人を黙認しているう。もし、無差別殺人を憎むのなら、同じように自分のご都合主義も憎む必要があろう。

 それを可能にしている情報を伝えない、真実をゆがめることに異様な情熱を燃やす人たちに対しても同じような怒りをもやさなくてはなるまい。

 現実は合理的である。無差別殺人にも三分の理がある。精神を錯乱状態においやる派遣労働をおしつけたのは無責任な大人たちではなかったか。それを見返ることもしないで、弱者をこづきまわすがごとく評論することは人間のすることではないように思う。

 いいたいことは、関連するすべてのことに対して同じくらいの怒りであたるべきではないのかということだ。

 ひとりの弱者を評論して、さらに悪質な社会を作ろうとする理由にすることは人としてどうだろうかといいたいのだ。


社会を担保するもの
社会を担保するのは<幻想>です。
お金と同じです。
ただの紙切れを皆がありがたがるから紙幣というものが流通しているのと同じで、社会が存在するのは

「それが存在することが価値がある」

と<皆が思っている>からです。
どんなに優秀な警察も、市民がみんなで「やーめた」と言って好き勝手始めたらもう社会維持などできるはずもありません。
(よく「市民のご協力を」って言ってるでしょう?ゲシュタポだって密告者が居たから活躍できたわけで、市民の協力がまるでない警察なんて、<屁>以下です)

そしてどんな凶悪犯罪者でも<社会を崩壊させる>ことなど不可能です。
911テロの規模ですら米国社会は崩壊しなかったし、二度の原爆をもってしても日本社会を葬り去ることは不可能でした。それを個人で超える?あり得ません。

社会を崩壊させるのは<崩壊するかもしれない>という市民の不安です。<幻想>が失われたときがその社会の死ぬときです。
<死刑>が廃されたとしても、それどころかあらゆる刑罰が廃されたとしても、それで社会が崩壊することなどないと市民に信じさせることさえできれば、社会の存続には何の問題も無いのです。

もちろんお金が流通するのは<モノが買える>という現実があってのことであるように、社会に挑む者が適切に<処理される>という事実が無ければ社会を維持する<幻想>は保たれないでしょう。
しかし重要なのは、<信じさせること>であって<真実にそうであること>ではないのです。

人間の特殊性は思考を現実に、現実を思考にあてはめ、現実に即して思考を改変し、思考に従って現実を改変することにあります。社会はその産物の一つでしかありません。

自分の意志の力を信じ、互いの意志を尊重しあい、より良いと信じる方向に向かって歩む。もちろん人によって何が「良い方向」なのかは異なるでしょうが、人間ができることはそれだけだと思います。

毎度のことですが、長文失礼致しました


キンピーさんへ
>死刑に頼らない制度を考える時、何を以って私たちの社会を担保するか

例えば、「人を殺してみたかった」というような恐ろしい通り魔から私達を警察が守ることができない。「そんなことをしたら死刑になるぞ」という司法システムが機能しない。もしそんなことになったとしたら、それは社会契約の債務不履行ということになりますので、国家に一元管理を委託した暴力の返還をめいめいが請求し、自分の身は自分で守る銃社会のようなものを確立していくしかないのではありませんかね。

法律というものは本来最低、最小限のラインの筈で、かつての社会では、その上位に宗教的戒律や道徳、オキテ、タブーが存在していました。「邪魔っけだ」「窮屈だ」とそれら上位のものを取り払うのなら、それを補完するものを手当てしなければならないのに、法律をスッ裸に剥いてしまったところに病巣があるのではないでしょうか。法律、刑罰(死刑)だけでは社会は担保できません。法による支配と法治主義は同義語じゃないから。


昨日の雑談で出てきた言葉
「これやったら総理大臣殺っても死刑にならんちゅうこっちゃ」

市長殺害は単なる殺人事件ではなく民主主義の否定という面もあります。
また民主主義の否定ではなく、私たちの社会を否定するような殺人事件もあります。
個人的な問題で殺人に至ったのであれば、生きて悔い改めるという方法もあるでしょう。
しかし社会に影響のある殺人の場合はそれだけでは足りないように思います。

死刑に頼らない制度を考える時、何を持って私たちの社会を担保するかが議論になりますが、この答えはリベラルよりもむしろ真っ当な保守が持っているのではないでしょうか。


お願い
伊藤前市長の減刑判決についての記事を書いて下さい。

このブログの大きなテーマがぶつかっています。


シンペイさん>
前に海外のニュースで、終身刑になりたい為に犯罪を犯そうとした人が、犬と遊んでたら会心したというのがありました。

http://news.kogenta.ciao.jp/?month=200406

なので、「死刑になりたくて犯罪起こす人がいるから死刑は無意味」とうのは終身刑でも起こりえます。

犯罪抑止力、というのに関して私が思ってる事を書きますと、

・死刑になるのは怖い。
・怖いという感情そのものが抑止力。


と考えています。死ぬのが怖い一般人には有効に働きます。
これって戦争にも言えることで、小さい頃から戦争の悲惨な写真や映像を見せられれば、「戦争は怖い。戦争は反対」となります。
これも抑止力です。
ですから、死刑に抑止力が無い、と言っている人は、死刑は怖くない、と言ってるように見えるんですよね。


それって違うと思う
時折「死刑になりたくて犯罪起こす人がいるから死刑は無意味」
って主張する人いますよね。
でも死刑に限らず「外では生活できないから」と刑務所に入るために
犯罪起こす人というのも決して少なくないでしょう
っていうか多いでしょう。
ならばそういう主張する人は犯罪抑止力にならないから
全ての懲役刑を廃止すべきだ、と考えているのだろうか?


更生したことを判断しうるか?
皆さんのコメントを読んでいて雑感を少々。

KYさんの視点は面白いですね。確かに「更生できる」というのは信仰に過ぎないと私も思う。

人間の「理性」と言うものを信じれば、必ず更生できる”はず”なんでしょうが、人間の「理性」って当てになりませんからね。

個人的な受け止めですが、死刑廃止派の人たちは、どうも「人間の理性」というものに疑いを持っていないような気がします。

>基本的に「どうすれば償った事になるのか。更正したという事になるのか」の基準が無いし、償いも更正もする気が無い人間はどうするの?という疑問

ネッドさんのこの疑問には私も興味がありますね。

死刑廃止派の方々は、更生させることが出来ると考えているのかも知れませんが、そもそもその人間が本当に更生したかどうか、他人が理性的に判断できるものでしょうか?できると考えているのならいささか傲慢であるような気がしますが。

新聞で見かけたことがありますが、公判中は反省の態度を示していながら、死刑を免れるやいなやそうした態度を翻したケースもあるとか…。

私もそうした「反省が足りない」犯罪者などをみると、当然許せない気持ちになります。
そこで思うのですが、日本人って特に「反省」に拘るような気がしませんか?

「本当に反省しているかどうかわからない、そんな不安を感じるくらいなら、死んで償え」というのが死刑存置派の考えにあるのでは(いささか乱暴ではあるが)。

逆に死刑廃止派の人に、「もう反省しているのに死刑にするのは人道的ではない」という考えもあるでしょう。

いずれも「反省」が基準になっているような気がするんですが…。

この「反省」が見極められるような「具体策」が死刑廃止派から出てくれば、いずれ死刑廃止ということになるかも…。

なんか取り留めがない書き方ですみません。


どうせ死刑をするのなら
はじめまして、風、と申します。

極左です(笑)

ず~っと前から、ちょいちょい覗かせてもらってました。

作家・森巣博氏の死刑論をTBさせていただきます。
私も、氏にほぼ同意です。。。


人間が変えるとか
>「結局、人間が変わらなければ、何も変わらない」ということです。
人の性質が変わることだけを期待するのは無駄だと思うのですが、制度でも仕組みでも、つくるのは人間、変えるのも人間。その根本となる動機を形成するために、行動があるべきだと私は思います。それは対話であってもよいし、身体を使うことであってもよい。自分から積極的に関わろうとする意思さえあれば。そして、それらの行動を通じて自分の感覚を磨いていくことが、他者とともに生きる仕組みの基礎をつくるために重要だと。
 ダメだと言っても仕方がない。人の価値は、その人自身が気づかなければならない。その手助けをするのは、周囲の人々なのではないかと。死刑となる人間も、人間としてダメだといって済ませるべきかどうか。そのように行為したことで自ら社会的な関係性を失った。それを選択したこと自体を問うべきで、それを後悔してもしなくても、起きたことは変わらない。果たして、関係を壊すこと自体、避けられるものだろうか。憎悪を抱いて生きる人はたくさんいます。それと、実際に人を殺めた人間とは雲泥の差なのでしょうか。だとしたら、どこが、どう異なるのか。
 面倒をこの世から抹消するだけで解決するというのは、まあ、すごく手抜きな話だとは思います。わかりにくいコメントを失礼。


コウトさん
貴方が仰っていることは「結局、人間が変わらなければ、何も変わらない」ということです。
そうかもしれません。
また行動することも大事でしょう。
いや、とても大切なことだと思います。

ただ人間はサルとは違って想像力というものがあります。
また書物を読み、対話をしながら想像からリアリティに触れることも出来ます。
行動に移す人はそれはそれで素晴らしいのですが、そうでない人はダメなのではなく、想像したり会話をしながら、解決の糸口を探ることも重要なのではないでしょうか。
その後にまた行動に移すか否か考えれば良いのですし。

能力がありながら、行動はもとより想像すらしないのは、ちょっと救いがたいかもしれません。

死刑制度についても、実際行動に移される方は良しとして、そうでない人はまずは想像と対話から始めればよろしいのではありませんか。


キンピーさま
要はですね、権力というものが我々にあると言ったところで、実際にそれを実感できないじゃないか、というのがほとんどの人の本音だと思うんですよ。主権者である、国家を動かしていくのは私たちであるとか言われても、そんなの口上に過ぎないよね、せいぜい雲の上の人間の悪口を言って憂さを晴らすだけしかできん、自分に何も力なんてない、と。それはある意味当たっていて、なぜならば多くの人に、他者とともに力を合わせて暮らしを変えていこうという気持ちが少ないからだと思います。自分だけの利益をかなえてくれる他人がいないから不満だ、という程度の意識が広くあることが問題なんです。
 話がそれていますが、死刑制度を考える上でも、国家の制度におんぶして自分たち自身の行動や生き方を顧みることのない私たちの意識が、問題を彼方に押しやっているともいえます。極端なことをいえば、死刑宣告を受けた囚人に寄り添って日々話し相手になるボランティアを考えてみればいい。そういうことを私たちが必要だと考え、実際に行動に移すならば、物事は変化していくことでしょう。現実にそれが可能かどうかが問題ではない。そういうことが大事であり、必要であると私たち国民が判断し、それを実際に行動で示すことができるかどうか。私たちがその種の勇気や誠意というものを持っているかどうか。そういうことじゃないでしょうか。


KYさん
死刑制度の有無に宗教観というものが影響していだろうことは否定しませんが、それが特定宗教によるものであると断定できるほど、単純なものではないように思いますが。
死刑制度を廃止している国をみると、そう言わざるをえません。

それと中国でも戦前の日本レベルの宗教の自由は認められておりますし、国教が無いのは現在の日本と同様であり、また国教を置かず、なおかつ多宗教の国で死刑制度を廃止している国があることを考えれば、やはり西欧の宗教観の影響をもってスッキリバッサリできる話でもなさそうです。


KYさん>
日本が昔死刑廃止してた時期があるのですが、その理由がそのものずばり「祟りが怖いから」でした。
恨みを持って死んだ人間を神として祀るのもその理由です。

最近の日本を見ていると「外圧」で死刑廃止が決まってしまう不安があります。
まだアメリカが死刑廃止してないからなんとかなってる状況に見えるんですよね。
アメリカが死刑廃止の方向に向かったら、日本も否応なくつき合わされそうです。


信仰
死刑廃止は<信仰>です。
その教義の建前が失われるか、布教の主体(EUとか)が失われるまで広がることでしょう。

そもそも<人命が何よりも尊い>という思想こそ<信仰>で、現実的な理由付けはありません。
社会のほうが尊いのだから社会に不適合な人間は処分する、というアイデアのほうがずっと古くかつ生物学的に自然でしょう。
(エコはこのアイデアに基づくものです。人権とエコは自由と平等のように本来両立し得ない考えです)

神を信じない中国が死刑存置なのは当然ですが、中国と違って形ばかりは西欧化した日本が、西欧の信仰にどれだけ影響されて死刑を廃止するのかは、西欧文明の影響力を見る上で良いサンプルになることでしょう。

おそらく死刑を廃止するか存置するかで、将来的に日本が欧米文化圏になるのか中華文化圏になるのか占うことができるように思います。


死刑廃止派の人に聞きたいのですが、基本的に「どうすれば償った事になるのか。更正したという事になるのか」の基準が無いし、償いも更正もする気が無い人間はどうするの?という疑問があります。

この辺具体的に考えられてるのでしょうか?


コウトさん
コウトさんの書かれた内容ですと、私は100%死刑廃止にシフトしてしまいそうです。

民主主義社会では権力は私たちです。
建前では。

建前で権力の維持のための死刑存続を考えるのであれば「その前にやるべきことがあるだろう」ということになりますし、本音の部分で権力の権力のための維持を考えれば、全く持って死刑存続に賛成できません。


ほらバカモノがきた!
バカモノは自分のことなんで、誤解なきよう。笑

難しいことは書けないと開き直っておきます。死刑とは、社会の構成員がその秩序に極度の不安を抱くことのないよう、権力側が示すガイドラインのようなもの、と言ったらおかしいでしょうか。ここまでやったらこの世から追放だ、と、いうこと。そうして、全体の安定を保とうとするわけです。逆に言えば、秩序を乱すことを許しておけば権力は解体する。
 さて、そうではなくて人道的な面で死刑の是非を考えるとすると、人間の持つ善悪をいかに相手にするかの問題と向き合わねばならない。悪を抹消せずに変化させうるのかどうか。それが更正だとか償いだとかの意味合いなわけですね。そこで、権力により善悪を決定されるべきではないという論も出てくる。善とか悪というのは個々人の関係性に拠るのであって、本来影響を及ぼすべきでない権力が裁くものではないよ、とか。ただ、私たちは権力による統治なしで安定した社会を営めるだけの実力を持たないので、ある程度理不尽であっても外部からの強制を受け入れるしか手がない、とも考えられる。それがすなわち多数の人道的なありようを保障するための権力の存在および干渉の容認、というところでしょうか。

かなり稚拙なコメントだとは思いますが、他の人との理解をつなげるために少しは役に立たないかな?とか思ったりして。


KYさん
それであるなら、「死刑になりたくて人を殺した」。
自暴自棄になった人間が、「大量殺人」。
なんて事件が後を絶たないと思いますが。

死刑存続にそのような理屈(国家の義務や慈悲)があり、尚且つ国家権力がそれをもって、死刑制度存続の正当化をはかるのであれば、今よりさらに死ななくても良い命が死ぬことになりかねませんから、死刑廃止に大きくシフトしなければなりませんね。


本当に人道的?
死刑になるほどの犯罪を犯した者に罪の重さを知らしめて反省させ続けるのが、本当に<人道的>なのでしょうか?
いっそ殺してやるのが<慈悲>なのでは?

かの「1984」で、政治犯が受ける最高の刑罰は、心の底から体制を賛美するように洗脳されたうえで殺されることでした。死刑を廃止して全ての罪人に反省と更正を強いるのはそれと変わらないのではないでしょうか?

国民が死刑を望み罪人もそれを望むなら、それを与えるのが国家の<義務>であり、<慈悲>なのではないか、とそう思います。


KYさん
死刑廃止の議論というより、社会全体・刑法全体の議論になってしまいますが、そういう懸念はあります。
またそういう人間の臭いのしない、西欧の人間性を科学的だのともてはやした時代もありましたし、社会主義国では顕著に表れました。
基準は違いますが、戦前の日本だって「あるべき人間像」が捏造され、それから外れる者は転向の強要をされたわけですし。

ただそういう視点にたてば、法が間違っている可能性を強く意識せざるをえず、死刑執行は留まるべきという結論になりますが。


<更正>の絶対化
死刑廃止は<全ての人間は更正できる>という信仰と<全ての人間には価値がある>という信念から導かれる論理的結論だと思うのです。

ならば、全ての犯罪者は<罰を受ける>代わりに<治療を受ける>べきであり、罰金や禁固や懲役もまた廃止されるべきでしょう。
被害者への補償もまた<社会の責任>として国庫負担で為されるべきものであり、<犯罪>という言葉は禁止されて<病理>という言葉で置き換えられるべきものとなるに違いありません。

ただそうなったとき、「<正常>ではないが<違法>ではない存在」はもはや許されなくなるのではないかという危惧を私はもっています。

児童ポルノ規制法に見られるように、2次元の絵を描いているだけの、具体的な犯罪行為に走っていない人たちまでも<規制>の対象になるのはつまり<正常ではない>から、<異常>だから、<更正させなくてはならない>、そういうことでしょう?

なら刑罰が廃止され、<正常ではない人には適切な治療を与える>社会になれば、<政治的に正しくない人>たちや<文化的に正しくない人>たち、<性的嗜好の正しくない人>たちが<治療>されるのもまた論理的に必然ではないでしょうか?

<全ての人間は更正できる>のだから、<全ての人間には価値がある>のだから、人間は正しく導かれ<正しい人間>になるしならなくてはならない。そうなれば政府なり民意なりが決めた<正しい>人間のあり方に反する存在は全部強制的に収容されて<治療>される、そういう世界になるのではないかと危惧するのです。

欧州のようにキリスト教の信仰(人が人を裁いてはいけない、人は人を許さなくてはならない)に則っての死刑廃止ならまだわかるのですが、日本の死刑廃止論議には<更正>の絶対視と<社会責任>の極大化による個々人への過干渉が台頭する余地が十分にあるように思います。

杞憂ならばよいのですが、私はあまり楽観していません。死刑囚という突出した存在が消えれば、庶民にくすぶる「世界が悪いのは誰かを十分に罰していないからだ・罰さなくてはならない」という感情の矛先は広く浅く向かうだろうからです。


お玉さん>
自分が加害者になるかもしれない、というのはあるでしょうけど、「死刑になるほどの凶悪犯罪を起こす可能性があるか?」となるとまず無いです。
日本で死刑になる=よほどの凶悪犯罪を起こす、ですから、緊急避難的に人を殺してもまず死刑になりません。
情状酌量などもありますし、精神鑑定で責任能力が無かったと判定される事もあります。
ようするに死刑になる人ってのはもう人間的に欠陥があるとしか言い様が無いわけです。

まあ1000年前に死刑無かった時代があったよ、という事を知らない人もいると思うんで。

冤罪で死刑、というのはやはり冤罪自体を無くすような運用を考えるべき話であり、死刑とはやはり別問題な気がします。

それと犯罪率ですが、カナダの事例でなかなか面白いページを見つけました。

http://www.geocities.jp/aphros67/090620.htm

このページにあるように、犯罪率は恣意的にデータリークされている可能性があります。
まあ上述したように犯罪率は死刑制度が一番の原因とは思えないんですけどね。


明日は、PCの前にほとんどいられないので・・・・久しぶりに珍しくコメントだいぶ書いたけど、あとは記事の中で書くことになるかな?

じゃあね、


ネッドさん・・いいところついてるかも・・
お玉も日本として独自に考えるべき点もあると思ってる。でも、お玉自身のベースはこれだから・・
http://potthi.blog107.fc2.com/blog-entry-60.html

あと、いくらなんでも千年前の話は出す意味がないのでは・・?

それと・・亀井静香さんが詳しくどこかで述べていたけど・・・・冤罪で死刑になった人がいるであろう以上、この制度、このまま法務省のいいなりに、今のペースで死刑を執行してもいいということにはならないと思うんだ・・


連投になりますが。

>でも。だからこそ、死刑にすることですべてが解決するような印象を持たされて、実は再犯防止や被害者家族救済にメスを入れられることのないという部分にも、光を当ててみてほしいです。

再犯防止、という点なら死刑が一番確実です。
被害者救済、というなら、死刑か終身刑かを選べる方が良いと思います。
どちらかでは救われない遺族が出ます。

犯罪抑止力、という点では、死刑は一般人に対する抑止力にはなります。
どのみち凶悪犯罪を犯す人間に関しては、どんなものも無駄だと思ってます。
犯罪率に関しては、経済的な問題、思想的な問題、調査的な問題等が絡んできますので、一概に言えないんですよね。
経済が悪化すれば基本的に犯罪は増えます。
移民が増えて軋轢が多くなれば犯罪は増えます。
そもそも戸籍制度を採用してる国が少なく、調査もおざなりな国だってあります。
死刑廃止や存続が一番の原因とはまず考えられないんですよね。


お玉さん>
>だから冤罪で死刑になってもいいということでは、もちろんないですよね?

もちろんです。ですが、冤罪は死刑とは直接の関係が無いんです。
冤罪を防ぐのはまた別の問題であり、死刑とごっちゃにすると論点がずれる気がするんですよね。

>麻原をどうするのか?ということは、もちろんそれだけではなく、残虐な殺人犯のいた多くの国(はっきり言えば、ヨーロッパ諸国や韓国、アメリカの一部地域も含め)がなぜ死刑廃止に動いているか・ということにも絡んできますよね。
>全員一致で廃止になんてなるわけは勿論ないよね・・・・・・

国によって事情が違うんですよ。
日本は犯罪そのものが他の国に比べて少なく、犯人を出来るだけ射殺しないようにします。
海外では凶悪犯罪は珍しいものではなく、危険な犯人は射殺も珍しくありません。
宗教的な問題も絡んでいます。
日本は日本独自の価値観ややり方があるわけです。
他国がこうだから、という意見は臓器移植で言ってる事と矛盾してしまいますよ?

ああ、そういえば日本も死刑止めてた時がありました。1000年ほど前ですが。
その時は野盗が増えて治安が悪化したという話です。
古すぎて参考にならないかもしれませんが、そういう事もあったと。


>犯罪抑止力としての死刑制度という側面も考える必要がありますね。

たとえ抑止力があったとしても(でもねえ・・そうでもないと思うよ・・そういう国やそういう時期が一時的にあってもずっと凶悪犯罪率が上がってるデーターなんて、あったっけ?)
死刑廃止論者であることに変わらないんですけどね・・

とりあえず日弁連は、アメリカでは死刑廃止地域よりも死刑存続地域のほうが殺人発生率が著しく高いと言ってます。http://www.nichibenren.or.jp/ja/committee/list/shikeimondai/q10.html

それとね・・抑止力のあるなしで死刑を語ることは、お玉はちょっと違うと思っているのよ・・
また時間を見つけて書いてみるけど。


どうも、コストの部分を読ませて頂きました

お金のコストだけではなく感情的、心理的コストを考慮した結果死刑の方がコストが大きいと言っている以上
税金を問題にした場合は死刑と終身刑どちらが結局どうなるのでしょう?ソースもそこの所が抜けているようです

どうやって感情コストを金額換算したのか知りませんし日本ではどうなるかわかりませんが
ざっと英文ソースを読んだ所その辺書いてないんですよね。

例えば殺人事件の死刑求刑の場合の裁判費用を終身刑等他の求刑と比べかなり多く(8倍)見積もっているようなので
裁判を簡素化したのか死刑求刑の場合の感情コストが余程高く見積もられているのかどちらかだとは思いますが、まさか求刑に応じて裁判を簡素化する訳ありませんからそれを感情コストとすると
感情コストは死刑の場合実費用コストの7倍ある事になるんですけど、そういう計算の結果全体として死刑の方が高くなるという結論なのでしょうか?

別に私はお玉さんと同じようにコストが安い方が良い悪いという議論は畑違いだと思いますが
どうもこの部分が釈然としません。

私自身は死刑廃止存続以前に殺人を犯した精神異常者に対する扱いが日本では適当すぎる部分により感心がありますけどその辺の議論はとんと見ませんね


犯罪抑止力としての死刑制度という側面も考える必要がありますね。

ちと今、手元に資料がありませんが、死刑制度を廃止したとたんに犯罪の発生率が上昇した国があったはず・・・

資料、見つけたらまた書き込みます。



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