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民主主義を否定する殺人をどう考える?

拍手の数は足りないけどさ・・気になって眠れないじゃんか~~

やりちゃんの宿題はむずかしい・・・・・

伊藤市長射殺事件の衝撃の大きさ、悲しみ・・あの日なんとか助かってほしいと祈っていた多くのブロガー仲間のことを思い出しました。

そのうえで今回の減刑判決をどのように書けばいいのか・・・お玉分かんないし~いつも、書きたいことだけ書いてるから~ごめん、書けないよ~~と逃げる算段(おい)をしていた時・・

キンピーさんのコメントにもっと考えなきゃと思わされた。

昨日の雑談で出てきた言葉 
「これやったら総理大臣殺っても死刑にならんちゅうこっちゃ」 

市長殺害は単なる殺人事件ではなく民主主義の否定という面もあります。 
また民主主義の否定ではなく、私たちの社会を否定するような殺人事件もあります。 
個人的な問題で殺人に至ったのであれば、生きて悔い改めるという方法もあるでしょう。 
しかし社会に影響のある殺人の場合はそれだけでは足りないように思います。
 

死刑に頼らない制度を考える時、何を持って私たちの社会を担保するかが議論になりますが、この答えはリベラルよりもむしろ真っ当な保守が持っているのではないでしょうか。
  • [2009/09/30 10:16] 
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  • キンピー
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キンピーさんはたしか死刑廃止論を肯定していたと思うのね・・・その立場からこういう意見を書き込んでもらえるとき、この4年間お玉ブログ続けて、よかったなって思えるの。民主主義や社会を否定するような殺人事件。たしかに市長殺害はそういう種類の殺人だとお玉も思います。

死刑を廃止したフランスなんか、このあたりをどう考えてるのかかなり興味あるけど・・・・・よくわかんなかった・・村野瀬さん、また教えてください~~・死刑廃止論を何度も書いてきたけど、その中の議論でもこういう話は出てきたことなかったように思います。

たとえば罪にならない殺人として「戦争の中での殺しあい」があると思うのです。民主主義を否定する殺人とは、なにかしら、このま逆に位置するようにも感じました。

お玉の思う真っ当な保守の中には死刑廃止論を強く望まれている方もいます。お玉もキンピーさん同様、ほんとはそういう方にお話をうかがってみたい。そんなお題になりましたね。

言うまでもないと思いつつも・・釘ささせてもらいますけど・・いわゆる少年犯罪や凶悪犯罪の話はしていない・・それは別所で何度もしている。混ぜないで議論してほしいな。

ちゅうことで、やりちゃん、論じたい部分があればあと、よろしく・・(結局丸投げかい!!の突っ込みが聞こえる・・)

次の記事は気がむけば書きます~~~^^

 
Secret
(非公開コメント受付中)

理性は何のためか
古き良き田園風景を求めているわけではないですが、そう受け取られたということですね。

わざわざ「他人」との関係構築と書いているのは、よく見知った顔の見える関係ではないということです。こうやってネットで対話する相手も「他人」ですが、そういう相手にのどかな連帯を求めることなどできませんよね。

ネット上では邪魔な相手は排除できるかも知れないですが、現実に暮らす上で他人を排除するのは、そうたやすいことではありません。互いの絆の深い村落共同体ではさまざまな形で仲間への帰属意識の強制があると思いますが、都市に暮らす人々にはそれは薄い。ですがそれでも、互いの心がまったく交わらないままで社会をつくっていけるのかどうかが問題だと考えています。

イデオロギーや信仰心、あるいは欲望など、他人同士を結びつける道具はいろいろありますが、たとえばみなが安心して豊かに暮らしたいと願っているにも関わらず、互いにその心を結び合わせることはさほどできていません。それをどうにかするしか手はない。それとも、他人の不幸は我の幸として、生存競争の厳しさだけを真として暮らしていくのかということですよね。

誰も、人との関係を豊かにすることなくして本当に満ち足りた人生を送ることはできない。それを考えると、道はいかに困難であっても進むべき方向は理解されると思います。


にこちゅうさんのコメントは自然主義的誤謬の典型ですね。
実に科学的です。

http://potthi.blog107.fc2.com/blog-entry-724.html#comment11852
このコメントを理解できるまで読み直されてはいかがでしょうか。


>なにしろ中世末期の「王侯貴族を高く吊るせ」が左翼の発祥ですからね。


 ほほう、では死刑に反対する人は王党派のわけですね。やりちゃんは王党派?

 やりちゃんの主張は、
「左翼は死刑を要求する」
であって、これが即
「死刑を要求するものは左翼である」
にはなりませんね。

 「左翼」は「死刑を要求する人」集合に含まれた、部分集合ですね。

 もっとも、お玉さんやキンピーさんが死刑に反対してるとすると、「左翼」でありながら「死刑を要求する人」に含まれない差集合が存在するので、やりちゃんのいうのは「左翼」かつ「死刑を要求する人」という積集合に限定されるんじゃないかと思います。




>キンピーさん   (は鏡に向かって保守を探してるみたいだ)
やコウトさんの話を読む限り、サヨク(の一部)には古き良き田園風景への懐古趣味があるようですけど、
まそれはさておき、

 根源的なところを探ったって、大したものは出てこないと思いますよ。犬や猿だって集団で暮らす生き物には、虐待や差別、同族殺し、政治闘争があるし、これといってトップのいない(つまり権力者による搾取がない)未開民族でも同様ですから。

 生き物たるもの、楽をしたいし、殖えたいし、邪魔な奴にはどっかいってもらいたいのです。

 その根源的な部分を制御するために人工的な掟を作ってきたわけで、自縄自縛するんだから不快に感じて当然です。
 民主政治なんて最たるもの。
 話のわからない奴と延々説得して揚げ足とって罵りあって決めましょうというんであって、はらわたが煮えくりかえり続けること疑いない。
 でもそうでもしないと、こん棒で殴りあう時代に戻ってしまうわけで、それはやめましょうというなら、我慢するしかない。

 人の情からすれば、がたがた云う奴はとっとと刺し殺したいんですよ。ニューギニア高地で調べものした西丸震哉氏が、振られた腹いせに女性を殺し、食った人物の話を書いています。彼は著者に、どんなに腹が立ったか熱弁するわけです。近所の人ももっともだという。実は肉は彼らにも配られていて、買収されたとも罪を共有したともいえる。しんだ女性の旦那だけは食べていない。なぜ食わなかったんだと訊くと、そっぽを向く。この件に関して下手なことを云うと、孤立しますからね。(そしてここは世襲の支配者のいない、最も人が人らしく生きられる土地ともいえます)

 西丸震哉氏の本や『石斧と十字架―パプアニューギニア・インボング年代記』とか読むと、ああ、この人たちって小学生がそのまま大人になったような人たちだ、付き合いも戦争も強姦も殺人も、実に稚気満々にやってるな、と人間の根源的なものを見るようなんですが、そしてそれでちゃんと社会は存在できますけど、住みたいかというと微妙。(進取の気に富む人々なので、今も上のままではありません。それが『年代記』の主題)

 つまりキンピーさんの希望を満たすには、人間心理に適合し、なおかつ全体のまた個々人の幸福をかさ上げできる新ルールを開発し、これを説得によって全員が共有するまで広める必要があると思いますが、仮にこれが可能として、必要な時間は集団の規模に影響されますよね。

 たとえば社会が二人から構成されるならつながる線は1本ですが、4人なら6本、10人なら45本? 1億人なら4999999950000000本? ともかくたくさんの会話が必要になり、ほかに別の信念を持つ人がいれば、その人も説得してるわけで、全体が一つの「純化された常識」を共有する日は非常に遠くなります。

 短期間で共有させるには権力を掌握し、強制的にその枠に嵌めるのが一般的です。定時出社を怠ったらシベリア送り25年とかですね。

 というか、こうしたことは古今、宗教というものが繰り返しやってきたことですが。
 最善のルールを発見したと思った人がまず周囲を説得し、次いで地方権力者を味方とし、中央権力を把握し、異端異教を消去するという形で。
 問題はそのルールが所期の効果を上げなかった場合。変更が大変難しい。
 さらに排除や抑圧や疎外を伴うのがふつうであり、今回の条件とは外れるはずです。


 では、小集団でなら可能かというと、あるいは可能かもしれません。

 南洋に孤立したティコピア島というところがあるのですが…

 長すぎますね。今回はこれまでとしましょう。


やりちゃんへ
戦前戦後は地続きだと。
ポツダム宣言にも民主的傾向の復活と書かれているではないかと。
私も「戦前戦後は地続きである」という立場なのですが、それより以前の明治維新よりもっと前から続くものや、大切にしなければいけないと思っているものはなんだろうと思うのです。
そういうものを確認して、保守の方々が“今”をみた時、はたして本当に「人間の住む社会に相応しい社会」だと言えるのか。
大いに疑問なのです。
サヨクの立場からすれば、やれ「所有権の回復だ」、やれ「個人の自由な発展と運動を確保せよ」となるのですが、たとえそうであったとしても、やはりそれはそれぞれの土地や共同体に根ざしたモノでなければ受け入れられない。

私が勝手に考える保守の立場とは、移ろい行く時の中にあっても、様々なものが幻想だといったとしても「これだけは確かなものだろう」ということを探求する人たちのことだと思うのです。
そして現在は核武装論者が堂々とNHKで発言できる時代です。
保守の立場からしてまだまだタブーはあるのかも知れませんが、敷居が低くなっていることも事実でしょう。
そういった中で保守の立場から、やりちゃんのような方がもっと出てきて「これだけは大事にしていこうじゃないか」と、もっと言って欲しいのですが、“科学的”保守の方々が目につくのが残念でなりません。。

死刑制度と平行して語られるのは、その代替としての終身刑ですが、そんなものは表面上のものにしか過ぎず、本来の目的である安心できる社会を考えた時、平行して語られるのはやはり保守の方からの言葉だと思うのです。


キンピーさんへ
保守の立場からすれば、オキテの形成とは、名工が木材や石材から、心の眼で見出したものを彫り当てていくかのような日々の発見の集積である、といったところでしょうか。この立場を出発点とするのであれば、テレビのお料理教室みたいに「でき上がったのがこちらで~す」というように横から違うものを出してくるべきではありません。本来は。

私には、このオキテの発見作業の方こそ抑圧されちゃっているのではないか、という気がしてなりません。伊藤真氏は、一国の憲法である日本国憲法が全世界をも視野に入れていることは画期的だ、ということを言っていますが、実質封印されてしまっている教育勅語にも、同様の記述はあります。社会のアイデンティティと密接にリンクしているオキテの発掘において、あれも禁じ手、これも禁じ手と制約が多すぎては絵空事です。「ポツダム宣言ですら『民主的傾向の【復活】強化』と謳っているじゃないの」というのもやりちゃんの口癖です。到達点は同じところだとしても、根源的なもの、普遍的な価値観に至る道のりを自ら見つけて歩まないことには、オキテとしての正統性が実感できず、その効力は限定的になってしまいます。何もゼロまでリセットせずとも、戦前戦後は地続きなんだ、と確認するだけでいい。

排除、抑圧、疎外についてですが、保守思想では、国家対個人という図式ではなく、企業、ムラ、部落、家族というような様々な中間組織の重層的な並存を尊重します。たとえ企業ではダメ社員だとされていても、消防団の活動では一目おかれる存在だ、というようなことがあれば、疎外感を緩衝できるのではないでしょうか。代議士一筋で生きてきて、選挙に落ちてそのまま亡くなってしまう、というのは悲しすぎる。かつての同僚、同級生や家族、ご近所のつながりがその人を守ってやることがあってもいいのではないでしょうか。

余談

昨日、スーパーのレジ付近にガムや乾電池みたいに置いてあった「カルメン故郷に帰る」のDVDを衝動買いしました。五全協の頃の映画です。佐田啓二(中井貴一のパパ)演ずるイケ面教員よりも、意外なことに笠智衆演ずる校長先生の方が大活躍をしちゃいます。地元有力者の理不尽な振る舞いに対峙、蜂起する住民、というような外国映画的な展開に至るのではなく、周囲の尊敬を集める校長先生がまずは意見する、良心の権威となる、というところが実に面白いと思いました。(1000字)


やりちゃん

言いにくいことを書いていただきありがとうございます(笑
血まみれの手のままで(流派として)マイクを握り、死刑反対を声高に叫ぶ度胸は私にはありませんから。
ただ、死刑に頼らなくとも良い社会とは、それは多くの人にとって住み良い社会ではないか。
そう考えるのです。

ここで勝手に話を戻させていただきます。
私は「前近代的な掟では役に立ちそうに無い」という意見ですが、やりちゃんは有効で有るか無いかが問題だと仰いました。
その点は同意しますが、しかしその掟が排除や抑圧や疎外を強めるものであれば、必ず私たちのコモンの内部に外部を作ってしまうことになると思うのです。
そして前近代的な掟には、抑圧や疎外が隠ぺいされているとするのがサヨクの立場でして、やはり今でもそう思うのです。
「うまく出来ているなぁ」と。
だからといって、人工的に作った掟はお腹イッパイなので、しばらく食べれそうにはありませんし、それよりももっと根源的なものを拾い出し、再確認する必要があるのではないか。
そう思うのですが、保守の立場からすればどうなんでしょう?


隷属を帰属と読み替えれば同じこと
コウトさんのコメントが、とてもよくまとまっているのではないでしょうか。共同体は、その外殻となる規制、刑罰のみでは存在できず、触媒となる共通の価値観が必要になります。それはしばしばフィクションで希釈されていますが、漸進的に純度を高めることは決して不可能ではなく、そのことはリスク軽減につながります。死刑制度の是非よりこっちの方が早道だね、というわけです。これらはとても保守的な発想なので、左翼のシューティング・スターたるキンピーさんが「こちらから言うことではないが」としきりに前置きしているのでしょう。つまり「死刑!死刑!」言ってるネットウヨクは、実はかなり左翼的だ、ということになります。なにしろ中世末期の「王侯貴族を高く吊るせ」が左翼の発祥ですからね。


>罵愚さんへ

>行政への不満を暴力で晴らした粗暴犯

世間一般ではそれを「政治テロ」とか「民主主義への挑戦」とか言ってる訳です。そこまでわかってて何で「単なる刑事事件」になっちゃうのヨ?

もうちょっと勉強して出直してみようか!!


>短絡的に平和や反戦や反核と結びつけたお玉さん

なんてものは存在しないなあ・・
静岡であれ、何であれヤリちゃんの疑問もキンピーさんの考えも出てきたと思うしね。

あのね、そういう風に「相手はこんな人」と決めつけてしまうのは議論を狭くするし、つまらないよ。・で、あなたのことだから、きっとまだまだこの点を反論してきそうだけど、それは論点からずれちゃうしつまんないよ・・お玉はこんな人ということをもっとつたえたいのであれば、ご自身で記事を書いてTBください。


おなじ事件が静岡市で起きたなら、
 いやいや、この事件は行政への不満を暴力で晴らした粗暴犯です。政治的な背景なんて、ありはしません。たまたま不満の対象が長崎市の行政だったから、そのトップの市長が被害者に選ばれたのであって、民間企業だったとしたら、その社長がねらわれて、この記事は生まれなかったと思います。
 そして、もっといえば、たまたまそれが長崎市だったから、短絡的に平和や反戦や反核と結びつけたお玉さんは「民主主義を否定する殺人」とタイトルをつけたわけだ。おなじ事件が静岡市で起きたなら、この記事は生まれなかった。
 わたしが疑問符をつけたいのは、その感覚ですよ。


我々はシステムに隷属するだけの存在ではない
まったくお花畑な物言いをすれば、他人同士が心を通わせることができるならばどんな問題も解決できる、といえます。難しい論争はできませんが、たとえば国家なりもっと範囲の狭い共同体にあって、凶悪犯罪を犯した者が後悔の念を持って被害者の家族と向き合うための仕組みづくりをすすめることは不可能ではありませんね。実際にアメリカなどで行われている和解のためのプロセス(修復的司法というものらしい)をみても、こういった関係性の修復が、一定の条件下では可能なのではないかと思います。
 以前のコメントで「リスク」という考え方が出てきていますが、その内実を考えるに、我々が犯罪を誘発するような社会を維持しているとすれば、それは我々自身がリスクを生み出していることにもなるわけです。翻って、我々がもっと自他の関係をうまくこなしていける方法を編み出していくならば、それがすなわちリスクの軽減につながるのだと思います。大きな視点でみれば犯罪も減少するということです。
 こういった物の見方はどちらかというと、現実を外形でみるというより人間の内面を重視するものですね。ですから、あるいは共通の幻想を保持しない他者についても、なんらかの関係性構築が可能ではないか、とも考えられます。もちろん、法的な権利や義務といったものは現実として決して無視できるものではありませんが、それだけではつくられえない相互の連帯というもの、簡単にいえば心を通わせることの意味の大きさを、やはりきちんと検討していくべきだと思います。


罵愚さん
遺族感情を晴らすことが幸福追求権かは分かりませんが、何かしらの権利であるとは思います。
仰るように遺族感情をはらす“権利”に対して、加害者の人権という“権利”をぶつけたところで、単に権利と権利の争いになるわけで、あまり有効ではないのかも知れません。

それよりも、死刑という異分子排除システムが無くとも、安心して暮らせる社会とはどのようなものなのか?
それを考えた方が近道なのかも知れません。


>この白色テロに対抗するテロの根拠が生存権の確保の場合であれば致し方ないにせよ、幸福追求権を盾にした場合、一方のテロも正当性が問われるわけですから、無条件にも支持できない。

キンピーさんのお言葉ですが、特にキンピーさんにと言うわけではなく。

死刑賛成派の論拠は、幸福追求権ですよね。遺族の処罰感情が正当化されるのは、これ、幸福追求権でしょう。

で、幸福追求権を盾にしたテロは許されないが、幸福追求権を〈システム〉に求めることも許されないのか、となると、こちらは許されないとは言えませんよね。

死刑を廃止するなら、この幸福追求権にも何らかの制約を掛けなければならない。では、何を根拠に制約を掛けるのか? 加害者の基本的人権という根拠は、これまでの議論では、あまり効果的な反論になっていないように思うのですが、どうでしょう?


>お玉さん
>「総理大臣殺っても死刑にならんちゅうこっちゃ」

 もちろんそうでしょう。

 私の覚えてる限りでは、死刑反対の理由としては、

1)冤罪の場合取り返しがつかない
2)悔い改める可能性がある
3)見せしめとしての効果がない

あたりが出ていたわけで、別にこんなの、政治的理由による殺人でも同じことじゃないですか。

 それとも死刑廃止派の皆さんから見て、政治的重要人物の場合には、上の条件のいくつかがはずれるのでしょうか。


 そもそも今回のは怨恨を理由とするようですから、政治テロともいえない。
 (キンピーさんの期待するような)現行体制への変更が加えられたとして、防げたわけでもないと思うけどなぁ。
 やくざの意見を民意として的確に行政に反映させると、一般には腐敗として受け取られますでしょうし。


 そういえば鳩山キャバクラ内閣の言動は、発足半月ほどですでに白色テロですね。


死刑制度とテロ
罵愚さん
私の書いたコメントで話をややこしくしたようで申し訳ありません。
私のコメントの根っこの部分はタイトルの通りです。
今回の事件は長崎市の行政に対して不満を持った人物が、市民に選ばれた行政機関のトップを直接暴力によって排除したというもの。
(その要求の不当さ故に、私怨と受けとられるかたもいらっしゃいますが、見解の相違はとりあえず置いておいてください。)
逆に行政機関の権力の行使とは暴力の行使に他なりませんので、常に正当性が問われるわけですが、その正当性を担保しているのが民主主義のように言われています。
争いが起こるごとに、当事者がちゃんと向き合って穏便に解決できれば良いのですが、「いちいちそんなことはやってられない」という事で、議会制民主主義という代替システムによって、一応体裁を整えているわけです。
もちろんこんなものは罵愚さんの仰るように、ただの“システム”であって「個々の権力行使の正当性を担保しきれるものではありません」から当然、不当な権力の行使というモノも出てきます。

そうなると、これは白色テロ(権力によるテロル)ですので、有力な対抗手段として「暴力を直接暴力によって排除する」ということもあると思います。
もちろんこれは“法律”に則ったものではありませんが、私はそれを支持します。
が、しかしですよ。
この白色テロに対抗するテロの根拠が生存権の確保の場合であれば致し方ないにせよ、幸福追求権を盾にした場合、一方のテロも正当性が問われるわけですから、無条件にも支持できない。
(もちろん今回の事件も支持しておりません)

そこで死刑制度を考えた場合、私たちの持つシステムの正当性に疑問符が付く以上、権力の暴力は廃止すべきだと考えますし、それと同時に「白色テロへのテロを支持します(正当性があれば私刑もOK)」なんてことを言う人間を極限まで少なくするように、民政の質を高め、現在のシステムを補完するモノ(保守の方々に期待するところで、コメントで私が問うた事です)を用意する必要があるのではないか。
そう思ったしだいです。
もちろん補完するものが抑圧であったり、排除の理論であったり、疎外を強めるようなものでは何時まで経っても安心は築けません。

何事も穏便に済めばそれが一番です。
長文失礼しました。


今鍵コメ下さった方。
ふだんコメも鍵コメもお返事はあまりしないんだけど・・・・・・・でも・・お玉も激しくそう思います^^


お玉さん、、、
 「総理大臣殺っても死刑にならんちゅうこっちゃ」 と「民主主義を否定する殺人をどう考える?」とは、ちがいますよねぇ。公職につく人にボディガードがつきそうのと、政治犯罪を規定するのとはちがう。


シンペイさん・・
 『「民主主義を否定する犯罪」は他の犯罪より「特別扱い」されるべきでしょうか?』の疑問は、平和憲法のもとでの戦後民主主義への評価の話題ではなかろうか?
 明治憲法の日本ではその第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の規定により、政治体制の象徴的存在としての天皇を特別扱いしていた。平和憲法にはその規定はない。平和憲法には「戦後民主主義を侮辱してはならない」なんて条文はないから、通常の刑事犯以上の刑罰を与えることはできません。
 法を破って、あるいは改正して、それをやりたい人たちの政治意識は、明治憲法の天皇制とおなじ思考回路ということだろうか。


「総理大臣殺っても死刑にならんちゅうこっちゃ」
の部分を重視して記事を書いたつもりなんですが・・伝わらないのであればしょうがないけど・・・

あえて、こんな部分に引っかかるお玉がおかしいのかも…?


 くりかえすが、事件はありふれた刑事事件であって、権力の転覆をねらった政治事件ではない。にもかかわらず「民主主義を否定する殺人」にねじまげてしまう感覚を話題にしたいのだが…


失礼
それは失礼致しました。
ただキンピーさんが「大道廃れて仁義有り」で何を言われたいのか
本気で判らなかったもので。

実際「民主主義を否定する犯罪」は他の犯罪より「特別扱い」されるべきだのでしょうか?
ひとつ何かを特別扱いすればなし崩しに「特別扱い」が
どんどん増えてくるのではないか、と思うのですが


シンペイさん・・
うちに長く出入りしてるんだから、もう少し論を磨きなさい。その返しはあまりにも幼い・・



キンピーさん
>大道廃れて仁義有り
ええっと・・・・何を言われたいのかわかりません。
つまり他の犯罪は何千人殺そうが何万人自殺に追い込もうかかまわないけど
民主主義を否定する(と思われる)殺人はそれだけを特別扱いにして
死刑を認めるべきだ、といわれるのでしょうか。


>罵愚さん
システムは幻想。共同体も幻想。国家も幻想。
そう思って自分たちで新しいものを打ちたてようとする「サヨク」は、この問題を論じるのは適切ではないと思ったから、保守の方々のご意見を拝聴したいと考えたしだいです。
ちなみに首相云々の発言者は当然私です。

>やりちゃん
コモンには曖昧模糊とした中にも、変化せず(本当は変化しているのでしょうが)受け継がれているものがある。
しかし「とっぱわれた期間」というものがある以上、やはり保守の役割は「変化しなかったもの」をもう一度世間に示すことではないでしょうか。
たとえば歴史・文化・伝統というものを否定しようにも、地理的状況から生まれてくるモノからは、そこに住む以上逃れられないわけですし。
それら「変わらないモノ」を基盤として、相互補完し合えるようなコモンであれば、、と思うのですが。

>KYDさん、シンペイさん
大道廃れて仁義有り


なんで?
私は死刑肯定論者ですが、こういった話題が出る事が理解出来ません。
「民主主義を否定」だろうがなんだろうがどのような犯罪に対しても
最高罰が何年かの懲役にしよう、というのが死刑廃止語られる方々の主張でしょう?
なら民主主義の否定だろうが何千人殺そうが
何万人自殺に追い込もうが「生かしておいて罪を償わせる」のが最善なのでしょう。
どういう状況でどういう事をすれば「償った」事になるのか判りませんが
いまさらその程度のことでグラつかないでください。


 はじめに死刑廃止論は最高刑を無期刑にしよう、あるいはそれを目的に終身刑を新設しようとするものだ。つぎに、本件の犯人が最高刑にふさわしいかどうかの話題がくるのだから、ふたつの話題は、本質的にべつの話題だ。そして、どうやらお玉ばあさんは犯人を「民主主義を否定する殺人犯」と断定しているようだが、報道ではありふれた暴力犯で、政治性はなかったものだったと思う。
 したがってこの記事は、議論の前提が崩壊してはじまっているのだが、わたしが興味をもつのは、むしろ、なぜこのような議論がはじまってしまうのか? 戦後平和主義の有力メンバーの受難が、殉教者あつかいされてしまうのかの疑問です。


〈システム〉へ隷属するか否か
お玉さん、こんにちは。

ここにコメントすべきものなのかどうか迷いますが、せっかくTB頂いたので。

KYDさんは、社会を担保するのは〈幻想〉だと言いました。
http://potthi.blog107.fc2.com/blog-entry-724.html#comment11861

私もその見解に賛成です。人間は〈幻想〉に沿って〈システム〉を組み立てて、社会を統合します。民主主義というのは、基本的人権という〈幻想〉をもとに組み立てる〈システム〉のことです。

死刑や戦争は、この〈システム〉が為す殺人。〈システム〉に隷属した人間が為す殺人です。死刑や戦争が罪に問われないのは、〈システム〉に隷属しているためです。

ちなみに革命とは〈システム〉の改変、つまり〈システム〉の元になる〈幻想〉を入れ替えることです(市民革命は、〈幻想〉を王権から人権に入れ替えました)。旧〈システム〉に属するものからみれば革命は犯罪ですが、新たな〈システム〉からみれば革命の過程でなされた殺人も英雄的行為賭して賞賛されます。

問題は〈システム〉です。その〈システム〉がどのような〈幻想〉によって組み立てられているかは関係ありません。基本的人権も〈システム〉化されてしまえば、その名の下に戦争や死刑といった殺人が行われてしまう。〈システム〉に殺人を犯す権限を認めなければ、その〈システム〉の元となる基本的人権は守れないのです。このことは、人権も王権と同じ〈幻想〉であることの証左です。

>民主主義を否定する殺人をどう考える?

という問いは、〈システム〉への攻撃に対処するかという問題でしょう。〈システム〉の重要構成員への攻撃は〈システム〉への攻撃と見なす、というのであれば、それは〈システム〉に隷属してることに他なりません。

これは、戦前の不敬罪と同じ原理です。天皇への不敬が犯罪と見なされるのは、そうすることで〈天皇幻想〉を維持しなければ〈システム〉が機能しなくなるからです。民主主義的に選ばれた選良が天皇と取って代っただけのことです。

死刑と戦争の問題は、〈システム〉を維持するリスクを誰が支払うのかという問題です。〈システム〉はあくまで〈幻想〉がタネですから、〈幻想〉からはみ出して〈システム〉を歪めようとする人間は、意識して行うか意識せずに行うかを問わず、幾らでも出てきます。これまでの〈システム〉維持のやり方は、そうした「異分子」は処罰するというやり方。つまりリスクは「異分子」に課すというわけで、これは〈システム〉に隷属するやり方です。

対して、現在試みられようとしているやり方は(死刑廃止・戦争反対)は、リスクを〈システム〉そのものが負うというもの。〈システム〉構成員ひとり一人が負うというものです。

私が支持するのはもちろん後者ですが、本当にその「リスク」を負担しきれるかどうかは悩ましい問題ではあります。「異分子」を排除することでリスク回避をする方がどう考えても楽な選択であり、その誘惑はとても魅力的なものだからです。


禁止ワードの件
7月下旬にFC2がスパム対策強化を行なったそうで、コメントできない現象が発生しているみたいです。

私もそのことについて、記事↓をUPしてますので参考にどぞ。

・【ご報告】コメント欄に「おまかせ禁止ワード機能」が設定されていたので無効にしました。
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-248.html

お玉さんも、「コメント設定」欄で確認してみそ。
確認するところは、一番下の「おまかせ禁止ワードフィルタ」。
多分、勝手に「利用する」に設定されてませんか?

それを解除すれば、幾分コメント拒否されにくくなるみたい。
(ただ、それでも駄目な禁止ワードがあるらしい。FC2による検閲みたいで嫌ですね。)


これから世界連邦の勉強会
>お玉さん

>禁止キーワードあるわけない

そりゃ失礼しました。う~ん、何だったんだろう。

>キンピーさん

>オキテが前近代的なら機能しない

そこら辺はこだわりません。機能してくれることが大事。だけど、昔も今も、人間はそんなに変わらないんじゃないか、そこがいいんじゃないか、というところがやりちゃんのテーマでもあります。あっけらかんと「人類は進歩しました。生まれ変わりました。」と言い切れちゃうKYDさんがうらやましいです。ある意味。


キンピー様
もしあなたが死刑廃止論者なら、どんな犯罪者であれ死刑に反対すべきだし、犯行内容が容認できないから死刑にしても良いというなら、あなたは死刑に反対する資格が無い、というのが私の言いたかったことです。

しかし理解と共感によって刑罰を決めるというのは、あなたの仰る通り魔女狩りにも通じる血腥い話です。

だけれども刑罰というのは本来血腥いものです。そこから目を逸らすのは本質を見誤る行為だと私は思います。
私が思うに、法治主義と言いつつも、民主主義の原則に従って、血腥いプリミティブな感情と、理性からくる綺麗事の危ういバランスを取っている、というのが現代社会なのではないでしょうか?

欧州あたりが死刑廃止にやっきになっているのもそのせいかもしれません。死刑というプリミティブな感情に対して訴求力の非常に大きいものが、たとえ別の国であっても存在するという事実自体が、彼らの社会で保たれている感情と理性のバランスに悪影響を与えるのでしょう。
だから彼らは必死になってこの世界から死刑を廃止しようとしているのではないでしょうか?


>お玉さま

ブログ主が設定しなくても、運営会社側でデフォルトで設定されている禁止ワードというものがあるようですよ。
(ひわいな言葉とか、暴力的な言葉とか)


禁止ワード?
それっておいしいの??ちゅうか・・・うんなもんうちに存在するわけないのでして・・管理画面が最近リニューアルされてるんだけど、それに関係してるのかな?今見たら「ななし」「名無し」ははるか昔に登録していたようです。


拍手。パチパチ。

チャップリンさん曰く?一人殺したら死刑。大勢殺したら英雄。
(皮肉)


何度書き込んでも禁止キーワードで跳ねられます。どこかにリスト表示して貰えませんか。

イライラするので出直してきます。


KYDさんの論を逆手にとれば、共感・理解できる殺人は死刑にはならないということで、革命家を自称する方々を勇気付けるものとなりましょう。
しかしこれはかつての魔女狩りのように恐ろしいことでもあります。

こういう血生臭い話は現状を急進的に変えようとする勢力にとっては、ある種避けにくい話かも知れませんので、もっと穏便に事を運ぶことを知っておられる真っ当な保守の方々のご意見を拝聴したいのですが。


死刑廃止という覚悟
単純凶悪事件ならば死刑反対で民主主義に対する暴力だから死刑賛成などという問いが成立することそのものがよく分からないのですが・・・。

死刑賛成の究極的な理由は、要するにその犯罪者が「社会にとって」理解も共感も不可能な、容認されざる存在であるから<抹消>しよう、ということでしょう。
なぜなら「社会の大多数」は加害者でも被害者でも無いのですから、更正可能性とか被害者補償とかいう「個人の事情」と「死刑制度」という公共の制度とは無関係なはずです。

であれば暴行殺人犯なら死刑反対で、民主主義・人権に対する犯罪なら死刑容認、というのは、
「暴行殺人は容認できるけど民主主義人権否定は容認できない」
と言っているのと同じではないでしょうか?

「容認することができない犯罪だから死刑賛成」というのなら、それは単純に「死刑賛成」なのです。社会的に容認できるかどうかという死刑賛成の価値観判断基準に乗っかっている留保付きの死刑反対なんてものは前提条件から間違っています。

理解も共感もできない存在であっても、許されざる罪を犯したものであっても、それを抹消することはしない、それと向き合うことを止めない、というのが死刑反対のあるべき姿であって、その相手となる犯罪者が民主主義と人権の根源を否定していようがいまいがそれと向かい合う覚悟が無いのなら、おとなしく死刑賛成していればいいのでは?

個人的にはそこまでの覚悟をして犯罪者と向き合うコストを引き受ける必要は無いと思っているので、さっくり死刑でいいじゃん? と思うのですけどね。

欧州議会なんかは、それは民主主義やら人権やらを守るために必要なコストであるから必ず払え、と世界に勧告しているわけですが・・・。
実際世界の皆さんはちゃんと理解しているんだろうか?そもそもまともな人権と民主主義が担保されてる地域なんてそんなないのに、気分で流行に乗っかっているだけ、死刑廃止で人権の<免罪符>を買っているだけなんじゃないのか、と思うのですが、どうなんでしょう?

日本国が<免罪符>を買わなければならない理由が思いつかないので、「国際的に主流となっているから死刑廃止」という意見に私は与しません。

長文失礼いたしました。


やりちゃんへ
ありがとうございます。
コモンというものをとっぱらって、剥き出しの社会にしてしまったと。
社会的な事件を起こした人々を見ると、精神的にアウトローなのを思えば、それは当たっていると思います。
彼らは私たちの社会に居ながら、精神的には私たちの外部にいたと。

リベラルの立場からすれば「人間は理性的になれるはずだ」「そのための教育が必要だ」となるのでしょう。
個々を見ると成長するかもしれない。
しかし全体としてどうなのか。
そんな計画したとおりに人が変わるものなのか。

逆に保守の立場からよく言われる「道徳教育」にしてもそうです。
「なぜ人を殺しちゃいけないのですか?」という質問に理論で答えるのではなく「それは人としてやってはいけない事なのだ」と言ったところで、質問者の心には響かないでしょう。

人間の理性というものをもう少し疑ってみて行き過ぎた個人主義を一度コモンに引き戻さなければいけないかも知れません。
しかしその時の“掟”が前近代的なものでは到底役に立たないのではないかと感じています。



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