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争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く

忙しいんだよ~だからこそ、まったり構えるのがお玉のブログ道なんだよ~~(今作った)・・で・・中島みゆきのこの曲をみんなに捧げちゃう・・

みゆきさんのこの曲題名は「Nobody is Right」でもこの題名、違うよ(いや、違わないね、誰も正しくない だよね・・・・昨日疲れていて、解釈間違えてる・・はは・自分で気が付けてよかった~~~)・みゆきたん・・右も左も関係ない「争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く」お玉はただそれが嫌いなだけ・・・・・正しさは道具じゃない・・

もしも私が 全て正しくて とても正しくて

周りを見れば世に在る限り

全ての者は私以外は 間違いばかり

もしもあなたが 全て正しくて とても正しくて 

周りを見れば 世にあるかぎり 全てのものは 

あなた以外は 間違いばかり

つらいだろうね その一日は嫌いな人しか出会えない

寒いだろうね その一生は軽蔑だけしか いだけない

正しさと正しさとが 相容れないのは いったい何故なんだ

その正しさに片鱗の弱者の視点が感じられなければ・・・そんな正しさ、お玉はいらない。

正しさは・・道具じゃない・・

 悪い人などいないだなんて あいにくですが頷けません

正しい人こそいないんじゃないか カンペキ正しいってどういう人だ

(中略)

その正しさは気分がいいか 正しさの勝利が気分がいいんじゃないのか

つらいだろうね その1日は  嫌な人しか 出会えない

寒いだろうね その一生は 軽蔑だけしか いだけない

正しさと正しさとが 相容れないのはいったい何故なんだ。 

 

はやくつらい一日から抜けられるといいのにね・・

「私が正しい」は正しいと思えない・

みんなのために何が一番いいのか、何がより正しいのか、考えながら生きていきたい・・

でも、お玉がそうでないとき、そうできなかったときに・・・

みんなが「違うよ、お玉!」って教えてくれたらすごくうれしいな。

そのためにブログやってる・・・へンか?変でいいもん。

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Secret
(非公開コメント受付中)

「可愛いは正義」とか言ってみる
何か、「装甲悪鬼村正」の一条ルートクリア直後の私には、ついカキコミしたくなるテーマですね。
たぶん、この場で議論されている方々なら、「装甲悪鬼村正」にハマると思うので、ぜひプレイしてくださいなw

十文字(衆愚代表) さんへ

YouTubeに限らず、ズーミーなども「埋め込み」のところ(YouTubeなら右上のあたり)を、転載すればできますよ。
たとえば、上記の動画なら、

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/O3H1ItrRjnQ&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/O3H1ItrRjnQ&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

となります。また、画面サイズは「width="425" height="344"」の数字で変える事ができます。

私も十文字(衆愚代表) さんと同意権ですね。「誰が」「何時」「何のために」正しいのか…、それによって意味は変わりますから。
ただ物事(アフリカの貧困にしても)、文系サイドでグダグダ無能やるより、理系チックに技術的改善をするほうが、よっぽど前向きな気がしてます。


あまりにも単純化させた不用意な一言でした。
反省します。


久しぶりにお便りします。
お玉さんも少し疲れておられるのでしょうね。 何が正しいのか分からない。 にもかかわらず世間には、「正しさ」を振り回す連中が大声を張り上げる。 お気持ちは分かります。 

>寒いだろうね その一生は軽蔑だけしか いだけない

自分のちっぽけな自我や自尊心を守るために「正しさ」を振り回す、それこそが「寒い」のです。

でも色んな「正しさ」が入り混じる中で、どうしても譲れない一線がある。

それは「子供の生命を救うことは正しい」ということです。 その基準で言えば、日本人を拉致し、自国民を360万人も意図的に虐殺する金正日政権は、確実に悪です。 軍事的手段にせよ非軍事的手段にせよ、その打倒を図ることは「正しい」ことです。


その根拠として私は、この本を挙げます。

>萩原遼 『金正日 隠された戦争 金日成の死と大量餓死の謎を解く』
http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/f53aca3ecd418384d9cbf8cd32943f87

民主党政権は、事業仕分けによって乳幼児ICUの予算も削ってしまったようですね・・・人気取りの「子供手当て」のために。

>その正しさは気分がいいか 正しさの勝利が気分がいいんじゃないのか

馬鹿にするな、と言いたい。 そこらの政治ゴロや嫌韓厨と一緒にするな、と言いたい。
こちとら、ガキの頃から『赤旗』新聞を読んで育ったんだ。 韓国と付き合ってもう三十年以上になるんだ。 今さら自分の「正しさ」なんて、立証されたって、良い気分になるもんか。 馬鹿馬鹿しい、舐めるなってんだ。

俺の望みはただ一つ、うちの子供たちの幸せだ。 同時に同じ文脈で、同年輩の横田めぐみさんたちが、無事に帰国できることだ。


フォーマルかインフォーマルか、ということだけど、「本音と建前」なんてのは世界共通ですよ。
国と国との関係でなくても、5人ぐらいのグループであっても、5人が納得するためには、「共通認識と合意」ということで、「建前」は必要となる。

問題は、日本の場合はその乖離があまりにも大きい、ということだと思います。

あと、ネット上ではむしろフォーマルが必要です。もっといえば、感情を理性に合致させる資質、本音を建前に合致させていく良識を持てないのならば、ネットはやめるべきです。
ネットではびこってる人権侵害や犯罪、誹謗中傷によって、人々を不幸にしてしまうことになります。

信頼関係を構築するには、果たすべき責任を果たすこと。責任を果たせないなら欲求を抱かないこと。
私の発言を否定することは、『体の成長に心の成長が追いついていない』ということを「是」とすることであり、それが社会をいかにおかしくしたのか、という反省があれば、私のコメントを否定する人はいないはずなのです。


関係無いかもしれませんが
この場ではちと関係無いかもしれませんが
鳩山首相が予算仕分けについて「国というものがなんだかよくわからない」と
発言したそうです。
「よく判ってる人」なんか居やしないとは思いますが少なくとも首相という一国の頂点に
立っている人が口にしていい言葉じゃありませんよね。
他にも資産報告漏れについて「僕んちお金持ちだったからお金幾ら持ってるか判んない」(意訳)
なんてステキ発言されてます。

これってまったく報道されませんよね。
漢字がわからないとかラーメンの値段を知らないとかよりよほど問題じゃないんでしょうか。
そんな民主党に都合の悪い話題を一切無視するのがマスコミの「正しい」なんですね、きっと。


あっと、建前がフォーマルで、本音がインフォーマルですね。
そうすると建前としての綺麗事の‘宗教観’や‘思想’と、生なましい本音としての‘信仰心’や‘人生哲学’、つまりは『生きざま』との使い分けとなりますね。
では、ネット上でフォーマルはあまり必要としないでしょう。

ま、人間同士の付き合いですから、フォーマルがまったく必要ないとは思いませんが。なるべくインフォーマルに近づけたいですね。


キンピーさん
それで言うなら、フォーマルはかなり普遍的に通用する奥の深い思想・哲学ということで、インフォーマルは、ある状況における「正しさ」の主張ということになりますね。
それが会話の中で混同されると、確かに、齟齬と混乱が生じます。
一方、インフォーマルの背後にフォーマルが見えてこなければ、互いの信頼はなかなか繋げないです。


naokoさん

タテマエとホンネといえば分かりやすいでしょうか。
フォーマルが宗教や確立された思想であるならインフォーマルは土地や歴史に根付いたもの。
西欧でもアジアでもそういうことはありますし、昔の人は上手く使い分けていたと思います。


質問
>キンピーさん
思考におけるフォーマルとインフォーマルとは?

>やりちゃん
突っ込むべきでしょうか?やきちゃん…。ずっと悩んでいたのですが。なんとなく、突っ込みそびれていました。
(もしかして、これがフォーマルとインフォーマルの悩み?)


>社会が何らかの意思によって契約されたものだ

国家と社会は微妙に違うもので、また思考におけるフォーマルとインフォーマルも分けて考えないと窒息しそうです。


友愛
クックックッ…。社会が何らかの意思によって契約されたものだ、という時点で既に左翼思想が始まってますなぁ。

>人間を大事にする社会

そのことについては、最近マイブームになっている賀川豊彦に話を聞いてみなくちゃなりませんね。江原啓之や美輪明宏に通訳してもらいますか。

私の人生の師は、美輪明宏、岡本太郎、そして赤尾敏。


やりちゃん

いえいえ、従来の左翼が夢想する社会なんて禁欲の上に成り立っているようなものでしょう。
人間を大事にしない社会なんてマトモな欲望によって転覆されます。
人間を大事にしないという点では資本主義社会も同じですが。


所与の秩序
>肯定する装置

装置を発明したよ、というのが左翼の立場でしょうな。

装置なかりせば、とうに人類は滅んでいる。誰かが余計な手をくわえているのだろう、とするのが右というか、やりちゃんというか…。


昔は老人介護なんて言葉はなかった
 ご近所さんにも、気になるじいちゃん、ばあちゃんがいました。互いの中に互いが住んでいた、という意味では、独りじゃ生きていけないことが、自明の理として身にしみているのが普通でした。
 そうした一方、自分を揺るがす「闇の記憶」があります。そして、無関心通り越して、「もっと苦しめ」とか、「死んでしまえ」とすら思える自分もいる。それは、とても寂しい事です。
 救いようのないのは、社会でもあり、自分でもあります。
 決して「自分は自分、他人は他人」ではないですね、やりちゃん、コウトさん。
 
 <世界>にひれ伏したいのに、それでも冷笑する自分がいるということ。
 そういう意味では、十分揺れていますよ、わくわくさん。

 生きる喜びは、結局のところ、自分の中からくみ出すしかないのにね、キンピーさん。


恋愛をした人は
他人である異性に恋焦がれる経験はあるでしょう。相手は自分の思いなどどこ吹く風とばかりに、笑いたいときに笑い、行きたいところに行きます。私の思いなどまったく意に介しません。
 その他人に、近づき親しくなることを考えてください。相手の言うことやること、自分の意表をつくことばかり。まるで私の常識など無視するかのように振舞う相手に、戸惑う気持ちを隠せない。それでも、私は彼女が恋しい。手をとって歩きたい。抱きしめたい。いつまでも話していたい。その思いの中で、自分の思考も、行動も変わっていく。
 もう書くだけ野暮ですよ。熱情は、自分を超える力を隠し持っているのです。他人でなければ、わざわざそんな熱意を向ける必要はありませんよね。自分自身の殻の中に眠っていれば済む話ですから。
 他者とともに生きようとする心は、自分だけでは済まないエネルギーを生みます。それは互いに増幅し、より精緻な関係をはぐくんでいく源となるでしょう。ね。


絶対的貧困者の<生>へ向かう力は肯定されます。
また相対的貧困者の<歓び>へと向かう力も肯定されます。
しかしわたしたちの社会で、絶対的貧困者の<生>を肯定したら、相対的貧困者の<歓び>は否定されかねません。
富める人も<歓び>が否定されかねないと思うものです。
法で縛ると不満が募るばかり。
現状ではここが難しいのでしょう。

資本主義のシステムそのものの問題(あっさり!)もあるのですが、<生>と<歓び>を肯定しまくる装置が必要です。
社会にも思考の中にも。


naokoさんへ
>そして、この国の一体何が‘貧しい’のか?

昔の村八分では、まだ「残りの二分」があった。今では下手すりゃ10対ゼロだ、というようなことをどこかでキンピーさんが言っていた気がします。「他人は他人」という現代人気質と密接な関係があるように思えてなりません。「政治が悪い」「資本家が搾取する」だけで解明できるでしょうか。


naokoさん、どうも無限ループに入っている感がありますね。

元々、「争い」は、自己を破滅させてしまうリスクを伴うものです。リスクがあることを、必要もないのにするケースはあまりありません。リスクを負うだけのメリットがあるからこそ「争い」は生まれる。

自分と他人が共存共栄できるなら、争いは起こりません。しかし、利害が対立してどちらか一方しか生き残れないならば、「生きる」という欲求を持った場合、争いは起こります。

自分と他人の価値観が共有できるなら、争いは起こりません。しかし、互いに譲れない、相容れない「正しさ」があり、それが「生きる」ことに直結するだけの利害の原因になるのであれば、そこに争いは起こってしまいます。

「悪」を糾弾することを否定するつもりはありませんが、それだけだと「じゃ、どうしたらいいの?」という疑問に答えるのは難しくなります。
「結論ありき」では、その結論自身や結論に至るプロセスに矛盾が生じたとき、そこで思考停止が起こったり、下手をしたら、それがまさに「争いの原因」になることもあります。

自分の信念や理想に合致しないものでも、いったんは「受容」して、その上で自分自身に問いかけ、他の人に問いかけてはどうでしょう?

『結果が明確に出てくる』ことよりも、『常に葛藤に悩みながら考える』方が、naokoさんの理想を達成できるかもしれませんよ。

と、まぁ、軽く助言ということで。(笑)


できないのかな
コウトさんへ

あなたの投稿は、1.を表現を変えて繰り返しているだけではありませんか。1.からどのようにして「価値観を揺るがす連帯」が生まれるのか。すなわち「価値観を揺るがす連帯」はなぜ1.を必須とするのかに関する説明が一切ありません。コメント数と時間ばかりが積み重なって行きます。


貧困をなくすというのが
どのレベルでの話なのか、どういうイメージなのかによるでしょうね、キンピーさん。

アフリカやアジアの最貧国にも、‘持たざる者たちの幸せな共同体’は存在します。
一方で、この日本でも餓死者が出ることはあります。

富裕な世界での孤独な餓死者たちや自殺者達と、最貧国の貧しく幸せな共同体の人々が並立している現代の世界において、人を殺す(生かさない)‘貧しさ’とは何なのか?

今日の千円で病院にいくために、食費節約して万引きで捕まる100万人の老人たちの暮らす‘豊かな国日本’で、まともな病院すらない国々での命のあまりの軽さにどう向き合えるというのか?

そして、この国の一体何が‘貧しい’のか?


で、いいんですか
短くてよいのでしょうか。v-519

ただ他人に期待しても無駄だし、自分からなにかを追い求めなければ成果は生まれないことを、今までに学んできました。自分が熱意を持っていたとしても、それが自分だけの関心事にとどまる限りは他人との接点は生まれない。他人がいかに自分と異なる価値観や生き方を常としているかに思い至って初めて、自分だけの世界を離れ、他者に近づいていくことができる。
 他人は他人であり、私の好き嫌いなど関係ないところで生きる。私にとっておぞましいことも彼らにとって好ましいことであり、私が好む世界は彼らにとって唾棄すべきものである。そういう極端な例があったとしても、他人に対して興味関心を保つことができるか。
 アフリカ人はアフリカ人、インド人はインド人だし、青森県人はずーずー弁でしゃべり、香川の人はうどんを食うわけです。(あまり関係ないか)
 他人の趣味はあくまでその人のもので、そんなことして何が面白いの、と言っても当人には関係ない。本人が楽しいのだからいいのです。あれこれ言うのは他人だから。
 その体で、留学生たちの本心は彼ら自身に聞かねばわからない。他人の言うことはあくまでも外の声。けれど、自分たちに本当に好意を持って近づいてくる人がいれば、あるいは親しくなるかも知れない。それはそれでいいじゃないですか。アフリカから来た人間を大事にしてくれる日本人なら、仲良くなれるでしょう。そのとき互いに心がつながるわけで、並列に生きている限りは他人のままです。

 日本語で話していては限界だと思えば、彼らの言葉を覚えるでしょう。彼らの国のことを知らないではおけないと思えば空を飛んで旅するでしょう。彼らにこうしろといわずとも、親しくなれば互いの心はわかるでしょう。その先にお互いの関係がどう発展するかは、そうなってみなければわからない。もともと他人だったのですが、すでに価値観は大きく変わっているでしょう。親しくなることで自分が変化する。そのとき彼我の連帯は価値観を揺るがす。人と人との結びつきは、そういう出来事さえ起こすものだと思います。他人を尊重すべきなのは、自分とは違うものを持ち合わせるからです。
 他人は自分とは違う。それはひとつの大きな課題であり、あくまでも自分にこだわる人間にとってひとつの試練なのだと思います。なんの自分ごとき。

え?政治的な解決ですか?
他人の利益を真摯に考えることは政治の一部分だと思います。でも解決できるとか書いていませんよ。


貧困と一口でいっても絶対的貧困と相対的貧困がありますからね。
アフリカからの留学生は現地ではエリートなんでしょう。
しかし留学先で相対的貧困を味わっている。
日本でも相対的貧困にあるものが、絶対的貧困者に唾を吐きかけるのを見たことがあります。
私が「どうしてそんなことをするのか?」と訊ねたら、「俺はあんな風になりたくない」と。
これは落ちることへの恐怖がそうさせているのだと思いますが、アフリカの留学生にはそういった恐怖にエリート意識も加わるでしょう。

相対的貧困と絶対的貧困の連帯というのはなかなか難しいものだと思いますが、やはり「明日は我が身」。
だから貧困を無くす運動を広げることが、私たち社会の「タメ(湯浅氏の言葉を借りると)」になるのだと、説得するしか方法が無いように思います。

そこで私は“法律”でなんでもかんでも処理してしまおうという立場には立ちません。
このあたりはやりちゃんと方向性が同じなのかも知れません。
しかし過去の儒家的な思想をぶっ壊れたコミュニティーに被せて、ほんとうに有効に機能するのかが疑問であるところです。
私には「もしかしたら現代の歪みを固定させてしまうかも知れない」という恐怖感があるのです。
駱駝が重い荷物を降ろした。
しかしまた重い荷物を背負う。
はたしてそれは、暮らしやすさという観点から見て良いことなのか。
いまだ私も答えを見出していませんが、少々疑問に思うところです。


文字数の問題ではないでしょう
>他人を身近な人間として受け入れる余裕は、
>今のこの社会にはなくなっていませんか。

ハハハ…。アフリカ人はアフリカ人、インド人はインド人、他人は他人、熱意があるのなら、やればいい、という諦念に原因があるのではないか、と何度も書いています。テクノロジーが発達し、経済規模が拡大しても、社会の構成要素が人間である以上、本質的な問題は変わりません。むしろ他者との距離を広げた分、折衝能力が減衰して、ぎこちない社会になる訳です。使わない筋肉が退化するように。

>充分な時間がなく申し訳ない

文字数の問題ではなく、同じ所をぐるぐる回っているだけだから、先に進まないのだと思いますよ。

1.他人は他人と悟る。
2.???
3.政治的な解決をみる。

2.の部分のプロセスや1.との相関関係について教えて下さい。短くて結構です。


短く失礼
応えるのに充分な時間がなく申し訳ないですが次回きちんと書きます。
他人を身近な人間として受け入れる余裕は、今のこの社会にはなくなっていませんか。それから、アフリカからの留学生に対して熱意を持って訴えるような日本人学生もほとんどいないでしょう。贅沢な暮らしの中では、そこまで他者に激しく関わる必要がないからです。
熱意があるのなら、やればいい。ただ私は、naokoさんのぶつかっている壁の意味を考えているだけです。


コウトさんへ
 気にはさわりませんが、「あきらめ」てしまったら、かれらに関わる必然性(切実な援助の必要性)がなくなった時点で、その先はもう付き合わないでしょう。
 いずれいつか理解されるかもしれないし、ついに理解されないかもしれない。いずれにしても、そこから先は彼らの問題と考えます。

>やりちゃん
 手を出したことへの後悔はありませんし、恨みもありません。やるべきことをやっただけです。
 ただ、さみしいな、とは感じますね、やはり。
 いろいろ考えると、孤独感や閉塞感というおつりはどうしてもついてきます。それが切ないんですね、やっぱり。しかたがないけど。

>お玉さん
連投申し訳ない。


何年か付き合っているうちにつらくなってきたのだ(笑)
 アフリカの貧困がとてつもないものであることは確かでしょう。
 ただ、ここにいる留学生達は、その中では恵まれ、守られてきた人たちです。その彼らが、自分達の受けている恵みに感謝しているとは思えない。
 お国に対する諦めは深く、大抵の途上国の留学生たちは、ここで金を稼ぐこと、自分の国を出て行くことしか考えていない。
 それでは日本政府による援助は、実を結ばない。

 自分は何者なのか?
 なぜ自分はここにいるのか?

 そういうことを深く掘り下げようとしないのです。
 「明日はどうなるかわからない。今を楽しんだ方がいいんだ」と彼らは言います。自分の状況がそうだというのではなく、そういう刹那性が身についてしまっているのです。

 「恩という言葉が今の彼らに理解できるだろうか?」
 それが気になるのです。


コウトさんへ
まずは現状認識からですね。naokoさんは、アフリカに渡って私財を投じようとしているのではありません。アフリカからの留学生に「互いに助け合ったらどうか」とお節介を焼き、砂を噛むような反応に業を煮やしているわけです。わざわざ海を越えてやって来るくらいなのですから、留学生たちは、鎖国から引き摺り出され、東洋初の近代憲法を制定した日本、敗戦の焦土から復興した日本、に学ぼうとしているに違いありません。至極妥当なお節介です。ましてや、そのお節介の内容は、一方通行の施しでなく、彼らの自立を促すものとあらば尚のことです。

反応は様々だろう、というコウトさんの観測には同意しますが、naokoさんの熱病が一部の留学生に伝染し、それらが本国で拡散し、結果として政治をも巻き込む大きなうねりを生む、ということは有り得るでしょう。これに対して、アフリカ人はアフリカ人、インド人はインド人という諦念から、唐突に政治的解決が導き出される、というコウトさんの論理が、私には今一つ理解できません。おそらくまだ語られていない部分があるのではないでしょうか。ぜひお聞かせ下さい。

コウトさんにこだわりがあるように、私にもこだわりがあります。旧来農村型の濃密過ぎる人間関係から逃れる為、現代人は、「他人は他人」という価値観を社会に浸透させ、これに対応したシステムを整備してきました。私たちは確かに重い荷物を下ろしましたが、それらシステムは思いの他脆弱で、孤独感や閉塞感という副作用を今や日々顕在化させつつあるのではないでしょうか。


>やりちゃん
「他人は他人」という考え方
と書かれています。この部分には自分なりの思いがあるので、少し説明させてもらいます。
 私はnaokoさんのように他者に手を差し伸べようとする人を軽視していません。アフリカはひとつの例に過ぎませんが、生きるために困難を抱えている他者に対してなにかできることをするのは、人としての大事な行いだと思います。ただ、他者は自分とは違う価値観を持ち、違う生活環境で暮らしてきた人たちです。私がいいと思ったことを彼は(彼女は)嫌がるかも知れない。相手にとっての善いことは、私が決めることではないのです。しかしながら、飢餓状況のような極端な場合は価値観うんぬんと言っていられない。食料を与えなければ死ぬのですから、これは論を待たず即行動する以外ないわけです。
 そこでnaokoさんの出番なのですが、さて、naokoさんは自分ひとりでもアフリカに飛んでいって、なけなしの(そうでないなら失礼)財産をはたいて、できる限り多くの飢餓民に食料を買い与えます。そして、カネが尽きたら他の現地住民たちに訴え、支援のためにカネを集めます。それはそれでいいでしょう。
 naokoさんは飢餓状態にある人々に対してできることをした。でも、他の人たち、日本人もアフリカに住む人もみな、ですが、彼ら彼女らはnaokoさんのしたことでなにを感じるでしょうか。それは千差万別、よくやるものだと褒める人もいれば馬鹿にする人もいるでしょう。人はみなそれぞれ違うものを追い求めていて、他者を慮るにしてもみな違う、ひとりひとりの感覚で判断しています。そこのあの人は、私と同じ感覚ではないのです。あっちの人はまた別なのです。それでも必死に叫べば、あるいはまとまった数の人たちが私に協力してくれるかも知れない。それも、大きな努力が必要な仕事です。
 他者とともに目標を設定し、それに向けてともに歩もうとする場合、そのための準備、意思疎通の方法、協働の仕方など、事前に考えなければならず、実際にやってみてからも修正を続けていかねばならないことは山積しているのです。そして、それが規模を大きくすると政治になるのです。

人はみな、できれば他人とうまくやっていきたいと思うものです。しかし、そのためには大きな努力が必要ですし、その努力も必ず成果を得るものとはいえません。それでも他者を思い、ともに進もうとする人は、困難にくじけず働くのです。それが言いたかったので、長々と書いてしまいました。他人は他人、というは、自分とは違う価値を守る他者の存在を大事にするためのひとつのルールです。支持政党が違う人間は地獄に落ちろ、ではないということですね。


蒼き怒りよ
言葉が足りなかったかもしれませんが、私は、相手の反応に一喜一憂せず、naokoさんに他者とのつながりを追求して欲しいと願っています。

>自分以外の他人に対して自分と同じ基準でモノ
>を見よというのはあまりよくないこと

>他人との共存は、そこから始まるのではないか

時代が進むにしたがって、コウトさんのような「他人は他人」という考え方が広まってきました。けれども私は、naokoさんの一番アツい部分を押し殺した上に築かれた人間関係など、偽りの共存だと思います。昔から同床異夢という言葉もありますね。自分がそうしたいから、そういう者でありたいから、という思いでお節介を焼いていれば、腹が立つこともないのではありませんか。今は心無い言葉が返ってきても、何年か経ってから相手に伝わるかもしれません。それは例えば親の恩のように。

>アフリカの飢餓状態を解決するために、
>権力者でもない一介の留学生にできる
>ことはない。少なくとも彼らがそう感
>じているとすれば、それは彼らの自然
>な感情であって、まずはそれを認めな
>ければ互いの共通認識はないですよね。

このような現状の肯定は、アフリカの飢餓はスーパー権力者が現れなければ未来永劫解決しない、と言っていることと同義です。21世紀社会には、お節介や地縁血縁のつながりの代用品として、通貨・商業サービスや行政サービスが人々の間に敷き詰められている、とされています。けれども国債がデフォルトしたり、金融機関が破綻したり、年金が消えたりする可能性は一定の率で存在している訳です。進歩主義に裏書きされた民主主義社会という顔の見えない幻想よりも、他者への関心、お節介、価値観の押し付けの方が、リアルでナマナマしく、時としてずっと有用なのではないかとすら思えます。

この日本国も、価値観の押し付けや欲望、打算などなどのナマナマしい事情で開国し、各国と共存し、現在に至っています。


思うことが多いので
naokoさん

>「助けてと頼まれたわけじゃないからね」
>「お前は自己中なんだよ。いや、そうとうのボンボンだな。」
>最貧国の人間とも思えん。

naokoさんが人一倍情のある人だということはひとまずおいての話ですが、自分以外の他人に対して自分と同じ基準でモノを見よというのはあまりよくないことだと思います。それはあくまでも自分の希望だとか願いなのであって、自分の思うように他人は生きていないんだという有る種のあきらめ、がやはり必要ではないでしょうか。
 他人との共存は、そこから始まるのではないかと僕は思っています。そしてそれをふまえてもなお、他者との関係をよりよくしていく意思があれば、きっと物事を少しずつでも変化させていくことができます。
アフリカの飢餓状態を解決するために、権力者でもない一介の留学生にできることはない。少なくとも彼らがそう感じているとすれば、それは彼らの自然な感情であって、まずはそれを認めなければ互いの共通認識はないですよね。
 たとえばわたしたちが、裸で誰の助けもなく無人島に放り出されたら、その島で絶滅しかけているかも知れない希少動物を保護するような余裕はないのです。自分が生き延びることだけでも困難なのに、どうして余分なことができるでしょうか。この喩えが的を得ているかどうかは別としても、自分中心でなければ生きていけない存在もこの世界には数多くあることを考えるべきだと思います。気分を害したとしたらすみません。


人から押し付けられるのが嫌いなのはわかります
でも、それを嫌うあまりに、相手の言うことを吟味する判断力すら育たないというのは、一番こまります。
状況に応じた「正しさ」というのは確かにあるのだから。
もちろん絶対ではないけれど。


言い過ぎましたね、キンピーさん、やりちゃん
確かに、ほかに言い方がありそうです。

わたしが腹を立てるとき、それは、例えば、途上国からの留学生が、自分はさんざん周囲の日本人に助けられながら、自分は同じ国からの留学生の友人に助けの手を伸ばそうともしない時。
「あなたが助けてあげればいい」
「あんたは同じ国出身で付き合いもわたしより長いよね」
「関係ないよ。僕らはプライバシーを尊重するんだ」
「明らかに相手が切実に助けを必要としていると判断できる場合にも?」
「助けてと頼まれたわけじゃないからね」
「お前は自己中なんだよ。いや、そうとうのボンボンだな。」
最貧国の人間とも思えん。

アフリカの飢えている人たちに、日本政府から月15万もらっているアフリカ出身留学生たちが、月千円ずつ出し合って助けないか、と言っても、「そんな余裕ないよ」と誰一人参加しない。
呆れるなという方がおかしいと思う。


naokoさん
では少し視点を変えてみてはいかがでしょう。

今のnaokoさんのような善意の示し方であれば、善意を受けとった相手は、naokoさんを傷つけないようするには、naokoさんが願ったとおりに振舞わなければいけなくなります。
そういうことが本意ではないこととは思いますが、結果的にはそうなってしまいます。

善意を受け取る相手も、naokoさんが自然に振舞ってくれた方が、その善意を受けとりやすいのではないでしょうか。
どんなに困窮しても、助けてもらっていると思われたくない人もいるのですから。


ぼくらはみんな
>理路整然と、おかしなことは言わないように

これは酷いな。他にもっと言い方があるでしょう。困った人が目の前にいて、可能な範囲でそれを助けようする者がいた。自分がそうしたいから、そういう者でありたいから。対象が本当に困っていたか、本質的に役に立ったか、などと考え出したらキリのないことですよ。

善意を受ける側は、「悪いが、もう少し頼む。」とも「ありがとう。充分だ。」とも言うことができる筈。こうした本来素朴な人々のつながりが、「これは政治の責任だ。民主主義社会の到来だ。」などと言い出す者が増え出したあたりから、互いの顔も見えなくなり、希薄化してしまった。進歩主義は、政治や行政への過信を加速するものです。

naokoさんて、そういう考え方をする人だと思っていたのに。

雨宮何某のスローガン「生きさせろ」。これほど醜い言葉が他にあるだろうか。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな自ら生きようとしているというのに。

>カーク船長

>平和に勝る正義なんて無い。
>平和に勝る自由なんて無い。
>平和に勝る平等なんて無い。

特に否定はしませんが、そうした学会チックな言い切りアティチュードこそ、あなたの批判している正義の味方の相貌でしょう。「言い切り」か、「その批判」か、どちらか一方にして貰えませんかね。私なら迷わず「言い切り」を選びます。

長寿と繁栄を。


意味がわかりません
>キンピーさん

人間相手に向かい合って触れ合っていて、何があっても傷つきもムカつきもしないなら、本気で向き合っているといえるのかな?

やりたいようにやってたって、普通にあるでしょ、そういことは。まともに人と向き合ったら、誰でもあたりまえに。
そうじゃないなら、かなりの上から目線か、先生様か、神様か。それこそ本心じゃ相手にしていない。じゃなきゃ相手を相当軽く見てるか馬鹿にしているよ。

理路整然と、おかしなことは言わないように(笑)。


人を殺してもいい正義なんて、正義じゃない。
人を殺して、正義といえるだろうか?
人の数だけ正義があるというが、人を殺してもいい正義なんて正義じゃない。

平和に勝る正義なんて無い。
平和に勝る自由なんて無い。
平和に勝る平等なんて無い。

見ず知らずの人を殺しておいて、自由を語るな、正義を振りかざすな。

世界では、正義の味方が、罪も無い人々を殺している。

世界では、自由を与えるといって、自由を奪っている。



naokoさん
ん~、外部の人間が出来るのはサポートですから、最終的にトラウマに向き合わなければならないのは、やはりその人本人ですよ。
こっちの行為が相手の気持ちに影響を与えるかもしれませんが、そんなのこっちの思惑どうりにいくはずもありません。
どんなに大切だと思った人でも、成るようにしか成らないのと一緒です。

分っておられる思いますが“義”というものに対して、naokoさんは正しいのであって、困っている人に手を差し伸べるなと言っているわけではありません。
困っている人に手を差し伸べるのに、向き合う必要が出てくることも分かります。
しかし「私はやりたいようにやっているだけ」と考えれば、裏切られたとか呆れるとか、そういうことも思わなくてもすみますよ。


おひさしぶりです
「正しさ」という基準は、その言葉の前に「~としては」とか「~に」という言葉が先行して初めて意味が通じる言葉です。

たとえば、「善きキリスト教信者としては正しい」
もしくは、「国家試験の解答としては正しい」
あるいは、「論理的に正しい」
などなと。

でも、「正しい」の前に「~は・~が」という言葉が先行したとき、とたんにヘンになります。

たとえば、「ジュゴンは正しい」
または、「太陽が正しい」
あるいは、「戦争は正しい」
とか。

つまり、「正しい」という言葉は、「~に・~としては」という言葉で、あらかじめその言葉の有効領域を限定したうえで始めて使い物になるものであり、逆に言えば所詮はその程度のものだと思えば、「正しい」という言葉も使いやすくなるでしょう。

ただ、「~は・~が」という言葉を「正しい」という言葉にくっつけて、よく考えれば文法的にヘンな主張も、過去を振り返ればある人間がごり押しして多くの人々に押し付け、大衆の「敵」を作っていたのは事実です。

たとえば、「お国のために死ぬ者が正しい」
あるいは、「共産主義を排斥することは正しい」
とか。

そのような歴史をふまえ、そういう「正しい」を使う人間がいたら、反射的に「それ文法的にヘンだよ」と思えれば、”人間的に大きな間違い”を犯さずに済むでしょう。

もちろん、「憲法9条を擁護する人は正しい」という言葉も、文法的にヘンだということはいうまでもありません。

実際、憲法9条を批判する人だけではなく、擁護の仕方の違いで相手を「悪い」という烙印を押して、「敵視」する人もいますので、まずは「正しい」という言葉の文法的に正しい使い方を心がけることも、”人間的に大きな間違い”をしない為には必要でしょう。


あと、お玉さまに質問です。

今回の中島みゆきさんのyoutubeからの引用のように、FC2ブログにyoutubeの動画画面を貼り付ける方法を、是非教えていただけませんか?

ちょっと昔には、記事編集画面にyoutube映像貼り付けボタンがあって、一発で貼り付けできたのですが、今ではそれが廃止になって、ちょっと困っております。

なにとぞ、宜しくお願いいたします。


正しいかどうかはわからないかも
弱者っていう言い方が出ているのでついでに言うと、弱い者をかばったりするのが正義、と単純には言えないってこともあるのかな。
 たとえばこどもを育てるにしても、大人に比べて力の劣る存在だからただ保護しておけばいい、ってものでもない。何もさせず成長させないでいれば、ふがいない人間のまま身体だけ大きくなるだけ。人のことを大切にすることは、その人の持つ人間味だとか能力だとか、可能性などというものを慮ることでもありますよね。立派になるんだよ、という一昔前の親の願いは、それを一面的に表しています。弱い存在であるこどもも、成長して一人前になる。生き物は概してそういうものですし、それはここで語られる「弱者」とは意味合いが違うとも言われるだろうけれど、まったく関係のないものでもないと思うのです。
 正しいことって何か。こどもを大金持ちに仕立て上げることではなくて、その子が幸せに生きられるように常に親愛の情を持って接し、ときには叱り、ときには支え、成長を見守ること、であると言ったら偏見であるか。誰がそれを正しいと決めるのか。わかりませんが、まずは人のことを尊重し、その発展を喜べることがひとつの指標かな、と思ったりします。正しさによって縛ることは、有る意味では間違いでないのかも知れませんが、それが結果的に間違いを引き起こす可能性を無視できません。
 決められたことだけを守ることで、物事を積極的によい方向に向けていくことが可能だろうか、という問いを考えます。お役所仕事とかいう概念があります。反対に、融通性という言葉があったり。ごく簡単に言ってしまえば、決められた正しさを遵守することと、よい変化を追い求めていくことはまったく違うものだ、ということではないでしょうか。正しい方法をとることでうまくいくことは現実に沢山あります。しかし、正しさ自体を目的にすべきではない。振る舞いを正すことで、結果として起きてくる事象にきちんと立ち会える、それが重要なのではないか。間違いは、正しさを気にするあまり、目の前の事象を受け入れる度量を失うことではないか。
 
 ま、あんまりつまらんことを書き連ねてもただの毒にしかならんので、もうやめます。


ん?
そろそろ私が普段言っていること、お玉さんに抗議した理由を理解してくる頃かな。
私がお玉さんをはじめ、批判してきた人たちに対して抱いてきた思いは、まさに本文のところにあるんだよ。

これを自覚できない人が、本当は戦争を惹起するっていうこと、いつになったら人類はわかってくれるんだろうか・・・。


ショックというのは自分が傷つくということ
 相手としっかり向き合えば、傷つかないではいられない。

 トラウマを他者の守り無しに、独りで埋められる人がいないのと同様に。

 だから対等に向き合うのです。キンピーさん。

 そして、それが出来ない人が、正義を振りかざすようになる。

 


コウトさん
そういうことがあるから、小さな声も無視してはいけないのであって、「絶対的な正しさ」なんて有りもしないもので、スッキリサッパリさせてしまうと、一時は効率的かもしれませんが、結果的に全体の生命力が無くなってしまいますからね。

naokoさん
声を上げる弱者が少ないのは実感としてそうですね。
落ちるところまで落ちた人は、ひねくれちゃっている人が多いですから。
基本的に悪党は少ないのですが、何か欠落している部分がある。それが何かのトラウマによってそうなっている場合も多々あるわけで、そこを埋めるのはやはりその人自身ということです。
しかし、そういうところに手を差し伸べて結果が思っていた事と違った場合、何かしらのショックを受けるということは、ご自身が相手に対して何かしらの要求があるということですから、それを捨てちゃえばショックを受けることも無いだろうと思うのです。
「ことさら」の事はしないで、ご自身が自然に振舞えば、腹立たしく思う事も少なくなるのではないでしょうか。
そういう接し方って、相手にとっても気が楽なんだろうと思います。


独善とか、勘違いかどうかは
実際に手を出してみりゃ、馬鹿でもわかる。
ただのぐうたらメタボホームレスは付き合えばわかるし、さらに付き合えば、救いのない過去と再起の意思の欠片もない今が見えてくるかもしれない。
あるいは、そのホームレスケアを飯の種にして、再起させることなど考えてもいない連中も確かにいる。

「弱いものの立場に立つ」という看板を飯の種とか権力の踏み台にしている奴らもうじゃうじゃいる。

だけどね、「声を上げる弱い者」なんて、やっぱりウソだ。
弱い者に、偉そうにしゃべれることなどありゃしない。
本当の弱い者は、飯の種にも何の種にもならん。
そんな相手と関わったら、個人的には損ばかりだ。疲れるし、裏切られるし、呆れるし、頭にくるし、ショックばかりだ。

徳もクソもあるものか!


正しさは所有できないんじゃない?
自分でもわけわからんこと書きそうですが。
 自分が正しいと思って人と争う気持ちはわかるんですけども、じゃあその正しさって何だったの?という結果になりがちですよね。正しいことは、人間に平和や安定や、幸福をもたらす限り善なのではないんでしょうか。
 私の正しさを認めよ、と迫る者は逆に、他者の正しさを認める要求にさらされます。で、本当に平和をもたらすのは何なのでしょう。互いの正しさを認め合うこと?そんなことは可能なんでしょうか?でも、そうでなければ人は一緒に生きられないのでは?
 私たちがともに暮らしている世界は、お互いのここがよい、ここが悪い、とか言いつつ、とりあえず認めておくしかないよね、で成り立っているようにも思います。あの国は許せん!と言い、実際にそれを態度で示すならば戦争になり、多くの人々が命を落とします。それが互いの正しさの証明であるとすれば、そんなことをすることがいったい誰にとって必要なのか、誰の正義であるのかを問わざるを得ません。生き残って、やはり我々は正しかったと言うことに、どれだけの重みがあるのかわかりません。それよりも、声にされずに消えていった正しさを慮ることの方が正しいと言ってみたり。


お節介でも独善にならない方法。
徳をつんだことを人にベラベラ喋らない。
これでOKです。

っで、正しさですが立ってる位置で、正義が違いますから難しいですね。
でも相手が立っている位置の規範に相手自身が反している場合は「おかしいんじゃないですか?」と言えるのではないでしょうか。


誰も相手の欠点や内面の話はしていない
見れば判るのは、助けが必要かどうか、だよ。
それがたとえ間違っていて、外れていたとしてもおせっかいが過ぎただけで、たいした悪影響はない。


<正しさ>
見れば分かる・・・・ねぇ。
見てすぐ分かるならどんなに楽か!!
じっくり聞いてみて、はじめに見て分かったつもりであったことなどまったくの見当違いだったことに気づく。私にはそういうことがよく有るのです。

『見れば分かる』ようになるには何か特別な感受性とか、<細かい>差違など気にしない鈍感力とか、そういうものが必須なのではないかとさえ思います。

もっとも私の知る限りでは、そういう<見れば分かる>派の人はかなりの<鈍感力>、もっと言えば<独善力>の持ち主ばかりでしたけどね。
『お前のダメなところはコレコレこうだ、見れば分かる』って分かったつもりのしたり顔で見当外れの説教をする奴のうざったいことったら!(笑)


お玉様も<正しさを振りかざす人>の攻撃に疲れてしまったのではないかと危惧します。
正しいサヨクで居るって大変ですよね。まぁ気楽にやってください。


コメント欄TBで失礼します
お玉さん、皆さま、こんにちは。

> 右も左も関係ない「争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く」お玉はただそれが嫌いなだけ・・・・・正しさは道具じゃない・・

まったく、同感です。
ただ、このごろの私は「彼/彼女らは、ある意味で貴重な応援をしてくれているのだ。非常に在り難い存在」と認識していますけど(笑)。

ところで、以下、コメント欄TBで失礼します~。

「国際オペレータ通話を存続させよう!(2)」
http://kihachin.net/klog/archives/2009/11/evolva091105_2.html


お玉さんは言葉遊びが好きなのでしょうか

何が正しいかを考える前に
誰が正しいか間違ってるかの基準を決めるべきなのか考えるべきだと思いますけど

同じ行為であれ基準も変われば正しいかどうか結論も変わるし

数式と倫理は違いますから。私には正しさを基準にするお玉さんの考え方は宗教的、絶対的な何かに拠り所を求めているようでちょっと怖いですね


こんにちは、正義です。
私は「私は正しい」と思ってますよ(笑)。
そして「正しさは道具」であるとも。

言うまでもなく、正しい者・強い者には義務が生じます。自らの持てるものを社会に返還する義務が。
それゆえに、「正しい」者は自らの正しさをより精確なものにしてゆく義務が加算される。己の存立基盤である「正しさ」を、常に自己批判し、磨き上げられた「正しさ」でもって社会からの希望・期待に答えなければならない。
あらゆる職業・あらゆる人格がそうであると考えます。そうして社会に参加する、だから『正しさは道具』。

そのように考える私は、当たり前のことながら『私は正しい』と考えます。「私は正し」くあるための努力を絶やしてはならない。強さ・正しさは道楽や自己実現でやるのではなく、社会に対する義務として存在するのだから。


問題が生じるとすれば、己の権力己の金力己の腕力己の知力を、天から賦与された当然自明のものと誤認し、趣味や道楽ないし自己実現のためにこれらを振るう時でしょう。
「私の正しさ」は、他に返すためのものであり、その為にこそ質の向上が不可欠。これを、他に返すつもりもなく、自分の気持ちを満足させるために使うならば、それは子供に銃を持たせるようなもの。子供は銃の腕を磨くこともせず、弾薬の管理もせずに、通行人に向けて発砲する。『正しさの勝利が気分がいい』から。


目の前にいる人間が
たとえ何も言わなくても、その人間が助けを切実に必要としているかどうかぐらい、わかりましょう。

愚鈍は声も上げられないの!
教育のない馬鹿の言うこと、誰がまともに聞くものか!
それが判ってるから声を出せない。

「何も言わないから、たいしたことないと思った」とか言う奴は、経験浅いよっぽどの抜け作か、金持ちボンボンか、他者に冷淡で無関心か、人の苦しみを楽しめる鬼畜かってとこだね。

ま、大体、乞食と愚鈍は人間の数に入っていない。どこの馬の骨だ。

そうじゃなきゃ、見りゃ判るだろ!


Sound of Silence
声なき声を聞く・・・。
サイレントマジョリティという言葉もありましたっけ?

ただ声なき声は無声であるが故に、聞く者の素質によっては独善になるわけで、<声なき声を聞いている>と主張する人は・・・その、どうも信頼する気にはなれないのですけどね。

<声なき声>をねつ造してるんじゃないか? ねつ造するつもりが無くても、勝手に<声なき声>を聞いたつもりで居るんじゃないか?と。

声を出せない人に声を上げる手伝いをするのはとても大事だと思いますが、やはり声を出してもらわなければ何もできないし、するべきでもない、<独善の害>に比べれば、<声なき声の圧殺>のほうがまだマシなのではないか、とさえ思うのです。


弱い者…
本当に弱い者は声を上げない。
「ご自分のことを語ってください」と、誰がどんなに尋ねても「みんな忘れた」という。
「原爆のことはみんなわすれちゃった」
「水俣病のことはわすれた」

そして、周囲からは陰口を叩かれ、親族からも見捨てられ、誰からも顧みられることなく、独りで死んでいく。

「あの人はあの人の考えがあるんだ」
と、自分はぬくぬくとしたところから眺めて、ほうっておく兄弟・親族。

さらに弱い者を叩く、ご近所の弱い者達。いじめるのが楽しいのだ。

そんなしょうもないところに手を出す酔狂な政治家はいない。役所も見ないふり。
「死ぬまでほうっておこう。」

誰が弱者の側に立っている?
本当の弱者は誰からも見えない。見られていない。社会の透明人間だ。
生きながら死んでいる。
一顧だにされず無視されている。

これほど腹の立つことはない。
声を出せない者達の悲痛な声が聞こえないか?


「正義の押し売り」感
 それでいいんじゃないでしょうか…と勝手にお墨付きをだしておきます…いらないでしょうけど…ブログなんて、とんでもなくいい加減で頭のネジが300本くらいは軽く抜けてる人たちがやってるものだと相当確信してるので、匿名の人たちが「何言ってるんだか」などと思ってもいるんですけど…それでも、こちらブログのどの記事でどこで読んだのだか、忘れましたけど…記憶が曖昧なのは、私がいい加減だからですけど…さりげなく「今後も平和運動を続けていく」みたいなことを書いてあるのを見て、この人は「おぉ、本気なんだ、この人」と(軽く)感動したことを憶えています…「本気」と書いて○○と読む。。。冗談です…討論番組にも参加されたり、伊勢崎さんのインタビューと、9条の会での活動と…9条の護憲運動が正しいのか、私にはわかりません…けど、進む道が正解か何て、私にも誰にもわかりませんし…どこかで誰かが言っていたことを思い出しましたけど…後悔を恐れず、意志を持って事を成し、人に流されず…「ちょーヘタレ」の私にはとてもできそうにありませんが…信じる道を進めばいいことがあるってこと何でしょう…
 こんなこと書くと、「お玉マンセー」と「お玉信者」とか…なるんやろか…なんでもいいわ…たこ焼きなら、しょうゆでも、ソースでも、マヨネーズでもいいけど、タコは入れてなぁという話ですけど…わかるかなぁ…お好み焼きには、天かすをたくさん入れてぇな の類似品です



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